(三章)夜の薔薇の庭園にて(2)
別の方向から庭園を歩き進んでいたのだろうか。彼は、設置されている薔薇のアーチをこえて向かってくる。
なるほど、戦闘魔法にも長けた彼なら、気配を完全に消すのもお手のものだろう。
そう考えると納得できた。しかし、リリアは向かってくる彼を見てちょっと警戒してしまった。
普段から愛想がない男だが、一体何があったのか。すっかり大人びて十五歳には見えないサイラスの美麗な顔には、露骨な不機嫌さが滲んでいた。
「……わざわざ婚約者が会いにきたのに、降りて来ないのは失礼じゃないか?」
やってきたサイラスが、ややあってそう言ってきた。
下に来た彼としばし見つめ合っていたリリアは、他に人の目もないと分かって「ふんっ」とそっぽを向いた。ドレスのスカート部分を押さえて、更に上へと浮いてもう少し距離を置く。
「私は〝人外〟の化け物なので、人間のルールとか知りません」
リリアは、開き直ってそう言った。
「見ても分かる通り、私は休憩中なの。たかがあなたの相手をしている暇はないのよ」
相手にもならんわ、というような言い方をして、つんっとした態度で背中に流した薄金の髪を波打たせた。
アサギが両手で頬杖をついてから、サイラスの存在を無視して言う。
「ずっと地上を歩いていましたから、姫様ストレスが溜まっていましたもんねぇ。飛びたい年頃の子狐ですからね、ははは」
ぴくり、とサイラスが反応する。
「『姫様』……」
口の中で小さく繰り返した彼が、聞き覚えがある様子でジロリとアサギを見やる。それに対してアサギは、もう知らんぷりだ。
けれど、サイラスはすぐに夜空へと視線を戻した。そして背を向けているリリアへ声をかける。
「俺をナメるなよ。それくらいなら、人間の俺だって飛べる」
……ん? 人間なのに、〝飛ぶ〟?
疑問を覚えた直後、リリアは魔力の流れを察知した。訝しげに振り返ってみた途端、彼女は大きな目を丸くする。
すぐ目の前に、淡く輝く魔法陣を足元で光らせている彼が、いた。
「は……?」
同じ高さからサイラスと目が合う。
そういえば、学院進学前には、早々に浮遊魔法を体得していたのだ。人間にとって高度な魔法であるらしいが、魔法方面の才能がほんと嫌だなと思う。
自分だけの特権でなくなったリリアは、むぅっと頬を膨らませた。
「邪魔しないでよ。また雷撃をくらいたいの?」
こちらを見据えているサイラスは、眉間に皺も寄せなかった。リリアの頭にある大きな狐耳がぴこぴこっと動いたが、彼の目はずっと彼女を見ていた。
なんか調子が狂うな。一体何を見ているんだろう?
「ちょっと近いから、あっち行って」
「これくらい、いいだろ。お前の場合、挨拶の距離感がありすぎるんだ」
まぁ、手だって握ったことさえないしね!
魔力酔いの件に関して、社交の場で再会した宰相ハイゼンに、びくびくしながら説明されて試そうとしていたのを知った。
そもそもあの人、国で二番目に偉い人なのに何を怖がっていたのかしら?
ふとリリアは、隣でにっこりと笑っていた父との風景を思い返して、そう疑問に感じた。
「お前、集中力ないんだな。意外とうっかりしていそうだ」
ふと、そんな声が聞こえてハタとする。
パッと視線を戻してみると、じーっとこちらを覗き込んでいるサイラスがいた。
引き続き地上から傍観しているアサギが「ははは、姫様おバカですねー」という声が聞こえたが、ひとまず聞き流した。ぱっと距離を置いてリリアは告げる。
「私、妖力も絶賛成長期だから、うっかり放電するのも、少なからずあるわよ」
「ふん――偉そうに何を言うかと思えば。食らったことは一度だってない」
くそっ、確かにそうだった。
けど、目の前にしてストレートに言われると、ほんとムカツクな!
