ビル・イン・ダーク(1)

 階段は、このビルで日常的に使用されていたようで横幅も結構あった。各階ごとにポッカリと開けた出入り口があり、大きな踊り場がフロアと繋がっている。


 率先して進む雪弥は、着物の裾などしか目に留まらない少女の後ろ姿を追って、マイペースに歩き階段を上がっていった。


 どうせ走ったとしてもまた見失う。


 かといって、これ以上ペースを落としたら見失うかもしれない。


 そう考えると違和感も覚えた。先程から妙な感覚があり、ここへ来てますます雪弥の中で増してもいる。そして――少し気になっている事もあった。


 やがて五階部分へ到達した。

 その踊り場が視えるところまで来たところで、少女が羽織った着物を揺らして、ぼんやりとした横顔でフロアへすーっと進んでいくのが見えた。


 やはり、違和感。


 雪弥は、開いた瞳孔で入口を目に留めたまま、一旦やや歩みを落とした。念のために所持している銃を取り出すまでの速度を換算してから、宮橋を自分の後ろに置いた状態で、気を付けて進み出る。


 そこには、がらんとしたフロアが広がっていた。


 踏み入った二組分の足音が、床の上でコツコツと音を立てて鈍く響き渡る。


 どうやら複数のオフィスが入っていた階であるらしい。隔たりが一部取り除かれ、残されている柱の感じからもその印象を受けた。


 しばらく進むと、当階で共有使用されていたと思われる広い廊下に出た。ガラスが外された大きな窓枠がいくつも続き、月明かりが少し埃っぽい床を照らし出している。


 随分長い廊下だ。向こうに右手へと折れて繋がっているのが見えるが、数が多く感じる等間隔の窓穴のせいか、ぐいーっと廊下が伸びているみたいな錯覚もあった。


 そこを進んですぐ、自然と二人の足がピタリと止まる。


 風が外から入り込んで、柔らかく吹き抜けて行く音が聞こえた。空気の流れを感じた後、残ったのは初夏の湿った静寂だった。


 だが、雪弥は、風があったとしても静かすぎる気がした。


「――無音状態、だ」


 ふと、そんな声が聞こえた。


 目を向けてみると、そこには険しい表情をしている宮橋がいた。


「それはどういうものなんですか?」

「いくつかの種類に分かれるが、今の状態だと、外からの音が遮断されている感じだな。ほら、『社会の音』が聞こえないだろう」


 そう言われて、静かだなという違和感の一つに気付いた。都会の真ん中にいるのに、車の走行音が途絶えるなんて雪弥はほとんど経験がない。


「…………本来、鬼化するはずもなかった少女。そうして、彼女は『自我がないはずなのに』ここへ来た――嫌な予感が数割増しだ」


 宮橋が低い声で、思案をこぼす。


 確かに、自我がないにしては、動きにどこか意図があるような気はしていた。はじめは、ふらふらと町中を彷徨っている感じだったが、じょじょにこちらへ向かわれた感じもある。


