六合目

 高さ幅共に3m程のトンネルの様な落石避けのシェルターを幾つか通り抜け暫く歩くと、富士山安全指導センターの建物に辿り着く。

 この建物は吉田コースにおける六合目の目安となっている。ここに辿り着いた事で僕はようやく富士登山の登りの行程の1/5を終えた事になる。

 が、しかし、五合目から六合目までの標準コースタイムは50分、それに対し五合目から頂上までの標準コースタイムは6時間10分。時間的にはまだ1/6にも達していない。

 想像はしていたが頂上までは実に長い道のりだ。


 腕時計を見る。午後5時を少し回った辺り。スバルライン五合目の登山口を出たのが4時15分頃の筈なので45分で到着した計算になる。早すぎず遅すぎず中々良いペースだ。

 心配していた頭痛も今の所起こる気配は無い。呼吸や脈拍も正常。ここまでは順調。


 登山において一定のペースを守る事の重要さは、先の蓼科山登山で痛い程味わった。

 富士登山の予行演習も兼ねて先月の初旬、蓼科山に登る事にしたのだが、当初勢いに任せて、起点のスキー場を駆け上がり、樹林帯にて年配ハイカーの方々を次々と追い抜いて進んだまでは良かったものの、行程の半分辺りに差し掛かった所で突如、息が切れ、足が進まなくなった。

 そこから先の登山は実に悲惨なものだった。

 進んでは動悸が激しくなり立ち止まり呼吸を整え、進んでは喉の渇きを感じで立ち止まり水分を補給し…

 そうして予定時間を遥かに過ぎて漸くたどり着いた山頂は既にガスに包まれていて、本来なら視界の360度に広がっている筈の日本アルプスの山並みは何一つ拝む事が出来なかった。

 失望と反省、そして不安だけが残った登山だった。


 あの失敗は繰り返してはいけない。僕は疲れは感じていなかったものの、六合目において休憩を取る事にした。


 センターの直ぐ近くには広場が有り、十数人程の登山客が地べたに座り休憩を取っている。

 僕は空いている場所を探しストックを置きザックを下ろして座り、一息ついた。

 周囲を見渡す。ここ六合目は既に樹林帯を抜け開けた場所であり、本来ならダイナミックな下界の景色が眼下に広がっている筈であった。

 しかし、日没を控えた暗さと再び降り出した雨による霞によって、残念ながら遠方や下界の様子を伺う事は出来なかった。


 休憩をしている僕の前を登山客達が通り過ぎて行く。

 ツアーの団体客の集団。学生らしき複数人のグループ。夫婦か恋人と思われる男女のペア。友人か姉妹と思しき女性の二人組。家族連れらしき人達も。

 勿論、僕と同じような単独の登山客も居る。(居なけれは、僕は気まずさで直ぐに五合目に引き返していただろう!)

 外国人客も多く居た。ヨーロッパ系の方々は顔立ち言語以前にラフな格好で一目瞭然だが、東アジア系の方々は日本人とほぼ同じ格好をしている。その為、会話をしている人でなければ外国人かどうか判別出来なかった。

 服装で判断するのもどうかと思うが、周りに合わせる性質は東アジア系の人間共通の特徴なのかもしれない。


 5分程の休憩の後、立ち上がりザックを背負って歩みを再開する。

 六合目から先は頂上へ向けひたすらジグザグに伸びる岩や礫、砂の道を登って行く。

 その行程において見える景色は単調で何時まで経っても辺りの風景は変化しない。

「富士山に一度も登らぬバカ、二度登るバカ」という諺がある。

富士山は日本人なら一度は登りたい山ではあるが、この登山の単調さが登る事を躊躇させるのだろう。

 だが、日本一の山に登るという経験は今しか味わえない。(少なくとも初めて登るという経験は。)

 人間の人生の時間は50年の生涯としても43万8千時間。翻って富士山に実際に登る時間は長くとも精々10時間に満たない。

 そう考えると、この長い登頂までの行程も非常に短い貴重な時間に思える。


 その貴重で単調な登山のさなか、様々な思考が頭の中を巡る。

 来週の日用品や食料品の買い出しの予定や、休み明けの仕事の見通し。

 プロ野球のペナントレースの行方、今週の週刊漫画の最新話について。

 動画共有サイトにアップされた新進気鋭の音楽ユニットの新曲、ソシャゲのイベント内容や新実装のガチャキャラについて等々…

 その内容は下界にいる時と何ら変わらなかった。

 どうやら、2500mを超える高所、日本一の標高の山を登っているからと言って、特別な思考、アイデアが思い浮かぶ訳では無いらしい。

 しかし、2500mを越える高所でソシャゲのイベントについて考える事など人生においては今日が最初で最後だろう。

 一期一会ならぬ一期一考。これも貴重な体験…かもしれない。


 ふと思い浮かび、立ち止まってザックからスマートホンを取り出す。

 電源を入れる。思った通りアンテナマークが立っている。高所にもかかわらず富士山はその全域が携帯の電波の範囲内なのだ。

 早速アプリを立ち上げガチャを回す。

 派手な演出と共に十数個の卵が表示された。

 卵が割れて出て来たのは…残念ながら全てノーマルキャラ。(ハズレ)

 残念ながら、ソシャゲのガチャはプレイヤーが特殊な環境に置かれたからといって確率アップはしないようだ。

 スマホをザックに仕舞い、腕時計を見る。時刻は5時50分。


 …もうそろそろ日没だろうか。大分暗くなってきた。雨も強くなって来ている気がする。

 ザックからヘッドランプとレインウエアを取り出し装着する。

 ザックを背負いヘッドランプの電源を入れストックを突き再び歩き出す。

 ヘッドランプの光が降り注ぐ雨の滴に反射し、白く光る水の弾幕が眼前に浮かび上がっている。

 どうやら、思っていた以上に本降りになっていたようだ。

 思い出したように肌寒さを感じる。

 体温を上げる為に歩くペースを上げる事にする。


 …明日の日の出前には雨が止んでくれると良いのだが。

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