山頂

 山頂直下の鳥居の柱にもたれて休息を取る。

 前方上方に神社、山頂の浅間大社奥宮が在る。あと100m程先だろうか。

 永遠と思えた富士登山の登りの行程だが、ついに終わりを迎えようとしているようだ。


 しかし、ほんのひと休憩のつもりで腰を下ろした筈なのだが、どうにも座り込んだまま起き上がることが出来ない。

 どうやら登頂を目前にした安堵感で今までの疲労が僕の身体に一斉に襲い掛かって来たようだ。

 柱にもたれながら、ふぅ、と大きく息をつく。息が真っ白な霧となってヘッドランプに照らされた視界全体に広がる。

 日の出前の一番寒い時間帯、山頂間近。この辺りは相当に冷え込んでいるのだろう。

 今何時だろうか。時計を見る。午前4時。日の出まであと1時間。

 まあ、このまましばらく休んでいたとしても日の出の時刻に間に合わないという事は無さそうだ。もっとも、依然御来光は期待薄だが。

 雨はほぼ止んでいる。しかし、昨日から上空に張り付いたままの雨雲が消える事は余り期待出来そうに無い。

 無理に進む必要は無い訳だ。


 僕の休む傍らを他の登山客達が追い越して登って行く。

 ツアー客のグループが数団体あるのか、かなりの人数だ。

 これ程の登山客が僕の後で登っていたのはちょっと驚きだった。

 八合目からここまでは、不安に感じる程他の登山客のヘッドランプの明かりを目にする事が僅かだったのだが。

 時間的に七、八合目で仮眠を取った登山客が日の出に合わせて登って来たのだろう。


 団体客が過ぎ去り、少し登山客の流れが落ち着く。

 時計を見る。日の出の時刻まで後40分程度。

 無理に進む必要は無いと思いつつも結局山頂に向かう事にする。

 気力を振り絞り立ち上がる。

 山頂へと向け歩き出す。

 しかし、震えも有りどうにも上手く進めずよろけてしまう。

 まるで、産まれたての子鹿のような不安定さだ。

 後ひと踏ん張り。

 鉛のように重い足を持ち上げ進む。

 右のストックを突き左足を持ち上げ、下ろす。

 左のストックを突き右足を持ち上げ、下ろす。

 その作業を幾度繰り返しただろうか。

 突然段差が無くなりストックが空を突きバランスを崩す。

 転倒をどうにか避け体勢を立て直し、顔を上げる。

 正面に狛犬と富士山頂上浅間大社の石碑があった。

 どうやら頂上に辿り着いたようだ。


 終わった。

 もう登らなくて良い。

 頭の中はただただ登る事から解放された安堵感。

 それだけだった。


 富士山山頂。

 暗闇の中。

 多くのひしめく人々。

 少なくとも100人以上は居るように思える。

 深夜、悪天候の中、これ程多くの人が山頂で御来光を見る事を諦めず登って来ていた事に驚く。

 愚か者の集団。まあ、僕自身もその愚か者の一人なのだが。


 ひしめく人々の合間をしばらく進んでいくと、山頂周囲に巡らされていた転落防止の柵に辿り着いた。

 もう、これ以上移動する必要は無いだろう。僕は柵にもたれて休憩しつつ東の空を見る。

 日の出が近いせいか、東の空を覆う雲がほんのりとオレンジ色に染まっている。

 周囲を見る。僕と同じように柵にもたれ掛かって東の空を見つめる人々。


 深夜、3500mを超える高所に100人以上と思える人々が皆縋るように東の空を見守っている。

 実に奇妙な光景だ。

 時計を見る。午前5時を過ぎていた。日の出まであと10分程度。

 東の空が徐々に明るさを増してきた。

 気のせいだろうか、僅かだが雲の切れ目から空が顔を覗かせている気がする。

 先ほどまで殆ど無かった御来光に対する期待が生じる。


 僕は、スマホを取り出し東の空へと向ける。

 スマホバッテリーが残り僅かになっていたが、構わずスマホのカメラアプリを立ち上げ撮影のボタンを押す。

 寒さと武者震いで震えが止まらないなか、撮影を続ける。


 オレンジ色に染まっていく東の空。

 その先に真っ赤な緩やかに孤を描き左右に伸びた水平線。


 そして、その時は来た。

 何処からともなく歓声が上がる。


 遥か東の果ての水平線の下から徐々に姿を現したそれは圧倒的なエネルギーの具現体だった。

 卵黄のような黄色がかった赤色の灼熱の球体。

 それが高度を上げるほどに世界は色と熱を取り戻していく。

 その印象はあまりにも強烈で、上っていくそれは物体というよりは穴に思えた。

 上空の青い天蓋の向こう側に広がる、広大な灼熱の世界。その世界へと繋がった穴。

 そう思える程昇りゆく太陽の印象は強烈で、地球の遥か彼方、1億5000万km 先の宇宙空間に存在する物体とは思えなかった。

 暗いモノクロの世界が、色を持った世界へと変わっていく。

 徐々にだが確実に周囲の温度が上昇していくのを感じる。

 冷え切った肉体が少しずつ熱を取り戻していく。

 低体温症、頭の痛み。

 圧倒的な陽のエネルギーが、僕を覆っていたそれら死の影を拭い去っていくように感じられた。


 想定外の僥倖。

 突然のハッピーエンド。

 教訓もへったくれも無い。

 残念ながらこの物語は駄作として終わることになりそうだ。


 徐々に日が高くなる。

 辺りの様子が鮮明になっていく。

 ただ立ち尽くす人、祈る人、抱き合う男女、ハイタッチを繰り返す学生達、肩を組んで歌う海外の若者達。

 カラフルな色のレインウェアに帽子とザック。

 一面に広がる雲海。雲海から顔を出す幾つかの頂。遥かに見える日の光の反射で煌めく太平洋、霞む関東平野。

 上空は青空。白い筋雲。煌めく太陽。

 雲海に浮かぶ頂きにて広がる歓喜の輪。

 まるでハリウッド映画のクライマックスのワンシーンに紛れ込んでしまったかのようだ。




 …まあ駄作でも構わないだろう。

 登場人物皆が望んだエンディングに辿り着いた訳だから。

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