第21話:修羅場 in 風呂場

 種明かしは、こうだ。


 大崎おおさきのマッサージからその後まで仮眠をとった時に俺は夢を見ていた。


 それが、大崎と一緒にいる夢だったのだ。


 夢を見た理由は、簡単。


 大崎の香水の匂いと同じフレグランスが、大崎の枕にもついていたから。ピローミストというやつだろう。


 ラベンダーの香りには安眠の効果もある。


 眠った後にも、俺の鼻は大崎の匂いを感じ続けていた。


『視界にいる人』を『頭に浮かべている人』と定義しているなら、『寝ている間に夢に出てきた人』も対象になるということなのだろう。


 つまり、睡眠という最もリラックスしていた時間にずっと視界に入っていた大崎すみれが勝利した。


 ……と、蓋を開けてみれば、馬鹿らしいほど単純な話だった。






 ……そして、その1時間後。


 俺は色んな意味で身体を硬直させてベッドに腰掛けていた。


 この部屋は、厳重に鍵がかかっており、咲穂や舞音を含む外界からの侵入を朝までシャットダウンするらしい。その代わり内側からも出られない、という完全なる密室だ。


 そんな、異常なほどの2人きりの部屋に大崎といるというだけでも緊張するのに、風呂場からは水の音がしていた。


 ザァーと、シャワーから放出されるお湯の音の中に、時折ピチャピチャと大崎の動きに応じて鳴っているであろう音が混じり、なんとも生々しい。


 ソファーなどもない部屋で、他に所在もなくベッドに腰掛ける。


 なんとなく入り口近くの風呂場の方を見ることははばかられて、反対側の壁にかかった抽象絵画を見ていた。何が描いてあるのかさっぱり分からないが、クリーム色の部分がちょうど裸の人の形みたいに見えてきて、……いや、やばいな、俺。


 素数でも数えるか、と、そんなことを思いついた矢先、不意に、ベッドが沈み込むような感触がお尻に伝わってきて、次の瞬間。



「むぐっ!?」

「しっ」



 後ろから濡れた手に口を塞がれた。


 そのまま上をそっと見上げると、大崎が俺の頭を抱きかかえていた。


 濡れた髪が俺の頬に垂れ下がる。


 どうやらバスタオルを身体に巻いていて、ベッドには膝立ちで立っているらしい。


 ん、じゃあ、後頭部にごくごく僅かに感じる感触は……肋骨?


「何か失礼なことを考えていない?」


「……!」


 もごもごと首を横に振る。


「このままお風呂に来てちょうだい。ちょっとでも声を出したら、このままあなたを窒息死させるわ」


 そう耳元で囁かれ、俺は降伏の意味をこめて両手を挙げる。


 彼女に引きずられるまま、静かに風呂場へと向かった。


 風呂場ではシャワーが流しっぱなしになっている。




 そのままバスルームの壁に押し付けられて、今度は向かい側から手で口を塞がれた。


 そのまま彼女は俺の耳元に唇を寄せて、シャワーの音に消えそうなほど小さな声で、


「平河くん、これから言うことをよく聞いて。これから話すことだけが、真実だから」


 と囁く。


 どういうことだ……?


「まず、この恋愛留学中、私は自分の洋服に盗聴器を仕込んでいるの。自分の手で、毎日」


 俺の頭に浮かんだ『なんのために?』という質問は当然だったようで、大崎は続けて説明してくれる。


「盗聴器は5Gモバイルデータ接続に対応しているの。盗聴器に入った音声は全て録音されて、次に電波を捕まえた時に、私の実家……大崎ホールディングスに送られている。それが、私がこの留学に参加する条件だったから。ここまで分かった?」


 俺はうなずく。理由はまだよく分からないが、起こっている事象は理解した。


「つまり、私が本当のことを話せるのは、裸や水着の時だけということよ。今も、部屋にある服に盗聴器が仕込まれているわ。シャワーの水音よりも大きな声を出せば、聞こえてしまうと思ってちょうだい。そこまで理解してくれたら、この手を外して発言を許可するわ。分かった?」


 俺はまたうなずく。


「ありがとう、平河くん」


 彼女はそう言って、そっと俺の口から手を離した。


 俺は、彼女にならって、彼女の耳元に唇を寄せる。お互いの耳元にお互いの唇を近づけている格好になる。


「どうして、そんなことになってるんだ?」


「はぅ……」


 はぅ?


