第5話 悪魔の囁き

 エリックは何事も無かった様にマリアの元へ駆け寄った。


「マリア。大丈夫かい?」

「えぇ。これから子どもたちのためにピアノを」


 立ち上がるマリアをエリックがしっかりサポートする。


「ラミア? ラミアも側にいるのですか?」

「いや、どうしてだい?」


 ピアノの椅子に座り鍵盤の位置を探りながらマリアが訪ねた。


「ラミアの香りがしたので、てっきり…」

「あ〜、先ほど裏の倉庫部屋で在庫の確認をしていたので、その時に香りが移ったのかもしれないな。マリア、準備はいいかい?」

「えぇ」


 マリアは少し戸惑いつつも、綺麗な指先で音楽を奏でる。子どもたちだけではなくその場にいた誰もが酔いしれる旋律。心地よい音色が響き渡った。


「エリックってやつ、平気で嘘こきまくってる。マリアに近づくな!」


 カミュアが苦虫を潰したような顔でパンをかじりながらつぶやく。ヤキモチを焼いている子どもにしか見えない。

 そんなカミュアの横で背中や腕をさっきから掻きほぐしている人物がいた。


「どうしたの? アーリーン」

「た、耐えられない。穏やかな音色で身体中が…。か、痒い」


 アーリーンは音色から逃れるように、先ほどエリックとラミアが居た部屋へ駆け込んでいった。


「見習いとはいえ…。悪魔も大変だね」


 アーリーンが消えた入り口を眺めながらカミュアはマリアの音楽に酔いしれていった。このままずーっとこの音の中にいたい。そう思わせるほど暖かく優しい音色だった。子どもたちもマリアと一緒に歌い始める。素敵な景色だ。



 やっとのことで駆け込んだアーリーンが入ったその部屋は、ジャガイモや小麦などが保管されてる部屋だった。マリアの演奏する音楽の音はだいぶ小さくなり、身体中の痒みも少しおさまってきた気がする。

 冷んやりしたこの部屋の奥に、ラミアが座り込んでいた。髪は乱れ、身だしなみも少し乱れているようだ。この部屋で何があったかは簡単に想像がつく。


―― カミュアに会わせられないな。この格好じゃ。


 そう思いながら、一歩また一歩ラミアに近づいてみる。


 天井に近い窓から月の灯りがラミアを照らしている。ラミアは泣いているようだ。思わず手を差し伸べたくなる。


―― 待て待て、俺が手を差し伸べたら…ラミアの悪意は膨張するに違いない。見習いだけど、俺にだってそのくらいの影響力はあるんじゃないか〜?


