エピローグ3 ~あるいは少年の始まりの誓い~

 泣き疲れて、眠ってしまった妹の頭を撫でながら――


「……よかったのかい? 何も言わずに帰ってしまって」


 父ラトールがそう言ってくるのを、ジークフリートは窓の先を見ながら聞いていた。

 馬車は整備された街道を駆ける。走る地の名はメイスオンリー辺境領。ただしこの馬車は行くのではない――王都へと帰るのだ。


 車内にいるのは三人だけだが、そのうちの一人、ツェツィーリアはもう寝てしまっていた。スカーレットとの別れに泣き疲れて、今はしがみついていたラトールに頭を撫でられている。

 二人と向かいの席に座っていたジークフリートは、馬車がメイスオンリー邸を離れてからずっと、窓の外に広がる世界を見つめていた。


 記憶に焼き付けるために見つめていた景色は、だがどこを切り取っても、変わり映えのない平原の眺めばかりだ。

 王都から遠く離れた辺境領は、言ってしまえば未開の田舎だ。見るべきものなど何もない――ここに来るまではそう思っていたし、ここに来た後もそう思っていた。スカーレットと共に街へ出かけた時など、実際に何度も悪口を言った。

 今も、そう思う心はゼロではない。何もない平原の景色から、意味のある何かを見出すことは難しい。だがそれでも、時折ふとその何かが見つかりそうな気がして……それを見逃してしまうと後悔するような気がして、目が離せない。

 沈黙が長くなりすぎる前に、ジークフリートはぽつりと答えた。


「いいんです。今は何を言っても、何の価値もないんだって、わかってしまったから」

「……価値?」


 面白がるように――だけど表情には出さずに、父は繰り返す。

 どう答えればいいか。平原に何かを探すのと同じように、正しい“それ”を選ぶのも難しい。伝えたい想いはある。だがそれを間違わずに伝えられる言葉が見つからなかった。

 言葉を探すたびに、脳裏によぎるのは少女の横顔だ。赤い髪、赤い瞳の、自分と同い年の少女。

 どうして横顔なのかといえば、最も痛烈に記憶に残った光景がそうだったからだ。

 彼を守ると誓い、傷つきながら戦い続けた。その顔だった。


「ボクは……」


 訊かれている以上は、何かを答えなければならない。だが言葉を見つけられないでいるうちに、ラトールはこちらを見透かすように、先回りした言葉を告げた。


「スカーレット嬢の部屋を去る時、君は泣いていたね……あの涙の理由は、それかな?」

「…………」


 認めるのには、力がいる。意思の力だ――嘘とごまかしに逃げないようにするためには。

 きっと、今までならそちらの方に逃げていた。自分は偉い王族だからと、何の言い訳にもならない理由にすがりついて。

 だけどもう、逃げられないと悟ってしまった。その答えから逃げたら、自分はもう何にもなれないと。

 それを悟ってしまったから。


「何もできなかったんです、父上。あいつが戦っている間、ボクはずっと……ずっと――!!」


 ゆっくりと、冷静に答えようと思っていた想いが、ひび割れる。

 泣き出したくなる衝動のまま、ジークフリートは己の弱さを吐き出した。


「ボクは役立たずだった――何もできなかったんだ! 王の力を授かったなんて浮かれて、あんなに皆を見下してたのに! あいつが戦っているとき、ボクは何もできなかった! 練習した剣も、目覚めた力も! ボクは、何の役にも立てられなくて……」


 だがその衝動も、長くは続かない。


「あいつが戦っているのに……ボクには、何もできなかった……何もできることがないからって……何もしなかったんです。父上」


 認めてしまえば楽になるなんてことはない。思い知ったのは自分のみっともないちっぽけさだ。

 無力で、弱くて。女の子に守られていることしかできない、“王族”という価値しか持ちえない子供。

 それが自分なのだと。


「ボクはただ……あいつの影に隠れて怯えてることしか、できなかったんです」


 それを思い知った今……自分の言葉に価値なんてないと、わかってしまった。


(ボクが……もっと、剣の練習をしてたなら……ボクがもっと、強かったなら……)


 もっと必死に、剣を学んでいたのなら。もっと自分が戦えていたのなら……彼女は、あんなにも傷つかなくて済んだはずだ。

 その後悔に、握りしめていた拳が震える――


「……そうだよ。それが、私たちなんだ」


 ハッと。

 その声に、うなだれていた顔を上げた。


「王様にできることなんてね。ほとんどないんだよ、ジーク」


 視線の先で、父は静かに微笑んでいた。

 諦観とは違う。寂しげに、だけどその至らなさを受け止めるように。やるせない現実を仕方なく認めながら、それでも折れずに前を向くように。

 己の弱さを認めながら。それでも、諭すように父は言った。


「私たちにできることなんてない。私たちの仕事は、人に役目を与えることだ。どれも全部を自分一人でなんてできないから、みんなで集まって、国って名前の集団になった。そしてたまたま、私たちがみんなに仕事を与える役目を預かった。王様だなんだって仰がれてもね、結局はその程度のことなんだよ」

