第4話

 お腹を空かせたお姫様に美味しくて栄養のあるものを食べて欲しくて。

 その一念で、骸骨は干からびた頭蓋骨の奥の、あるかどうかも知れぬ記憶の保管庫から、少しずつ自分のことを思い出し始めた。


 名前はナイゼル・ギュスターヴ・クレマン

 魔法使い


(牢獄に閉じ込められた罪状は――)


「ナイゼル、今日はおひさまの光が入ってきて、あたたかいわね」


 ルシエルは、三日かけてナイゼルの呼び出した食べ物を口にし、元気になりつつあった。

 微笑みは初めて会ったときと変わらず輝いていて、頬にも張りが戻っている。

 しかし、汚ればかりはどうしようもない。なにしろ、この牢獄には一度も清掃の手が入ったこともない。

 時折、ドアの高いところにあるのぞき穴から、何者かがルシエルの様子を確認していることに、ナイゼルは気づいていた。「不審に思われないよう、俺の影に隠れて、顔を上げないで。あいつらはどうも嫌な感じがする。君が元気だと知ったら、何をするかわからない」と、ナイゼルはルシエルに忠告をした。ルシエルは素直に「わかったわ」と頷き、人の気配が近づいてくるとナイゼルの側に近寄ってきて、その隣で膝を抱えて座り込んだ。


「死んでいるのか? 食事を取らなくなってどれくらいになる?」

「それが、ときどき中を歩き回っているようです。幻覚でも見ているのか、話し声も」

「ふん。まあいい。だいぶ弱っていたはずだ。すぐにでも死んで、生贄としての責務を果たすだろう。『稀代の魔道士ナイゼル』に、これ以上この国を呪われてはかなわん」


(何を言っている? 呪い? 俺が?)


 ナイゼルは話し声に耳をすませる。まったく、知らない声だ。 

 身動きできないだけに、視界にいないときのルシエルの様子を目にすることはできないが、いまの話をどう捉えているのか、ふと興味をひかれた。

 話し声と足音が遠ざかってから、ナイゼルは「お姫様」とルシエルを呼んだ。


「お姫様はどうしてここに閉じ込められたんだ? 外の世界で何をしたんだ?」

「……」

「いや、答えたくないなら良い。忘れてくれ」


(理由はどうあれ、この子は誰かに死を望まれている。それに気づかぬほど幼くはない……。くそっ、もっと、もっと魔法が自由に使えたら……! 地獄の死神でも、煉獄の悪魔でも良い。俺の意識を死なせずにここに留めた何者かよ、俺の願いを聞け。俺は、俺はこの姫を助けたいんだ……!)


 かつてないほど強く、ナイゼルは心の中で叫んだ。

 魔法でも呪いでも良い、姫を守り助ける力よ、この身に降り注げ……!!


 ジャラリと鎖が鳴る。

 ありったけの膂力を込めて手枷のはまった右手を前方に突き出したとき、ゴフリと重い音がして、背後の壁の一部が崩れた。


「ナイゼル……!」


 ルシエルの鋭い悲鳴を聞きながら、ナイゼルは何百年とも知れぬ永の日々、折り曲げていた膝を伸ばして立ち上がる。


(ああ、このまま腕の一本引きちぎれても構わない。俺は君を救う力が欲しい)


「我が名はナイゼル・ギュスターヴ・クレマン 

 この呪われし王国に永久とこしえの祈りを捧げし者……」


 記憶の蓋が持ち上がる。

 ナイゼルの動きに沿って、足元から床を蔓薔薇が覆い、埋め込まれた鉄杭が外れて崩壊しかけた壁を瞬く間に埋め尽くした。

 豊かな黒髪が肩を流れ、襤褸は過日の姿を取り戻し、赤いマントが翻る。体のどこもかしこも張りのある筋肉の質量を持って、ナイゼルの歩みを支えた。

 ルシエルは、座り込んだまま、大きく青の目を見開いてナイゼルを見上げていた。ナイゼルはいまだジャラジャラと鎖の垂れた手枷を巻き付けたままの手を差し出す。


「お姫様、行こう。ここではない、空気の綺麗なところへ。俺が連れて行ってあげる」

「……ナイゼル……、ありがとう。でも、私は行けないわ。ここから……ここから動いてはいけないの。祈らなければ」

「そうだ、俺はそれを知っている。ここはかつて祈りの塔と呼ばれていて、王国の安寧を祈る魔法使いがひとり、閉じ込められていた。魔法使いは己の命が尽きるまで祈り続けていたよ。この国の平和と、健やかなる未来を」

