きゅうりはたたいて欲しいのだ

 暑い。最近、特に暑くなってきた。夏も盛りで、外はうだるような暑さである。

 いきなりだがこの「うだるような」という表現は元々、「だるような」から来ている。暑すぎて茹で上がってしまうという意味である。ただ、リビングの中は其処そこまでの暑さではない。多少蒸し蒸しとはするが、部屋の中は茹で上がるほどではない。あるじは今日も仕事に出かけているが、エアコンというものを作動させておいてくれている。これのお陰で心地よい風がそよそよと流れて来るのでそこまでの暑さではない。ちなみにエアコンとは天井にほど近いところにある白い箱だ。ここから何やら冷たい風が出てくる仕組みである。このエアコンから最も遠い場所、玄関近くのところは蒸し蒸しとしていて、そこに近づくとうるさい蝉の声が扉の向こう、割と近くからじゃあじゃあと聞こえて来る。


 それではそろそろ、あるじ昨夜さくや買って来て、冷蔵庫にしまってある食材について語るとしよう。吾輩が特に憶えているのが、透明な袋に入っていたきゅうりである。主もこのきゅうりについては、

明日あした食べよー」

 と言っていたので、おそらくは今夜調理するはずだ。

 きゅうりは緑色の棒状の野菜である。水分を多く含んでいる印象だ。新鮮なきゅうりは硬くて刺々とげとげしっかりと出ている。買う時は刺々とげとげを袋の上から撫でるようにさわって確認してみると良い。ただし、無闇矢鱈むやみやたらにバラ売りの野菜などをぺたぺたさわるのは感心しない。これは人間の作法マナーの問題もあろうが、そもそも我々猫族も自分のしょくさぬ獲物は必要以上に関わり合いにならぬものだ。窮鼠猫きゅうそねこむという事に成りかねん。

 無論むろん読者諸君どくしゃしょくんの中にはそのような不届者ふとどきものらぬだろうが、念のためである。

 さて、きゅうりはその水分の多い性質上、冷菜に使われることが多い。なので今日はきゅうりの冷菜について語っていく。きゅうりと合わせてうまいのは、塩気のあるもので言えば梅干うめぼし、搾菜ザーサイ塩昆布しおこんぶなどである。

 これに胡麻油ごまゆと、好みでお酢や砂糖を加える。

 さらに食べ応えのあるものを加えるとするならば、ツナ、竹輪ちくわまぐろ蟹蒲カニカマたこ、鶏ささみなどを追加すると副菜としてなかなかもっ上々じょうじょう出来できとなる。

 味付けの妙味みょうみとして茗荷みょうが若布わかめ木耳きくらげ、白ごまを加えたりするのも香りが立ったり、おもむきがあって良いと考える。

 もし塩気のある梅干しなどがなければ、最初から出汁醤油だしじょうゆや白だしなどを用意すれば良い。無論むろん普通の醤油でも問題はない。それに食べ応えのあるものを合わせれば良い。


 今思い出したのだが、確か我が家の冷蔵庫には梅干しが入っていた。主がきゅうりと一緒に使っているところを見かけたことはないが、梅干しは今回のきゅうりの冷菜れいさいにうってつけである。これはかなり期待が持てる。梅きゅうりと洒落込しゃれこめるわけである。


 きゅうりの切り方だが、最も簡単なのは百円均一の薄切器スライサーを使い、薄切りにすれば良いが、


 がん。


 吾輩としてはぜひ「たたき」をやってもらいたいので……ある?


 がん?何事なにごとだ?

 窓のところだ。

 そろそろと近づき見てみる。何やらせみが仰向けになって、もがいてる。これはぜひ獲って行って、あるじに見せてやらねばなるまい。あるじは吾輩と違ってまだ狩りが未熟であるから、吾輩が先輩として狩りの手本を見せて遣らねばなるまい。吾輩が主の前まで持っていってぽとりと落としてやれば、主も吾輩の狩猟能力に感激し、真似をして狩ろうとするだろう。よし。


 くっ。このっ。透明なっ。窓っ。


 だめだ。いくらやっても手が届かない。疲れてきた。今回は見逃してやることにする。一寸いっすんの虫にも五分ごぶたましいである。


 何だったか。そう。きゅうりのたたきをやってもらいたいのだ。きゅうりのたたきというのは、きゅうりを切らずに押しつぶす調理法である。こうすることによって、でこぼこの断面から味が馴染みやすくなる。