 自分に言い聞かせ、少し離れたところから声をかけてみた。


「どうしたの?」


 自分が今、貧しい人間の格好をしていることを思い出し、それっぽく声をかける。


「誰?」

「あ、ごめんなさい。ここにパンがあるって聞いたから、手伝いに来たんだ」


 嘘も方便。


「こちらこそ、ごめんなさいね。今持って行くわ」


 ラミアは涙を拭き、身なりを整える。


「お姉さん、泣いてるの?」


 ラミアにだって言い分はあるに違いない。ラミアからの黒いもやは今、力なく萎んでいるように感じる。


「僕でよかったら、話してみてよ。さっき僕も話を聞いてもらったんだ。とても気持ちが楽になったよ。だから、ね」


 アーリーンは人間になりきって語りかける。カミュアには絶対に見せられない光景だ。あいつ、絶対腹を抱えて笑うぞ。


「ありがとう。人に優しくされるのって心が軽くなるのね」


 寄付されたフランスパンを3本抱えて、ラミアが立ち上がった。身なりも整え何事も無かったように。ほつれた髪を耳にかける。


「君の名前は?」

「僕? 僕はアーリーン。お姉さんは?」

「ラミアよ。ここは寒いは、戻りましょう」


 扉を開くと、音楽と子どもたちの歌声が大きくなる。


「この歌、嫌い」


 ボソッと呟きながら、ラミアはホールへと戻って行った。


「同感だね」


 せっかく部屋に戻ってきたアーリーンだったが、だめだっ痒いっと言いながら建物の外へ逃げ出していった。


「かわいそうにな〜ぷぷ」


 カミュアは言葉とは裏腹にアーリーンの不幸を面白がっているように見える。


 盛り上がるホールは暖かい空気で満たされていた。一時の幸せな時間。マリアの笑顔とそれを支えるエリックの姿。幸せの絶頂にいるカップルに見える。


「マリア幸せそうだな」


 カミュアも幸せに包まれる思いがした。ストーンも心なしか暖かい。


『マリアさえいなければ。あいつさえいなければ…』


 カミュアは自分の耳を疑った。誰? ラミア? 悪意に満ちたその声がカミュアの頭の中に飛び込んできた。

 慌てて周りを見渡すと、壁にもたれ小さな小瓶を見つめているラミアがいた。


『マリアなんていなくなっちゃえばいい』


 黒いもやが大きくなりマリアを包みこみそうになる。その瞬間、マリアの手が止まった。


「はい。これでおしまい。そろそろお開きにしないとな。みんな部屋に戻りましょう。夜更かしするとお化けに食べられちゃうぞー」


 エリックの声だ。


 えー。まだ〜一緒にいた〜い。駄々をこねる子どもたち。


 ここにいる子どもたちのほとんどは隣の孤児院に住んでいるようだ。そろそろ門限があるのだろう。気づくとシスターが迎えにきていた。


「また遊びましょう」

「絶対だよ〜。マリア〜また歌ってよね〜」


 子どもたちは渋々、シスターについて教会をあとにした。それと入れ違いにアーリーンが凍えながら部屋に戻ってきた。


「う〜寒い。外は雪が降りそうだぞ」

「外にいるからだよ」

「やっと終わったみたいだな〜。寒いが痒くなるよりマシだよ」


 中にはボランティアの人たちと、久しぶりの食事にありついている大人たち、そしてカミュアたちが残っていた。これからは大人の時間だ。


「アーリーン大丈夫? 僕は…、宿題が終わったかどうかもわからないや」

「ま、そうゆうこともあるさ」


 結局ストーンが光ったものの、どのくらいポイントが貯まったかもわからずじまいだ。


 部屋の中央にはエリック、教会のシスターたち、そして食事をもらいにきた大人たちがマリアを囲んで話に夢中になっていた。マリア像の近くでは、炊き出しを配っている女性や、ボロボロの服を何枚も身にまとった老婆が、まだシチュー欲しさに並んでいた。


『マリアなんていなくなっちゃえばいい』


 奥の暖炉がある壁際に、ラミアが老人と語り合っているのが見えた。


「ラミアのもやが濃くなった気がする…」

「見てみろカミュア。あそこにさっきの爺さんがいる。多分ラミアが標的だ」


 ボロボロの服をまとい、木でできた杖を持った老人がラミアに話しかけている。ラミアの手には小さな小瓶が握られている。あれは何だ?


『簡単なこと。マリアのシチューに数滴垂らすだけ。お前の希望のぞみは叶えられる。くっくっ』


 引きつった嫌な笑い声。みんなには聞こえないのか? カミュアは今すぐにでもぶん殴りたい気持ちをグッと堪えていた。縄張り。アーリーンがさっき言っていたではないか。


 それだけじゃない。カミュアは老人に恐れを抱いたのだ。黒くて濃い闇があまりにも深く、近寄ったら飲み込まれてしまいそうだ。


「カミュア? 大丈夫か?」

「アーリーン。僕は、僕はどうすればいい? ラミアが闇に飲み込まれる」


 カミュアは震えていた。急に自分まで闇の中にいるような、そんな錯覚に陥る。


「カミュア、大丈夫だ。どうするかを決めるのは人間だ。悪魔の囁きに引きづられるのか、思いとどまるのか。それを決めるの本人しかいない。あの爺さん、ラミアの揺らぐ心を見て楽しんでいやがる」


―― どうすればいい? どうすればいい?


 カミュアはそればかり考えていた。


「ブツブツ言ってても仕方がないぞ?」

「そうだ! アーリーン。いいことを思いついた」

「な、なんだよ急に」


 こうゆう時のカミュアはとても危険だ。絶対無理難題を押し付けてくる。


「アーリーンがあの爺さんの気を引けばいいんじゃない? 挨拶して来ればいいじゃん。その隙に僕がラミアをなんとかする」

「おいおい…。こんばんわ〜って気軽に挨拶か!? やめてくれ。仕事の邪魔はしない主義だ」


 プーっとふくれっつらを見せるカミュア。くそぉ〜可愛いぞ。


「ふくれっつらしてもダメなものはだめ。悪魔的ポリシーだ」

「僕がこんなにお願いしても?」

「ダメだ」


 アーリーンが折れないことを知るとカミュアは次のプランを考え始めた。

 ブツブツブツブツ。


「おいおい…」


 一体いつ俺たちは帰れるんだ?


「そうだ。ちょっと待ってって」


 カミュアはそう言うと、マリアのそばに歩み寄りエリックに声をかけた。アーリーンが何か反論する時間を与えない行動力だった。


「エリックさん? ラミアさんがあっちでシチューの残りを片付けるお手伝いをしてほしいなーって言ってたよ」


 急に話しかけられたエリックは戸惑っている。知らない女の子に声をかけられたのだから無理もない。


「あ、ありがとう。マリア、ちょっと行ってくる」

「わかったわ」


 エリックはマリアのおでこに軽くキスをしてラミアのいる方へ歩いて行った。

 このタイミングで、ボランティアの面々も片付けのため席を外す。


「カミュアさんね」

「えへへ。 わかってたんだね? 僕だって」

「えぇ。見えなくても感じるものなのですよ」


 カミュアはマリアの隣に腰をかけた。普通に話しているとマリアが目が見えないとは思えないほど、マリアはしっかりとカミュアの顔を見つめていた。


「マリアはいつから目が見えないの? 子どもの頃から?」


 おいおい、ストレートな聞き方だねー。アーリーンは内心ドキドキしていた。相手の気持ちを傷つけやしないかと心配で仕方がない。悪魔見習いのアーリーンが気にするところではないが、気になるものは気になるのだ。それと同時にカミュアたちに注意を払いつつ、ラミアと爺さんの動向にも気を配る。


―― 俺ってなんていいやつなんだ。(自画自賛)


「あ、ごめん。僕変なことを聞いちゃったかな?」

「いいえ、大丈夫ですよ。ちょっとびっくりしただけです。みなさん腫れ物に触るようにこの話題を避けますから」

「何かあったの?」

「いいえ、何も。この目は…。5年ほど前に事故で」


 カミュアのストーンが急に輝き始めた。

 フワッと宙に浮かんで光が弾ける。周りの人間は時間が止まったかのように動かない。


「ア、アーリーン?」


 カミュアは振り返ってみるが、アーリーンの時間も止まっている。


 ストーンは回転をしながら光の中に映像を映し出す。


「こ、これは…」


―― マリアの記憶…?

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