第6話

 家族との思い出が何もないなんて、あるはずがない。だって一人で留守番が長く出来なかった時代もあって、そして何かをして両親の帰りを待っていた頃もあったはずだ。


「アラタ、どうしたの? 気分が悪いみたいだけど……」

「ナナカ、子供って何をして過ごすんだろう?」


 こちらを覗き込んできたナナカが、なぜこのタイミングでそんなことを訊くんだろう、という顔をしてペタリと床に座り直す。


「そうねぇ。たくさん遊んで、食べて寝て、それから怒られたりとかするんじゃない?」


 どうやら、少しはロマンチックな展開を期待していたらしい。ちょっとむすっとした彼女の表情と声を前に、アラタは少しだけ気が楽になって苦笑を浮かべた。


 居心地のいい親友同士なのか、それとも卒業したら一緒に暮らしていきたいという気持ちがあるくらいの恋人同士なのか。


 それがよく分からなくて少し口論になり、一旦恋人関係については保留する事になった。それなのに、「保留の方を、今だけ『ちょっとお休み』にしようよ」と甘えてくるところは、結構可愛いとも思っている。


「ごめんナナカ、もしかしてキスでも欲しかった?」

「あのね、そういう可愛い感じの困った笑顔をしてもダメよ。イケメンだからって、なんでも許されると思ったら大間違いなんだからね」


 言いながら、彼女が腕を組んで『機嫌を損ねました』とアピールしてくる。暖房機で暖められた室内で、柔らかな一枚の七分袖の服から、形のいい胸がふっくらと浮かんだ。


「そもそもね、そういうのを女の子に言わせるのは良くな――」

「実は俺も、キスしたいなと思ってた」


 へ、という彼女を引き寄せて、そのまま唇を重ねた。


 暖房機の稼働音が鈍く響いている。仲直りのような心地良い空気が流れているのを感じて、アラタは身を委ねている彼女からそっと口を離した。近い距離で見つめ返すと、少し頬をそめているナナカがいて、ふっと笑ってこう続ける。


「ちょっと立ち寄るだけだって言ってたのに、ふわふわの服と短パンの組み合わせとか、俺好みの美味しそうなかっこうしてくるんだもんなぁ」

「べッ別にアラタを意識したわけじゃないし。私だって、この格好が好きなの」


 ぴしゃっとした声を作って、そう言いながらナナカが素早く元の距離に戻って座り直す。


「…………でも、キスはありがとう」

「どういたしまして」


 アラタもそう答えて、床に尻を戻した。初キスの記念日、だなんてカレンダーにもわざわざ書かれたのだ。無視してやるわけにもいかない。


 女友達とのショッピングの帰りだったとしても、彼女なりに記念日内にキスが欲しいと思っていたのだろう。そう考えていると、チラリとナナカが視線を返してきた。


「あのね、アラタ」

「ん? なに?」

「……あとでもう一回、キスをもらってもいい?」


 ああ、可愛いなと思って、つい笑ってしまったアラタは「いいよ」と答えた。


 ロマンチックに憧れているところもあるナナカは、それでひとまずのところは満足という事にしたらしい。続いては落ち着いた様子で、「子供が何をしているか、という質問だけれど」と先程の話に戻した。


「あたしの子供の頃の話をすると、母子家庭で、お母さんの帰りがいつも遅かったの。一人でいるのもつまらないから、近所の子たちと一緒に公園や川辺で遊んで――子供って夢中になったらとことん楽しむから、服なんてすぐ汚れて擦り切れちゃうでしょ?」


 彼女は、手振りも交えてそう話す。


「お母さんはね、いつも『一体どこでどう遊んだらこんな風になるの』って怒ったりしたわ。でも楽しそうな顔もしていて『風呂に入ってきなさい!』って叱るの。ああ、そういえば脱衣所に向かう時にしていた夕飯の匂い、あたしは好きだったなあ」


 ナナカは、そう言うと懐かしそうに微笑んだ。


 はたして、自分にそんな事はあったのだろうか。彼女の思い出話に重なるような出来事に覚えがなくて、アラタはこれまで疑った事もない自分の記憶に不安を覚えた。

 信じていたものが脆くも崩れ落ちていくような怖さを感じて、アラタはただただ純粋に彼女の手を握り締めた。愛だとか恋だとか、そういうことはよく分からないけれど、一番に心が安らげるのは彼女の隣だった。


「少し、こうしていてくれないか」


 ピタリと寄り添って座った。

 男としては弱さを出したくはない。でもただの甘えだと分かっていても、今は肩越しに触れ合う温もりと、繋いだその手を離したくはなかった。二人でいれば、大切なことがどこかで擦れ違っているという不安と恐怖が、少しは薄れてくれるような気がした。


 ナナカは神妙な顔をして、「うん」と頷いた。自分からもアラタへと身を寄せて、その肩に体重を傾ける。


「あたし、アラタが『もういい』って言うまでここにいるよ。大丈夫だよ」


 二人分の呼吸を聞きながら、お互いの手をぎゅっと握りしめ合った。どうしてか繋ぎ合った手かに何蚊が込み上げて、アラタはそのまま親友のような彼女の額にキスを一つ落とした。祝福を祝うように、神様に助けを請うように、そっと触れるばかりのキスだった。


 数ヶ月ばかりの恋人生活を送っただけだ。それでも二人は、友人として出会ってまだ二年も経っていないとは思えないほど、互いが長い時間を共に過ごして来たような強い結びつきを感じていた。


 ナナカは、目を閉じて額のキスを受け入れた。そっと離されるのを少しだけ寂しげに見つめて、それから彼と一緒になってぼんやりとただ前を眺める。


「アラタと一緒にいるとね、欠けていた物が埋まるみたいに、不安も心細さだってなくなるのよ。これって魂の親友なのかしら、それとも運命の恋?」


 そう囁きながら、ナナカが肩に頬を擦り寄せる。


「あたしたち、なんだか兄妹みたいだね」

「そうだな」

「もっと早く、アラタの傍にいたかったよ」

「――うん」


 アラタは緊張も解けて、しだいに浅い眠りへと引き込まれていくのを感じた。


 最近は匂いまではっきりとする潮風と、波の音、そして二頭の水牛が出て来る、またあの美しい幻のような光景の夢を見た。

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