泊まる事になってしまった(3)
立派な冷蔵庫を開けてみると、中にはほとんど食料品は入っていなかった。普段あまり部屋にはいないと言っていたから、恐らくはほとんど外食で済ませているのだろう。
「入っている食べ物は、ワインに合うおつまみだけ……」
思わず、中を覗き込んだままポツリと呟いた。
そうしたら、キッチンカウンターの向こうのリビングから、機嫌を損ねたような美声が飛んできた。
「そういうチェックはやめたまえ。君のところの冷蔵庫内と、そんな大差ないだろうに」
なんで見えていないのに、タイミング良く的確に指摘してこられるのか。
雪弥は不思議に思いながら、缶ビールを一つ取り出して冷蔵庫を閉めた。キッチンから歩き出ると、こちらを見ている宮橋の姿を目に留める。
「僕のマンションの冷蔵庫は、普段空っぽですよ」
ひとまず誤解がないよう、雪弥は同じではない事を伝えるべく、向かいながらそう答えた。
そうしたら何故か、宮橋が顔を手に押し付けてしまった。しばし沈黙が続いて、一体なんだろうと思いながら、雪弥は足を進めつつ彼の様子を見守っていた。
「君、なんて生活をしているんだ」
なんか、全力で憐(あわ)れまれている気がする。
ここからだと宮橋の顔は見えないが、身体が若干震えている感じもあって、雪弥は反応に困ってしまった。あなたの冷蔵庫事情が僕は心配なんですけど……と、ソファに座り直した彼は思っていた。
ひとまず二本目のビールをあけて口にした。しばらく飲んで待っていると、宮橋がようやく顔を上げてこちらを見てきた。しかし、言葉をかけてくる様子はなく、じっと見つめてくる表情は固い。
「宮橋さん。それ、一体どういう感情の顔なんですか?」
「もうとりあえず色々、君という人間が僕の予想を斜め上に裏切ってくるな、と」
「僕にとっても、宮橋さんがまさにそうなんですけど」
雪弥は、間髪入れず答え返してビールを飲んだ。そもそも数時間前までスーツ姿で動いていた人と、こうして私服で楽にして飲んでいる、というのも不思議なものだ。
寝るんならこのソファ、借りてもいいのだろうか。
この一本を飲んだらひとまず寝よう。一応は仕事中みたいなものだ。雪弥が続く静けさの中でそう考えていると、向かい側で宮橋が片足を楽に上げて「で?」と言った。
「君はずっとうじうじと、何を悩んでいるわけだ?」
唐突にそう問われて、ハタと考えが止まる。
目を向けてみると、宮橋はソファに上げた片足に腕を引っ掛けて、残り少なくなったビールを飲んでいた。全部降りている癖の入った前髪が、形のいい目元にかかっている。
「えっと……宮橋さんは、出会い頭『相談役は引き受けない』とか、なんとか言ってませんでしたっけ?」
「ただ聞いてやるだけだ」
だから言え、と宮橋が一方的な姿勢で偉そうに述べる。相談という空気など微塵にもない切り出しに、いきなりの事もあって雪弥は呆気に取られた。
突然そんな事を言われても困る。だって、そもそも自分には、相談するような悩み事なんて――。
「ずっと考えている事があるだろう」
宮橋が、合わせたようなタイミングで口を挟んできた。
「人はそれを『迷い考えている』という」
そう言われて、ふっと頭に浮かんだのは先日、最後に見たの兄の顔だった。
あの時、屋敷の地下で、自分の行動を止めようとして叫び。そうして自分がするはずだったのに、最後は自ら銃の引き金をひいて、事件に終止符を打った人。
雪弥は知らず口を閉じ、じっくり思い返してしまっていた。すると宮橋が、一旦身を引くようにしてソファに背を預けた。
「まっ、別に話すも話さないも君の勝手だけどね。こうして少し暇がある、だから思っている事があれば口にすればいい、と僕は促したにすぎない」
何があったか、詳細を訊くつもりはないらしい。
そう口調から感じた雪弥は、静かに青い目を向けて、興味もなさそうにビールを飲む宮橋の姿を目に留めた。
