吾輩はグルメである

遥風はじめ

食えぬ魚肉ソーセージ

 吾輩は猫である。名前はまだない。というより今はおよそ名前なんぞ語っている場合ではない。吾輩は今しも、ひらいた冷蔵庫の片開き扉のふちに手を掛け、後ろ足は流し台に踏ん張り、落ちてしまわぬように身体を大きく弓なりに伸ばして、なんとかこらえているところなのである。

 あるじの仕事に出掛けているすき食物くいものを調査すべく流し台に登り、冷蔵庫の扉を手で押し開いたまでは良かったが、ひらいてく扉の収納棚に魚肉ソーセージを見つけ、つい手を伸ばしてしまったのがことの始まりであった。

 体がどんどん伸ばされて行く。引くに引けない状況になってしまっている。このままでは無様ぶざまに床に打ち倒される羽目はめになるかも知れぬ。余りに低い高さであるので、いくら吾輩の優れた運動神経をもってしても空中で態勢を整えられるか一抹いちまつの不安がある。

 だが普通、魚肉ソーセージを扉の収納に立てて置くものだろうか。そんなところに立てておいたら思わず手が伸びてしまうのは必然ひつぜんではないか。魚肉ソーセージたるもの、しっかりと冷蔵庫の奥の棚に寝かせておくのが常識というものであろう。しかるにこの状況はまったくもってあるじが妙な置き方をした所為せいである。

 そんなことよりどうしたらよかろう。よもやこのような事態になるとはちっとも考えが行かなかった。思案を巡らせている間にもおなかとせなかがぐうと引き伸ばされてゆくのがわかる。これは絶体絶命である。なんとか下腹かふくに力を込め、扉を渾身こんしんの力でもって引き戻すか。それとも思い切って後ろ足を蹴り、片開き扉の方に飛びついてみるか。そうすれば一旦開き切るところまで行き、開ききったら反動で流し台の方へ戻るのではあるまいか。よし。このまま手をこまねいていてもどうにもならぬ。いちばちかやってみるか。うん。ここはやらねばならぬ。


 ばん。がん。いてっ。しゅたっ。


 頭をしこたま打った。痛くてかなわん。しかし最終的には華麗に着地をめることができた。これもひとえに吾輩の驚異的な均衡バランス感覚としなやかな筋肉、そして衝撃を吸収するこの肉球の為せる技である。


 冷蔵庫の扉は、吾輩が起こしたどさくさで、なんだかしゃくにさわるくらい上品なおもむきで、すうと動いてぱたんと閉まった。吾輩が額を打ちながら乾坤一擲けんこんいってきの大勝負をしたというのに済ました感じがなんだか気に食わぬ。

 まあ、なんだ。それはかく、吾輩のことについて少し語るとしよう。吾輩はこの家に来る前、格式あるそれなりの豪邸に住んでいたのだが、実のところ何故かそのことについてはあまり記憶がない。あまり良く思い出せないのだ。まあこのことについては、思い出せたらまたおりを見て語るとして。


 吾輩はこの家に来てしばらくは観察、様子見に徹した。人間は誰がいるのか、人間以外のものはどんなのがいるのか、またどのような生活習慣なのか、暖かいのか寒いのか、心地良く収まれそうな所はあるのか、寝床はあるのか。きちんと把握できるまでは無闇矢鱈むやみやたらに動き回らぬ方が良い。二日ばかりじっとして、目に見える範囲内で動き回るだけとしていたが、吾輩は今朝から、愈々いよいよ猫を被るのは止めにして、今住んでいるすべての環境を把握すべく、新しい住処すみかを調査しようと思い、居間から玄関、ベランダ、台所に至るまで調べていて現在に至っているのであるが、大体の調査の結果、ざっくりと次のことがわかった。


 この家には土間どま縁側えんがわもない。地面が下の方にある造りだ。なんでも集合住宅というらしく、階層が重なって大きな一つの建物に沢山の人が詰物つめもののようにぎっしりと住んでいるらしい。吾輩がいる階層は差し詰め三階から四階程度と見た。今いる階層より上は空しか見ることができないのでわからぬ。

