第5話

 高校を卒業したアラタは、近くにアパートを借りて大学生活が始まった。


 アパートは建築年数が浅い物で、完全フローリングのワンルームだ。はじめから家具がついているタイプの部屋で、小さな収納棚はすぐに私物でいっぱいになった。


 大学生活は楽しかった。入学式の後日には新入生歓迎会があり、サークルの新規部員の獲得合戦も盛り上がって賑やかだった。新しい友人もどんどん増えて日々は充実していたが、寂しさに似た愁いが、心の片隅にひっそりと居座って離れないでもいた。


 部屋の棚の上の写真立ての中には、父と大浜と三人で写った入学式の写真が飾られている。思ったら即行動の大浜による提案で、通りすがりの人によって撮影された一枚だ。


 入学式に着流しで現れた父は、写真の中でわずかに微笑んでいる。


 その笑顔は穏やかで、はっきりとした顔立ちの中に青年時代の名残が見えるようだった。どちらも彫りの深い顔をしているせいか、どことなく大浜と同故郷なのだという雰囲気を感じさせた。


 こんな風に笑う人だったのかと、父の微笑みがアラタの中に強く残されていた。チラリと目を向けた時、父が「よく学び、良き大学生活を送りなさい」と言って、ほんの少し穏やかな眼差しを浮かべられて、胸に込み上げる熱いモノがあった。


 アラタは、自分が「良い息子」ではなかったと自覚している。意地を張らずに自分から積極的に接していれば、もしかしたら父や母と笑い合えるような関係を築けたのではないか、と今更になって考えさせられたりした。


 胸の中に小さな穴が空いているような気分の落ち込みを感じる事があるのは、自分が父や母のことを何も知らないという事実があるせいだと、大学生活を送りながら気付いた。


 父から音沙汰もないまま日々が過ぎていき、二十歳の誕生日を迎えた。その当日の日中、唐突に「おめでとう」と書かれたカードと、今年に発売されたばかりの電子辞書がアパートに届いた。


 送り主の名前を見ると、そこには父の名前があった。彼からプレゼントをもらうのは初めてで、びっくりして電話をしたが父は留守だった。


「そっか。仕事だもんな……」


 どこかの教室で授業を進めている父の姿を、アラタは容易に想像することが出来た。しかし、思い返せば、自分はその光景を実際に見たことはない。


 そう不思議に思った時、どこからともなく幼い頃の記憶がよみがえってきた。



――『お父さんはね、学校の先生で、教科書通りの読み方をする人よ。黒板の字はとても綺麗で、真面目な横顔がとてもハンサムだったわ』



 耳に残るその声は、若い頃の母のものだった。

 自分の知っている過去と時間軸が、まるで糸が絡まってしまっているみたいに一本に繋がってくれない。アラタは、脳がぐらりと揺れるような錯覚を感じた。


 一体これは、いつ言われた記憶なんだ?


 母はパートで働き詰めだったし、アラタは昔から一人で家に取り残されていた。こんなに穏やかな彼女の声を耳にするなんて、あるはずがない気がするのに。



――『父さん。べんきょうをおしえるの、すきなの?』

――『うむ。そうだな……きっと好き、なんだろう』



 困惑の向こうで、覚えのない記憶の回想が勝手に続いて父の声が聞こえた。



――『教えを受けている子供達のいる空間が、ふっと穏やかで静かな時間に包まれる時があって……ああ、やはり自分のことを話すのは苦手だ。父さんが感じていたことを、お前に伝えてあげられる言葉が、すぐにでも見つかれば良かったのになあ』



 脳裏に浮かんだのは、ちょっと困ったように唇の端を引き上げる、縁側に腰かけている今よりも若い父の姿だった。薄地の白いシャツを着た身体は、細いものの鍛えられている。



――『先生』



 記憶の中で、少女のように弾む女の声がした。

 そう呼んだのは誰だっただろう。でも蘇った過去の光景の中にいたのは、自分と、母と、父だけのはずで……気のせいでなければ、それは若い母の声だった。


 訳が分からない。いつも何かを気に掛けて、どこか少しだけ罪悪感を抱いているようにして小さくなっていた母と結びつかなくて、アラタは一旦考えることをやめた。


 テスト、大学の合同祭、友人のバンドデビューなどが続き、アラタの日常はしばらく忙しさを増した。疑問は進展もないまま記憶の隅に追いやられ、その間にも水牛と小島と浅い海の夢を見た。いつも同じようにして夢は始まり、同じところで終わってしまう。


「絵に描いてみたら?」


 季節があっという間に過ぎ、都内に初雪が降った夜、アラタの部屋に遊びに来ていたナナカがそう提案した。気の合う友人から恋人へ、そして付き合って数ヶ月で『一旦別れよう』と互いで話し合って恋人関係については保留となり、元の関係に戻った今も合鍵を自由に使わせている。


 交際していた頃から、彼女には例の夢についてたびたび相談していた。綺麗な白い足を、惜しみなく短パンから覗かせている彼女に、アラタは静かに首を横に振って見せた。


「そんな画才はないさ」


 だって絵を描いたことはない、そう続けようとしたアラタは、ふと、自分が覚えている記憶に小さな疑念を覚えた。


 美術の授業と同じように、幼稚園でも絵を描いたりするものではないだろうか。幼い子供がクレヨンで絵を描く場面については、映画やドラマでもよく見掛ける光景だ。


 正しいと思っていた自分の記憶が、唐突にそうではなかったと突き付けられたような恐怖を覚えた。順を追って並べようとした中学生以前の記憶が、写真の切れ端ばかりを残して、真っ暗な記憶の海に散らばっているような気がする。

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