 たたきのやり方は別段難しいものではないのだが、その前に果粉かふんを取ってほしい。果粉を取ってから、たたく。この順番なので、順番通りに説明して行こう。

 まず、果粉かふんというのはきゅうりの盛り上がっている部分に見える点々とした白い粉のことである。これはきゅうり自身が水分蒸発などを防ぐために分泌ぶんぴつしているものだ。これは取れるものなのだ。

 果粉かふんの取り方だが、きゅうり一本に対し、塩小さじ一杯分をまぶし、手できゅうりをごしごしとこする。塩小さじ一杯分はなかなかの量だが、後ですべて洗い流すので、思い切り良くまぶすことが肝要である。そしてざらざらとした感覚がなくなるまでこする。その感覚がなくなれば果粉が取れた兆候ちょうこうである。ざらざら感がなくなったら、水でさっと洗い流せば良い。洗い流すときゅうりの白い点が見事に無くなっているのが見て取れるはずだ。

 この工程をしっかりとやることできゅうりは驚くほど青臭くなくなる。果粉は水分蒸発を防いでいるので、それがなくなることで爽やかなきゅうりの本来の香りが皮からも立ちのぼってくるのだ。これだけで料亭の味に負けない出来になる。くれぐれも言うが、塩小さじ一杯というのは驚嘆びっくりする量だから、臆せず小さじ一杯たっぷりまぶしてごしごしするのだ。


 むっ。玄関近くでコツコツとヒールの音がする。主が帰ってきたようだ。今日も大分日が落ちている。主は例によって腹が減っているに違いない。


 さて、きゅうりのたたきの話に戻る。いよいよこれでたたきの準備が整った。たたきは、まな板の上に乗せたきゅうりを木べらや麺棒でぐっと押しつぶし、割れたきゅうりを切りそろえ、縦にくだけである。この時、割れ方が甘いと感じたら、少しきゅうりを回転させてから押しつぶしてやると良い具合に割れる。

 良い形で割れたら、きゅうりの横の長さを、食べやすく包丁で切り揃える。

 その後の縦割りは無論むろんゆびる。折角せっかく木べらで潰したのだ。長さを揃える以外は出来るだけでこぼこ感を出して行きたい。指で割り開いて、三等分か四等分程度にして行く。大体で良い。


 主が部屋に入ってくる。どうも今日はほんの少しばかり感情がたかぶっているようだ。何やら憤慨している。


「ねこーただいまー!今日は飲むよー!飲まなきゃやってらんないよぉ」


 人間社会では、生活していくために安定収入を得て、何やら分業しながら複数で金儲けをしているようだ。そんなやり方で生きているのなら、我々単独行動の猫族と違って、他者との関係での重圧やいさかいが絶えないのだろう。その鬱憤うっぷんを酒で晴らすということである。


 主はさっさと風呂に入り終え、冷蔵庫をおもむろに開ける。中から人参、じゃがいも、玉ねぎ、牛肉、しらたきを取り出す。これはもしや肉じゃがであろうか?酒のつまみとしてはなかなか手の込んだものを作るようだ。


「ふふふ、その前に♡」


 主は杏露酒あんずしゅときゅうりと味噌を取り出す。そして杏露酒をグラスに注ぎ、きゅうりのへたの部分だけをかじり、シンクにぺっと吐き出す。味噌の入った容器の蓋を開け、味噌をスプーンで少しすくい、先ほどかじったきゅうりの部分につける。


 まさかそれは!?あるじ、それは一寸ちょっと待て。


 ぽりっ、ぽりぽりぽりぽり


 ごくっごくっ……


「んーっ♡うめーっしゅ♡」


 それは杏露酒あんずしゅだが。


 もう破茶滅茶はちゃめちゃである。たたきをやらないどころか、果粉も取らずに味噌をつけてそのままかじりついてしまった。お手上げである。おまけに梅酒ですらない。


 吾輩は先程まではあるじの周りをうろうろしていたのだが、精根尽き果て、例の座布団の上に座りふんと溜め息を吐き、手の上に顎を乗せて丸まった。


「さあー肉じゃが作ろっかな♡」


 成程なるほど。つまみを作るために、飲みながら作るための簡易つまみということらしい。それは理にかなっているし、単純な味噌きゅうりも中々にうまいものである。


 肉じゃがはさぞ御馳様ごちさまであろう。これは楽しみである。

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