「……なんでもないわ」


 なんでもないわ、などといいつつ立っているのがつらそうに、俺にすがりつく大崎。


「大崎、もしかして、」


「んくっ……!」


「耳……弱いのか?」


「……わかん、ないっ……!」


 どんどん力がなくなっていくのか、すがりつく力が強くなっていく。


「立ってるのきついか?」


「う、うん……」


 しおらしく、こくりとうなずく大崎の赤くなった耳を見て、俺の体のどこかが異常な反応を示し始める。おいおいおいおい、1、3、5、7、9……!


 慌てて素数を数え始めるも遅く(ていうか奇数言ってるだけだし)、しかも、彼女の濡れた体との密着度が増し、どうしても俺の生理的欲求が反応せざるを得なくなる。


「……な、なに、してるのよ、こんな時に!」


「ちょっと、声がでかい……!」


「んぅ……!」


 ていうかその吐息やめてくれよ……!


「こ、このままじゃラチがあかないわ。ちょっと我慢してね、平河くん……!」


 どうしようもなくなった2人のために大崎は、


「冷たっ……!」


 蛇口のノブをぐいっと回し、お湯の温度を一番低くする。




 冷や水をかけられたことで2人とも、多少冷静になったらしく、やっとちょっと話せる状態になった。


「と、とにかく……! 詳しく話す時間はないわ。私、いつも長風呂じゃないのよ。今日だけ長いと色々疑われちゃう。とにかく、あなたにここで聞いて欲しいことは1つ」


 なんとか立て直したらしい彼女が真剣な声で言う。


「私は、私自身が、あなたと一緒になりたくて、ここに来たの」


「大崎自身が……? 家の繁栄のためなんじゃ……?」


「違うわ。大崎ホールディングスがどうなったって構わない。政略結婚だなんていうのも、実家に対しての嘘だし、あなたの立場に興味があるだなんていうのも嘘よ。本当は、私が平河くんと一緒にいたいだけ」


「それって……」


 呆気に取られている俺の耳元から唇を離し、


「私、本当はあの日、別れるつもりなんてなかった」


 大崎は俺の目をその潤んだ目で見つめる。


「平河くんのこと、大好きなの。恋してるの、愛してるの。世界の誰よりも、ずっと」


「大崎……!」


 その告白は、俺にとてつもない衝撃を与える。


 じゃあ、あの時なんで? とか、そんなことすらどうでもいいほど、目の前の彼女は必死で、妖艶で、綺麗で、儚い。


「やっと、言えた……!」


 そして、水に濡れたままでも分かるほど大粒の涙を彼女はぼろぼろとこぼして、俺の胸に顔を埋める。


「平河くん、平河くん、平河くんっ……! 大好き、大好き、大好き、平河くんっ……! やっと、やっと言えたあっ……!」


 そして、目元をこすりつけるように、顔を一生懸命押し当てる。


 ダメだと分かっていても、それが俺に正当な判断をさせないと分かっていても。


 それでも、心を大きく掻き乱されてしまう。


 ……だからこそ、どうしても一つだけ聞く必要があった。


「……それすら、嘘って可能性は、ないのか?」


 その言葉に大崎はそっと顔を俺の胸から離し、もう一度真剣な顔で俺を見つめる。


「信じてくれなくて当然ね。結果的に、あんなことになってしまったし……。でも、」


 そう言いながら、彼女はそっと、俺にその唇を触れる。


「……これがせめてもの証明になるといいのだけれど」




「……俺、キスされるの、初めてなんだけど」




 俺が白状すると、


「あら、奇遇ね。実は、私も初めてなの」


 黒い髪と黒い睫毛を濡らした彼女は、いたずらな微笑みをこぼした。


「初めて付き合った誰かさんが、してくれなかったからよ?」 

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