七合目

 「ここから、御来光、見られますか?」

 雨宿りの為に七合目の山小屋の軒下で佇んでいると、アジア系の外国人と思しき青年に話し掛けられた。

 どうやら、この七合目からでも明日の日の出の景色が拝めるかどうかと聞いているようだ。

 僕は少々考えた後、"大丈夫、見られますよ。"と答えた。

 富士山での御来光は、イメージ的には山頂において見るものと思われがちであるが、実は吉田ルートの場合、七合目からでも遜色ない光景を目にする事が出来る。

 このルートは東側に遮るものが無く、また、雲海は七合目よりも下に生じるからだ。

 だから、後は、日本の最高地点から日の出を拝みたいという気持ちの問題を解決しさえすれば、わざわざ寒くて暗い中、頂上を目指す必要は無いのだ。

 …もっともこれは、当然ながら、晴れている場合の話であり、天候が悪ければ山頂であろうが七合目であろうが日の出を拝む事は出来ない 。


 僕は目深に被っていたレインウェアのフードの先を持ち上げ空をじっと見上げた。七合目に到達する少し前から強まり、やや横殴りとなった雨は止む気配をみせない。

 腕時計を見る。今の時刻は午後7時。日没の時刻をとうに過ぎ、辺りはすっかり闇に包まれている。


 このまま先に進むべきか、それともここで暫く待つべきか。僕は、七合目に到達してから思案し続けていた。

 深夜の登山は眠気との戦いになるだろう。体が変調をきたすかもしれない。頭痛も心配だ。出来れば今の内になるべく先に進んでおきたい所だ。

 だが、先に進むことに一抹の不安があった。それはこの先の温度だった。七合目、八合目と進み、標高が上ることによって周囲の気圧は低くなり、膨張した空気は寒気となって登山者の体温を奪うだろう。

 学校の理科の授業で習った通りならば、標高100mの上昇で0.6℃気温が低下する筈。

 七合目の標高は2700m。そして山頂は3770m、標高差約1000m。つまり山頂の気温はここより6℃低い事になる。

 この先に早く進めば進むほど、夜明けまで、より長い時間低温に耐えなければならない訳だ。

(本日は終日雨天だった為余り影響は無いが、晴れの日ならばさらに放射冷却による深夜の気温の低下も考慮しなければならない。)


 僕は、暫く前から、登山者が少ない間を見計らって、登山道を20m程下り、そして再び、登山道を20m程登り返すという行為を何度か繰り返していた。

 何故こんな無意味な行動をしているかというと、実は、七合目に到達した辺りから、身体にかなりはっきりとした震えを感じていたからだ。

 それは勿論武者震いではなく、寒さから来るものであった。僕は、体温を上げて震えを抑える為、登山者が居ない機を見て登山道の上り下りを繰り返していたのだ。

 とはいえこの移動の間雨に打たれ続ける訳で、気化熱によって逆に体温を奪われかねない。何時までもこんな事を繰り返していてもただ体力を浪費するだけだろう。


 僕は結局、八合目を目指して登山道を進む事にした。

 取り合えず体力のある内に八合目まで進んでおきたいという気持ちが、寒さに対する不安を上回ったからだ。

 八合目から先の事は八合目まで進んで改めて考える事にした。


 …困難な選択はすべて先送りする。僕の悪い癖だ。


 歩く道はぬかるみ、時々滑りそうになる。それを堪えながら一歩一歩進む。

 顔に雨が掛かり視野が塞がれる。雨をずぶ濡れの手袋で拭き取りヘッドライトの光の照らす先を凝視し登山道を見失わないよう努める。

 …しかし僕は一体何故こんなに苦労してまで山を登っているのだろうか。


 途中で小休憩。時計を見る。午後8時。

 明日の日の出の時刻をスマホで確認する。午前5時15分。今から約9時間後だ。

 果たしてその時までに雨は上がるのだろうか。


 …思えば子供のころから、楽しみにしていたイベントの時はいつも雨ばかりだった。

 遠足や運動会が雨で中止になった事は果たして何回あっただろう。

 東京湾のクルージングも那須のロープウェイでの登山も雨で中止となった。

 そして、足の捻挫で断念した高校時の京都への修学旅行の時に限って腹が立つ程の晴天だった。


 いつも、現実は僕の望み通りにはなってくれない。


 僕は20年以上掛け、世の中はお前の思い通りにはならない、何も期待するな、という事を学習させられているのかもしれない。


 だが、まあ、良い。

 実際の所、僕は、そこまで御来光には期待しては居なかった。

 あくまで日本一の標高の山に登ったという記録と記憶を得る事が重要で、それに比べると日本最高地点で日の出を見るという行為はおまけのようなものだ。

 御来光自体も、シチュエーションを覗けば、単なる日の出な訳であり、別にさして地上で見るのと変わるとは思えない。

 観れるならばついでに観ておきたい程度のもので、駄目だったからといって別に大した事は無い。


 …しかし、そう考えると、果たして、今日、深夜、これ以上進む意味はあるのだろうかと考えてしまう。

 山腹で明日の日の出まで待機して、暖かくなってから改めて進めば良いのではないだろうか。

 

 何度か下山する登山客とすれ違うようになった。

 吉田ルートは上りと下りの道が分かれている。

 つまり今すれ違っている人は、登頂を終え下山している人ではない。

 登頂を諦め引き返している人なのだ。


 僕は、僕自身が選ぶべき現実的な選択肢がもう一つ存在している事を知った。


 ”撤退”


 考えたくはない選択肢。


 だが、もう、七合目を発って随分経つ。

 その選択肢を含め決断するのは、”八合目”に着いてからにしよう。

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