「思うところがあれば、今、独白でもなんでも口にしてみればいい。僕は君をよくは知らない。ゆえに詮索は出来ない。たまたま居合わせた、三十代の人生の先輩だ」
よそを見やっている宮橋の目は、やっぱりガラス玉みたいで何を思っているのか分からない。けれど口下手な人間の重い口を開かせるみたいに、話すハードルを下げてくれているのは分かった。
これは、独り言。
雪弥は宮橋の言葉を思って、手元の缶へと目を落とした。自分の事を話すなんてあまりなく、自分自身の個人的な事情の考えを、どうまとめればいいのかも意識した事さえない。
だから、しばらくは言葉も浮かんでこなかった。もやもやとした思いをじっくりと考えながら、室内で静かに回り続けている冷房音を耳にしていた。
「僕は、先日、里帰りをして」
やがて雪弥は、ぽつり、ぽつりと思い返しながら言葉を紡いだ。
「母が生きていた頃、少し足を運んでいた父さん達の家でした。だから、懐かしさがあったのは本当で」
でもそこには昔から、自分の居場所はなかった。いるべきではないと幼少時代に悟り、そうして自ら距離を置いた。
どうしてか、あの頃に見たいくつかの風景が頭に浮かんだ。
あまりよく思い出せなくなっていたのに、ワンシーンみたいに脳裏を過ぎっていく。
沢山花が咲き誇っていた裏の庭園。幼い妹が花冠を作っていた事。二人の母が笑って妹に折り紙を教えていて、その輪に父が加わったのを見た。
さぁ行きましょう坊ちゃま、と勝手に迎えに来た兄の執事が、幼い自分の手を引いた光景。
片隅で座り込んでいたら、隠れていた戸が開いて、そこから光と共に幼い兄――蒼慶が仏頂面を覗かせて「行くぞ」と手を差し出した光景も蘇ってきた。
――『お前は俺の弟だ。誰がなんと言おうと、お前は俺の弟で、俺はお前の兄なんだ。堂々としてろ、【わからずやの阿呆】の言う事なんて無視しとけばいい』
まだ小学生なのに、言い方には既に問題があった。幼い雪弥は呆気に取られた。そんなひどい言葉を使っているのを見られたら、怒られちゃうよ、と言いながら、でも強制されたわけでもないのに、自らその手を取って――。
あの時、連れ出された建物の外が、眩しいくらいに明るかったのを覚えている。引っ張ってくれてそばにいる兄、こっちよと呼んできた家族も、温かさに満ちていて……。
ここにいられるのなら、どんなに幸せだろう、と一瞬思ってしまった。近くで、声をかわせる距離で、自由に会いに行けて、見守り支え続けられたのなら――。
そんな未来を想像して、叶わないのにと切なくなった幼い頃の情景。
そんな事があったんだった、と雪弥は今更のように思い出して、口角を自嘲気味に引き上げた。そんなの、家族以外の蒼緋蔵の人間が許してくれるはずもなく。
「――」
きっと訪ねたとしても、入口で使用人に追い返されてしまう。
拒絶――雪弥は、宝石のような鮮やかな青い目を、ぼんやりとさせて考える。幼い頃から、何度も考えては浮かぶ想像だった。
家族は好きだ。けれど『家』が自分を拒む。そうして、他の誰も許してくれない。自分がいると家の空気がギスギスするのだ――。
それに自分には仕事(これ)しかない。他の方法や、やり方は知らないでいる。兄の前でも破壊して殺した、きっとこちらからの断わりだって理解してくれる――。
どうしてか胸がチクチクした。
ふと、すっかり黙り込んでしまっているのに気付いてハタとした。
やっぱり自分の事については話せそうにない。雪弥は、始まったばかりの独り言を早々にシメてしまう事にして、形ばかりの微笑を口許に浮かべた。
「里帰りをして思ったんです。……やっぱり僕は、兄さんのそばにいちゃいけないんだな、って」
それだけです、と雪弥は缶に目を向けたままそう言った。
宮橋は、その様子をじっと見つめて「――ふうん」と呟きを上げた。それから二人の夜は、彼が「寝る。君も寝ろ」と立ち上がったのを合図に終わった。
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