熱中症ブリッジのち、満腹休暇

「ぐ……う……おはよう……ございます……」


 吾輩は猫である。そしてあるじはブリッジをしている。仰向けになって背中を地面から離し、ぐっとおなかを天に突き出すように反る、あのブリッジである。

 あるじはブリッジをしているから、苦しそうにしているのだ。そしてその状況で電話をして挨拶をしているのだ。


 何故なぜような状況になっているのかを説明せねばなるまい。

 話は昨夜さくやにまでさかのぼる。はやはなしが、あるじ夜更よふかしをしていたのだ。スマホというてのひらサイズの光る小さな板を夜中まで見ており、夜中になって寝たのだが、エアコンから冷風も出ている中、驚異的きょういてき寝相ねぞうによって頭側と足側をひっくり返し、仰向けのままおなかを出して上半身が半分ベッドの外にずり落ちながら寝ていたのである。よくもこのようなさまで寝れたものである。そして朝を見事に寝過ごし、寝坊をした挙げ句、朝食も食べずに慌てて家を飛び出したのだ。


 おそらくそれらすべてが積み重なったのだろう。あるじは朝に出掛けてからぐに帰ってきた。そして、


「きもちわるいー」


 と言いながらしばらくシャワーを浴びていた。

 猛暑もうしょである。そうるのは必然だ。睡眠と食事は基本である。今はおそらく水のシャワーでも浴びているのかもれぬ。しばらくは出て来なかったが、ぬっと出て来たあるじしばけっとしていた。だが急に電話をと言い出し、今、会社に電話をしているところなのである。スマホは電話にもなるのだ。


 そして、冒頭に紹介した有り様なのである。

 あるじは自分の惨状さんじょうを会社の人間に伝えている。


「熱中症……みたい……で……休みたい……でぐ……」


 苦しすぎて、「です」が「でぐ」になってしまっている。調子悪そうだねという声がスマホから聞こえてくる。


「はい……ちょっと……苦しい……でぐ」


 苦しいのはあるじがブリッジをしているからである。

 吾輩はどうにもあきれてしまい、みずからわかるほど、うわまぶたが半分くらい、瞳にかぶさって来た。

 そもそもブリッジをする必要性はまったく無いのである。会社に電話をするなら普通に電話すれば良いのだ。いくら気持ち悪かったとはいえ、このようなみずから苦しそうな声を生み出す詭計きけいろうするとは最早もはや仮病けびょうに近いのである。ブリッジをして苦しみの声を出すなどというたくらみを、一体何処いったいどこで覚えたのだろうか。まったく小癪こしゃくなものである。

 さて、あるじは熱中症という理由で会社に休むという電話連絡をしているのだが、あるじとしてはあくまでも、「苦しいので休みます」という方向に持って行きたいようだ。

 だがそもそもだ熱中症と苦しいというのは関係する症状なのだろうか?熱中症の時に苦しいというのは、吾輩はついぞ聞いたことがないのだ。矢張やはり主は何ともなく適当というか、いい加減かげんようである。


「はいすいません、よろしくおねがいしまぐ……」


 ぷつっ。


「ふぁー」


 電話を切ったと同時に全身を脱力させ、お尻をどすんとベッドに落としたあるじは、吾輩のうわまぶたが瞳に半分くらいかぶせながらあきれてあるじを見ているのを絶妙な表情で見返してきた。


「ねこー。そんなジト目で見ないでよぉ。熱中症になったのは、ほんとなんだからさぁ」


「ブリッジは演出よ。えんしゅつ♡」


 あるじは休めることになった所為せいか、どうにも上機嫌である。


「おなかすいちゃった♡」


 安心したら腹が減ったようである。朝食を抜いているので無理はない。主はさっきまでの苦しそうな様子が嘘のように立ち上がり、すたすたと台所に行く。大丈夫なのであろうか。しかし主は鼻歌交じりで冷蔵庫を軽やかに開けた。