 このような集合住宅、ぎっしり詰め込まれているのは一見それはどうにも窮屈きゅうくつなように見えるが、我々猫族というのも窮屈な入れ物にすっぽりと収まるのがことほか心持こころもちであるので、気持ちはよく分かる。昨今では人間も、住処の間取りが手の届く範囲である心地良さを理解し始めているのかも知れぬ。猫族の文化水準に人間の文化が追いついてきた様で、おおいに結構である。


 あとは大体この家はぢんまりとはしているが、別段変わったところは見受けられない。となると矢張やはり吾輩が最も興味を持っている場所は、


 台所である。


 さて、あのりそこねた魚肉ソーセージである。吾輩の額の丁度ちょうどど真ん中のところ、人間達の言うところの猫のひたい。この狭い場所がまだじんじんと痛むので再挑戦する気はないが、その代わりにこの魚肉ソーセージについて、少し語るとしよう。

 魚肉ソーセージは獣の肉のソーセージと違って、瀟洒さっぱりとしていて、ずサラダに合う。レタス、トマト、胡瓜きゅうりなどを適当に切ってうつわに散らしたら、斜め薄切りにした魚肉ソーセージをのまま加え、ドレッシングをかければ完成である。この時、横にした魚肉ソーセージに対して直角に切る小口こぐち切りはあまり感心しない。見た目としても斜め薄切りのほうが洒落しゃれているし、何しろ小口切りだところころと転がっていってしまうのだ。まな板の上から外れてころころ流しや床に落ちてしまうと非常に歯痒はがゆい思いをする。だから斜め薄切りが一番良い。


 さて、一寸ちょっと洒落しゃれたサラダを作りたいなら、具材をさいの目状に切るコブサラダというのがある。魚肉ソーセージをさいの目状に切ったら、先程も出たトマト、胡瓜きゅうりに以外にも鰐梨アボカドたまごなどを切り刻んで、具材ごとに区分けをしながら盛り付け――ここは見た目にも重要な点である――すれば良い。ちなみに細く長い胡瓜きゅうりや魚肉ソーセージは、一旦コブサラダの場合は縦に切れ込みを入れてから小口切りにすると転がらないので手間がかからず楽である。他にも鶏肉とりにく、人参、大根、株なども、茹でてから入れるとこれもまた良い。要するに大抵何でも良いのだ。茹で海老、豆なども良い。およさいほどの大きさであれば良い。


 また魚肉ソーセージは、焼くのも美味びみである。油をほんの少し揚焼鍋フライパンに引き、なるべく熱する面積の大きくなるように、魚肉ソーセージを薄く削ぎ切りスライスにして揚焼鍋フライパンの上に並べる。中火で焼くと少しずつ水分が失われ、かりかりに焦げ目がついて香ばしくなる。この水分の抜け具合と焦げの付き具合の均衡きんこうが最も肝要である。あまり強火でやり過ぎると焦げばかり付いてしまい苦くなる。また弱火で時間を掛け過ぎると水分が抜けきってしまい、これはこれで勿体もったいない。中火でほどほどのかりかりに焼き、水分を残しておくのが好ましい。ちなみにカリカリと呼ばれる我々猫族の食べる乾燥餌かんそうえがあるが、これはまた別物である。


 さらに、このソーセージにねぎなどの香味野菜を入れて香りを足したり、塩で下味したあじを付けた溶き卵を加えて軽く火を入れかき混ぜ、柔らかい触感を足したりするとさらに良い。何か他の野菜やらを足してみるのも良い。ただ、折角せっかく魚肉ソーセージを焼いて水分を飛ばしているので、水気が出てしまうようなものは避ける。




 さて、魚肉ソーセージの調理法などを彼是あれこれと考え、きょうっていると、玄関の外でコツコツとヒールの足音がした。あるじが帰ってきたのであろう。そのあと何やら、がさごそと音がしている。これはかばんから鍵を探し出している音と見た。外も大分だいぶん日が落ちてきて暗くなって来ているから、あるじさぞかし腹が減っていることだろう。