「魔法使いは……」


 壁をつたう蔓草が、左手の鎖の連なる鉄杭を壁から吐き出した。両方の手が自由になったナイゼルは腰に軽く手をあて、ルシエルに微笑みかけた。


「魔法使いはここにいる。そして今から君を、なんとしてでも外の世界へ連れ出そうとしている。何故なら、俺がそうしたいから。抵抗しても無駄だ。俺は本当に強い、大魔法使いなんだよ」

「それならどうして、どうして閉じ込められてしまったんですか? 逃げ出すこともできず、骸骨になどなって……! 私、あなたを見た目で怖がってはいけないと思ってご挨拶もしましたけれど、本当を言えばやっぱり少し怖かったです! 死んでいるように見えたので!」

「ああ~……う~~ん、そうだね……。死んでたよね、俺……」


 ガツンと言い返されて、ナイゼルは群青色の目をぱしぱしと瞬いた。

 完全なる骸骨であったし、意識はあったが、どう見ても死体であり、実際に死んでいた。


「それについては言い訳ができない……」

「言い訳は結構です。説明をしていただければ、それで」

「同じだよねそれ結局」


 情けない声を出して掌で額から目元を覆い、ナイゼルはため息をつく。

 目を閉ざせば、目裏で軍馬の蹄が轟き、いななきと怒号が入り乱れ、鋭い金属音が響き渡る。

 敗戦。

 一方的に攻め込まれ、話し合いは功を奏することなく、人々は踏みにじられ、命が散っていった。


(ひとり戦い続けていた俺もやがてたおれ……、身柄を拘束された。あの国の最後の王族として、見世物として処刑されるのだと思っていたけれど、待っていたのは死ぬまでの幽閉だった。「お前が逃げ出せば、まだ生き長らえている民草も残さず殺し尽くす。お前がおかしなことさえしなければ、彼らにはこの国の隅で生きることを許してやっても良い」と。俺は……どうしてもそれを嘘だと思い切ることができず、外の様子を知ることもできないまま、ここでただ祈り続けた。この国に受け入れられた人々が、やがてはどんな差別されることもなく民のひとりとなり、健やかに生きていけることを……)


 この国の平和を、確かに願っていた。彼らが飢えや寒さで苦しまぬよう、豊かに生きていけるよう。


「君に、遠い血の流れを感じる。君をここに閉じ込めた連中は、そこに目をつけたんだろう。きっといまこの国は何かの厄災に見舞われていて、その理由がたぶん、なのだと、誰かが言いだした。そして君は俺に捧げられた。馬鹿な奴らだね、本当に。もし俺の呪いがこの国を覆っていたとして、君の犠牲がそれを鎮めるというのであれば、君にはこの世のありとあらゆる贅沢をさせるべきだったんだ。君がもしこの俺の前で非の打ち所のない幸福の中にいたら、俺はきっと未練も何もなくこの世を去り、『呪い』なんてものは跡形もなく消え去っただろうさ。馬鹿だね……」


(ま、俺、呪ってないけどね?)


 説明の最後は心の中だけで。

 ルシエルが瞳に気丈な色を浮かべて立ち上がったとき、ドアの外から騒ぎが近づいてきた。

「なんだこれは、いったいどうなっているんだ」「まさか本当にナイゼルの呪いが?」「魔女の娘は何をしたんだ!」「おい、ルシエル、ここを開けろ!!」

 蔓薔薇がのぞき窓も食事の出し入れをする穴もすべて塞いでしまっていて、ドンドンと鈍い音だけが外から響いてくる。

 ルシエルはそちらを見ることもなく、ただナイゼルをじっと見つめて言った。


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