負けず嫌いでプライドが高いリリアは、思い返して悔しくなった。なぜかいつもほとんど軌道を読まれているし、毎度避けられるか結界で防御されるか、魔法をぶつけられて相殺されてしまっていた。
「チクショー今すぐ一発ぶん殴らせろ!」
これまでの対戦歴を振り返ると、悔しさのあまり獣耳を威嚇するように立てて叫んだ。
けれどリリアが振った右手は、あっさりサイラスによけられてしまう。
「させるわけがないだろう、お前は馬鹿なのか? そもそも、妖力に頼ってパンチ力は弱いくせに『ぶん殴る』と言われてもな、説得力はない」
「魔法使いの癖に、身体を鍛えまくってるあんたがおかしいのよっ」
「俺は戦闘魔法使いなんだ、当然だろう」
続いてのリリアのキックに対しても、彼は言いながら、浮遊魔法陣を移動させてさらりとかわしていた。
リリアは、宙で地団太を踏んでしまいたくなった。
妖力が不穏な空気を放って強まる。一色即発の気配を察知したアサギが、「よいしょ」と立ち上がって、にっこり笑いリリアを呼んだ。
「姫様、そろそろ旦那様の元に戻りましょうか。ほら、おいで~」
腕を広げると、幼い子を宥めるようにそう言った。
いつまで経っても、小さな子供扱いをしてくる執事だ。けれどいつもそうだったから、リリアは宙でくるりと向きを変えると、素直にその腕にふわりと収まった。
「うんうん、妖力も安定してますねぇ。月光浴のおかげかな?」
よしよしと頭を撫でられた。
物心付いた頃から一緒にいたから、兄みたいにのんびりと微笑みかけられれば、リリアも嫌な気持ちを忘れて、つられて笑ってしまう。
アサギが、地面にそっとリリアを下ろした。ふわふわとしたドレスの裾の形をチェックして、飾りのリボンの形も整え直す。
後ろで草を踏む音がした。目を向けてみると、魔法を解いてサイラスが地面に降り立っていた。どうしてか、苛々した様子で眉間に皺が寄っている。
「何よ?」
リリアも仏頂面をして、そう尋ねた。
「十五歳にもなって、恥ずかしくないのか婚約者殿?」
「ちょっと待て、結婚の予定もないのになんで『婚約者殿』なんて言い方をされなくちゃならないのよ。腹が立つから、やめてくれる!?」
普段あまり婚約者なんて口にしない癖に、ちょいちょい使われるたびに嫌味ったらしくて苛々するのだ。
するとサイラスが、ますます仏頂面になった。
「俺が腕を広げたら、お前は飛んでくるのか?」
突然何言ってんだこいつ!
唐突な質問で、リリアは意図が全くつかめなかった。サイラスは、先程のアサギのやつと言わんばかりに、ちょっと腕を広げて見せてくる。
私が、こいつの腕の中に? え、なんで? そもそも、そのシチュエーションがありえないでしょう?
リリアの頭の中は、疑問符でいっぱいだった。
あまりにもじーっとサイラスが真剣に見てくるので、ひとまず、なんのたとえか分からないけど答える。
「んなわけないでしょ!?」
思わずアサギの腕を取って、父と合流すべく会場へと向かい出す。
でもこの際だ。先程も令嬢達の遠巻きの嫌味がストレスになったのを思い出したリリアは、ビシリとサイラスに指を突きつけて告げた。
「言っておくけどッ、私はあんたとは結婚なんてしないんだから、とっとと魔力を完全にコントロールするか、あの取り巻き令嬢の誰かと婚約し直して」
すると、サイラスの秀麗な眉がピクリと反応した。
「へぇ。じゃあお前は、どこかの誰かと結婚するってことか?」
サイラスのまとう雰囲気が、冷やかさを帯びた。
きっと嫌味でそう言っているのだろう。分かっているくせに性悪な王子だ。リリアは、ぷいっとそっぽを向くと、アサギをぐいぐい引っ張る。
「うっかり放電する〝化け物令嬢〟を妻にしたい人なんて、いるのかしらね」
リリアは、売り言葉に買い言葉の勢いで言い返すと、そのままアサギを連れて会場へと戻った。
自分で口にしておきながら、リリアの気持ちは沈んだ。
好きよと誰か言ってくれる人がいれば、それだけで世界の見方が変わるだろうにと、我ながら女々しくも思ってしまった。
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