 そういえばあるじが帰ってきたので思い出したが、吾輩の名前の無いのは、まだこの家に来てから幾日いくにちも経っておらぬからである。あるじがまだ吾輩の名前を決めかねているのか、はたまた吾輩に名前を付ける気がないのか、吾輩を呼ぶときに『ねこー、ねこー』と声を掛けて来る。如何いかにも吾輩は猫族ねこぞくであるが、種族しゅぞくの名前でその者に呼びかけるは如何いかがなものであろうか。おそらく今日も、吾輩が玄関にて迎えるにあたって、また種族の名前で吾輩を呼ぶのだろう。取り敢えず今のところは返事などしてはいるが、なんとも判然としない心持こころもちになるので、早いところ名前を決めてほしいものである。

 玄関扉の錠がガチャリと回る。扉が開いて主が入ってくる。吾輩を種族名しゅぞくなで呼ぶのであろう。それとも吾輩の名前を考えてくれたか。吾輩を名前で呼んでくれるのか。どうなのだ。


「ねこー、おかえりー」


 おかえり!?おかえりは此方こちら台詞せりふである。種族名しゅぞくなは予想していたが、本日は予想の遥か斜め上からの挨拶であった。


「おなかすいたよー」


 腹が減っているようである。あるじは買い物袋をどさりと食卓の上に置き、何やらはあーっと溜め息をき、上着を脱いだり鞄の中をがさごそとっている。

 吾輩は最初、あるじに気を取られていたが、買い物袋から多種多様な匂いがしてくるので、その中の匂いの詳細について把握しておかなければならなくなった。くんくん。なんだか様々さまざまうまそうな匂いがする。


「冷蔵庫にしまうよー」


 鞄の中のがさごそが終わったあるじが買い物袋の整理に取り掛かるようだ。袋を冷蔵庫の近くに持って行き、冷蔵庫の扉を開けて中の物をしまっていく。


「これは今日使うやつ」


 何やら一部の野菜と肉は脇のキッチンシンクのところに置いている。今夜の夕食で使うようだ。そしておもむろに冷蔵庫の扉の収納にあった魚肉ソーセージもキッチンシンクに置く。吾輩が頂戴しそこねたやつである。


 これは期待が持ててきた。吾輩にくれるのであろうか。それとも今夜のあるじの夕食に使うのだろうか。いや、ここは吾輩が欲しいところである。


くれ。その魚肉ソーセージをんなーーーあーうーー。」


「だめだよー、これは、ねこにはあげられないんだよ。添加物が色々入ってるからねー」


 添加物など知らぬ。吾輩は魚肉ソーセージをしょくしたいという一心で、今日という日を一生懸命に生きてきたのだ。すべてこの魚肉ソーセージのために縷縷綿綿るるめんめんと語ってきたのだ。何が何でもそれが欲しかったのだ。


「だめだよー。これは人間用だからね。ねこにはあげられないよ」


 駄目なのか。添加物というのは一体何なのか。そんなに駄目なものなのか。吾輩としてはここまで語っておいて食えぬとなると、あとはもうあるじに託すしかない。せめてうまく調理して食べてもらわねば吾輩のたましいも浮かばれぬ。第一話であるが短い一生であった。魚肉ソーセージを中心に吾輩は生きてきたのだ。


 ところがあるじは魚肉ソーセージの端のフィルムをぷちっと剥がし、なんとそのままかぶりついてしまった。


「んー♡、んぐんぐ♡」


 うまそうにもぐもぐと食べるあるじ。なんとそのまま食すとは。これには吾輩も開いた口が塞がらない。


 主はそのまま風呂に入るようだ。浴室の方へ行き着替え始めた。吾輩は座布団の上に丸まり、ふんと溜め息をついて、猫の手の上に顎を乗せた。風呂に入る前につまみ喰いをするとは、余程腹が減っていたと見える。


 まあ本人が御馳様ごちさまならば、それで良いか。あとはキッチンシンクの上にある野菜と肉をどのように調理するか、だ。


 見届けなければならぬ。

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