 そうしばし考えたところで、雪弥は宮橋に確認した。


「つまり、僕らは誘い込まれた、と?」

「君だって本能的に感じ取っているだろう。この場に満ちている緊張状態を」


 宮橋がジロリと視線を返して、やや強張った口許を引き上げて言う。


 少なからず推測はあった。それでいて、ピリピリし始めた空気の変化を感じながらも君はどんどん奥へ進んだ――そう彼は、自分に確認しているのだ。


 だから雪弥は「そうですね」と、しれっと答えた。


 秀麗な眉を寄せている宮橋が、舌打ち顔で「だろうな」と相槌を打つ。


「ったく、怖さを知らないというのも恐ろしいな――それで? 君の感覚だと、ここにある『異常物』はいくつだ」

「一つです。だから、彼女自身なのかと思ってもいましたが」


 建物を進んでみて分かった。気配が違う。


 そう雪弥は、思って感じたままの事を彼へ答えた。


「だから僕、思ったんですよ。あの女の子、幽霊みたいだなって」


 この階へ来て理解した。今、いるかいないかも分からない少女から、雪弥の第一目的はとうに変わっていた。


 爪が疼く。ピリピリとした空気を前に、戦闘時と同じように五感が研ぎ澄まされていくのを感じた。


「だってこの階、別のがいるでしょう?」


 雪弥は、廊下の奥へと視線を投げた。


 その瞳孔が開いた目は、形のいい唇と同じく知らず笑みを浮かべていた。先程と違って存在感がある。幽霊や幻や、そして宮橋が言っていた保護しなければならない少女でもない。


「…………君、これまで見た中で一番活き活きしてるなぁ」


 考えを見て取ったらしい宮橋が、若干げんなりとした様子で呟く。


 よく分からなかった雪弥は、彼に目を戻してきょとんとして言った。


「宮橋さんの護衛って、こういう意味でもあったんですね」

「馬鹿言え、日常的にこんな事があってたまるか。僕のは『見えない方』の事情であって、今回は巻き込まれているだけだぞ」


 目をパチリとした雪弥に向かって、宮橋は続けて言いながら指を向けた。


「恐らくは、君だよ」

「僕?」

「君の件で、あの鬼の男の他にも動いている者がいるらしい。魔術師として有る僕にも察知出来ないくらい、巧妙に動ける奴がね」


 宮橋が、苛々した様子で詰め寄ってそう言う。


「そうであれば、あの少女が鬼化しかかっている現象についても説明が付く。たかがツノが出ただけで、怪異としての無音状態も引き起こせないはずで」


 その時、向こうで何かが動く気配がした。


 雪弥と宮橋は、一度言葉を切って物音がした廊下の向こうへ目を向けた。床を鈍く這うような、引きずるような、それでいて歩くみたいな重量感ある音――に聞こえなくもない。


 そちらへ注意を向けつつ、雪弥は再び彼と目を合わせた。


「宮橋さんから言わせると、こうして外の音が入って来ないのも、何かしら前もって仕掛けがされていたせいだというわけですか?」

「今の状況から考えるに、その可能性しか浮かばない。恐らくは僕らが踏み込んだ時点で、複数の術がゆっくり一つずつ発動していったんだろう」


 おかげでこの僕が気付くのが遅れた、と、宮橋が舌打ち交じりに言った。負かされるのも嫌いな性格であるらしい事が、なんだかよく分かる様子だった。


 現代の魔術師、ねぇ……なんだかやっぱり現実感がない。


 今のところ雪弥としては、それこそ自分と関わりがあるのかも不明瞭な第二の術者の有無よりも、その者の目的よりも、まずの気掛かりが一つあった。


「あの女の子は、無事なんでしょうか……」

「君も察しているだろう、彼女はもうこの建物にいない。もしかしたら途中から完全な幻影だったのかもしれないが――どちらにせよ、今となっては判断が付かない」


 自らまた『向こう側』の道へ入って、世界(ここ)からいなくなってしまったのか。はたまた何者かの介入により、一旦ここから引き上げてしまったのか。


 それとも途中で『別の何か』と入れ替わっていたとすると、自分達は、本当に幽霊みたいなモノを追いかけていたのか?


「謎だらけだ。判断材料の少ない今、考えるべき事じゃない」


 そんな宮橋の声が聞こえて、雪弥は思考を中断した。


「そもそも、今、考えるべきはそちらじゃないだろう――ったく、面倒なくらいに色々と糸が絡み合っているもんだ、とんでもないよ、全く」


 そう一人愚痴るように口にした宮橋が、廊下の向こうを警戒したまま顔の前で指を一つ立てる。そのガラス玉みたいな明るいブラウンの目が、先程より僅かに明るみを増していた。



「無音状態」



 そう呟かれた直後、ブツリ、とチャンネルが替わるみたいに外からの音が消え去った。風がピタリとやんで、ピン、と空気が変わったのを雪弥は感じた。

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