第4話 地上の獣

 地下にいる時から聞いていた、地上に出てはいけない原因。


 自分たち人間が、地下にこもることを余儀なくされた恐るべき存在。


 聞いたことしかない、見たこともないものではあるが、今視界に捉えているものが、そのものであると、直感で理解した。


 俺の身体の、倍以上はあるであろう、巨躯に四本の脚で歩く姿、毛に覆われた体に鋭く尖った爪。


 地上で初めて出会う生物、というよりも、出会ってはいけない生物。


 実際に目にするまで、実在するのかも定かではなかった恐怖の対象、異形の存在。


 もちろん、地上に出る以上、警戒はしていた。しかし、地上に溢れている目移りするほどの魅力を携えた、未知との出会いに浮かれていた、むしろ目の前にいる獣すら好奇心を満たす対象として捉えていたのかもしれない。


 それもいざ目の前にしてみると、その考えがどれほど浅はかで、あまりにも愚かな考えかを理解し始める。


 先ほどまで抱いていた好奇心も、恐怖に塗り替えられ、自分の行いに後悔を禁じ得ない愚行。


 それほどまでに目の前の獣は、恐怖を植え付けるのに充分な存在感を放っていた。


  未知の生物であることに加え、人間たちにとって恐れるべき存在であると、生まれた時から植え付けられた先入観、獣と称され地上を支配する、異形の存在。


 「逃げないと」


 恐らくその判断は正しい。


 しかし、正しい判断の後に、適切な行動をとれるとは限らない。


 この場合、身を隠し、獣が立ち去るのを待つべきだっただろう。


 獣をよく見てみると、腹のような部位から、赤い鮮血が滴り落ちている。

 

 地上の支配者、その獣が負傷し、心なしか疲弊しているようにも見える。


 その姿に、恐ろしい獣に対し、わずかな好奇心を抱いてしまった。


 その好奇心が、仇となった。


 身を隠して動かず、獣が遠ざかるのを待ってから、この場を離れれば良かった。


 分厚い板のような壁に身を隠す、ここまではよかった。


 しかし、獣に対し抱いた好奇心が、この身を危険に晒す余計な行動をとらせてしまった。


 身を隠しながら、負傷した獣を観察しようと、壁から顔を覗かせ分厚い板に手を添えた瞬間、壁の一部が崩れそのまま連鎖的に大きな音を響かせながら、獣に対し遮蔽物としての効果を喪失させていった。


 音に反応し、こちらに視線を向けた獣は、体勢を変えて警戒するような素振りを見せたが、己の身体に対して小さな生物であると認識した途端、こちらに真っすぐ視線を向けたまま、ゆっくりと距離を縮め始めた。


 もはや、逃げるという選択肢以外存在しないだろう。


 しかし、一瞬のうちに起きた想定外の出来事。


 その上、着実に迫りくる恐怖。


 それらを受け止め、即座に適切な行動を行うことができないほど、頭の整理が追い付かない。


 現実を受け止めようとする間も、今この場で、恐怖を象徴する存在は、こちらの混乱に気を遣うことなく迫ってくる。


 身体を恐怖が支配し、身体の感覚が失われたように思うように動かせない。


 迫りくる恐怖に対し、震える脚で少しづつ後ずさることしかできず、もはやまともに機能しない頭を働かせてみる。


 この先に待っているものは、死。


 その確信にしか脳内の思考はたどり着かない。


 迫りくる獣は、すでに眼前、歩みを止め姿勢を変え、跳躍の構えをとっていた。


 後ずさる脚の動きを散乱する瓦礫が阻み、そのまま姿勢を崩し尻もちをつく。


 それが合図かのように、獣は、体勢を崩し身動きの取れなくなった生物に向けて跳躍を始めた。


 鋭い牙を晒し、人間の頭を丸吞みできそうなほどの口を開いた獣が一気に迫りくる。


 その光景を最後に映し、受け入れるかのように、目を閉じた。


 視界は光を閉ざし、聴覚のみが情報を獲得できるこの状況、そんな状態の中、この身に起こるであろう出来事よりも先に、別の音を聴覚が捉えた。


 何かをえぐるような音。


 その後、重量のある物が地面に落下するような鈍い音が響いた。


 訪れるであろう痛みに備え、強ばらせていた身体を緩めて、ゆっくりと瞼を開く。


 目の前にある光景は、思いもよらない現実だった。


 自分に襲いかかろうとしていた獣は、腹から血を流し地面に横たわったまま動きを止めていた。


 そして、それを見下ろすように横たわる獣の傍らには、左腕だけが鋭い爪を生やし、光沢のある質感の、模様のような皮膚に変形した、人間が立っていた。

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