 吾輩はあるじわきから冷蔵庫を盗み見る。冷蔵庫はすべからたから宝庫ほうこである。ここに様々な人生の希望が眠ってるのだ。しかし冷蔵庫が開いている瞬間はほんの一時いっときである。これはつぶさに観察し把握せねばならない。

 観察してみると、吾輩が確認出来ただけでも、ほうれん草、トマト、レタス、ハム、納豆パック、キムチのパック、胡瓜きゅうり、卵、豚肉、あとは冷やし中華のタレと袋麺ふくろめんが見て取れた。


「冷やし中華食べたいけどなぁ。作るのめんどいしなぁ。朝はとりあえず豚丼にしよ」


 豚肉は夏バテ予防に適した食材である。ビタミンB群が含まれているので、炭水化物などの糖質をエネルギーに変えてくれる。つまり疲労感やだるさを防ぐ食材なのである。

 あるじは豚肉のパックをぱりぱりとやぶき、フライパンで焼き始めた。これは非常にうまそうな匂いが漂って来てたまらない。醤油と味醂みりんとしょうがチューブを適当に垂らしている。どうやら簡単な生姜焼きのようなどんぶりものにするつもりらしい。これは朝から中々のものである。


「納豆も食べたいな」


 主は納豆も用意し始めた。そうなるとこれは納豆と混ぜる付け合わせも考えねばなるまい。納豆の付け合わせとして冷蔵庫にあったもので適しているのはキムチである。おそらく納豆キムチになるであろう。これには吾輩も上機嫌になって来る。


 納豆キムチも豚キムチも、これは両方にキムチがくっついている。つまり、納豆豚キムチはおそらく味としてははずれになることはまずないであろう。吾輩はこの三者を一様いちようしょくしたことはないが、これはつまりキムチを通して納豆と豚肉という異種が邂逅かいこうすることになる代物である。キムチはこの異種同士の橋渡し役をしている、非常に重要な役割を担っているのだ。

 ましてや豚肉は簡単な生姜焼きのような味付けをしている。これは一体どのような味になるのか楽しみでならない。

 吾輩はすでにあるじにもらった朝食を済ませてはいるが、このような予想のつかぬ素晴らしい食事であればいくらでも歓迎する。


 主は納豆を取り出し良く混ぜ、キムチも取り出してこれも納豆と良く混ぜて行く。そしてあつあつのご飯の上にかけると、そこに生姜焼き風の豚肉もかけていく。朝から豪勢であるが、猛暑の中働く場合は特に、朝食はこのくらいしっかりと摂ると良い。これに加え味噌汁があれば塩分も補給できて完璧なのである。

 しかし納豆キムチ豚丼からは、確実に旨そうな匂いが漂ってきており、吾輩は思わず前足で主の膝の辺りにしがみつき、吾輩の正当な主張をするに至った。



吾輩は納豆キムチ豚丼を歓迎するなあ~うう~うぅ~


「だめだよー。キムチにはネギとかニンニクも入ってるんだからねー」


 現実は厳しい。世の中は世知辛せちがらい。一寸先いっすんさきやみ禍福かふくあざなえるなわごとしである。ねぎ大蒜にんにくは素晴らしい香味野菜なのだが、何故なぜか猫族にとってはどうも駄目だめらしい。


 しかし他にも問題はある。あるじは野菜をまだ用意して居ないのだ。冷蔵庫の中にあったもので夏バテに効くのは、ほうれん草であるが――


「んー♡美味い美味い。んぐ♡」


 駄目だ。もう食べてしまっている。間に合わなかった。ほうれん草には鉄分が入っていて夏バテに――


「はふはふ♡」


 納豆とキムチと豚肉はさぞかし御馳様ごちさまなのであろう。しかし食欲があるのなら、ある時に食べておいたほうが良いのかも知れぬ。


 そして、この後も夏バテ対策の食事を摂って行かねばなるまい。


 今から昼飯ひるめしが楽しみである。

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吾輩はグルメである 遥風はじめ @hajimeck

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