「…………」

「何もできないんだよ、ジーク。私たちはただ、誰かに想いを託すことしかできない……だからこそ、私たちは笑わなければならないんだ。君に任せる、だから好きにやりなさいってね。私たちがやらなければいけないことは……できることは、突き止めてしまえば、それだけなんだな」


 それは不思議と、あの砦で、スカーレットが言ったこととよく似ていた。

 父が語ったのと同じようなことを、あの少女も言っていた。それをどう受け止めればいいのか、それがジークフリートにはわからない。

 だがそれは不思議と……悪いものではないような気がして。

 思い知った無力感を和らげてくれはしなかったけれど。それでも少し、肩の重みをなくしてくれたような気がした。

 それが父にもわかったのかもしれない。

 父はふっと笑うと、唐突にこう言ってきた。


「ジークは、何か欲しいものがあるかい?」

「……ほしいもの?」


 それが本当に唐突だったから、思わず眉根を寄せてしまった。

 その反応の、何が面白かったのかはわからない。だが父は楽しそうにくすりと笑うと、


「スカーレット嬢に、褒賞を断られただろう? あの話、もし彼女が褒賞を望んだなら、その時には君にも褒賞を与えるつもりだったんだ。スカーレット嬢と共に、邪教の企みを阻止してツェツィを救った、小さな勇者たちとしてね」

「父上、ボクは――」


 何もできなかった自分が、褒賞をもらうわけにはいかないと。

 咄嗟に出かかった反論を、だがラトールは手をかざして止めた。


「もちろん、スカーレット嬢がああ願ったから、褒賞の件はなしだ。だから君に欲しいものを聞いたのは、褒賞とは全く関係ない。君が成長したと思ったから、祝ってあげたくなったんだ」

「…………」

「スカーレット嬢は、領と、領民と、ヒルベルトのためにああ願った。ならば、君は何を願う?」

「……ボクは……」


 昔なら。

 ふと考えたのは、それだった。昔なら、どんなことを望んだだろう。どんなものを欲しがっただろう。

 それはわからないが、昔の彼なら素直にそれに食いついたはずだ。与えられること、何かをもらうこと、ただそれだけが嬉しくて。自分の欲求に素直に従っていたはずだ。

 だけど今はもう……そんな無邪気には喜べない。

 だから。


「……一つだけ、お願いがあります」


 今度は、告げるのに力はいらなかった。

 ただ静かに、ジークフリートはそれを願った。


「ボクに……騎士としての訓練を、受けさせてください。これまでみたいな、遊びじゃなくて……もっと、本格的なものを」

「それを望んだ理由は?」


 父の静かな問いかけに。

 喉の奥から振り絞るように。恥と向き合いながら、彼は答えた。


「いつかまた、あいつと会った時に……恥ずかしくない、ボクになりたいんです」


 ――ここに来るまで、自分はただの恥知らずな子供だった。

 そして彼女に守られている間、何もできない無力な子供だった。

 彼女に見せた自分の姿は、その全てがどこまでも愚かで、みっともなくて、滑稽で――


「あいつが、命を賭けてボクを守ったことを……誇ってもらえるような、ボクになりたいんです」


 だからこそ、ジークフリートは変わりたかった。変わらなければならないと願ってしまった。

 でなければもう二度と、あの少女の隣に立つことさえ許されない気がしたのだ。

 懺悔のようですらあった告白を静かに聞いていた父は、やがて、ゆっくりと頷いた。


「……わかった、ジーク。帰ったら、君の教育を見直そう……これまでよりも、過密で、辛いものになる。それでもいいね?」

「はい」


 ジークフリートは即答した。それには覚悟も、決意もいらなかった。

 ただそうでなければならないと、使命めいた想いを信じていた。

 視線の先で、父は笑っていた。


「――ジーク。よき王を目指しなさい」


 父は出し抜けにそう言うと、王として――だが同時に父として、ジークフリートに言葉を授けた。


「きっと、君が王になることはない。順当に行けば、王位を継ぐのは第一王子だから。第三王子の君が、王になれるなんてことはない……それでも、よき王になることを忘れないようにしなさい」

「…………」

「それはきっと、君を一回り大きな男にしてくれる」


 誰のためにでもなく、あの子に胸を張れるように――それをラトールは言葉にしなかったが。

 その言葉に導かれるように、ジークフリートはまた窓の外に視線をやった。


 平原は何も変わらない。領都ゾルハチェットはとうに過ぎ去ったから、それより遠くにあるメイスオンリー邸が見えたりもしない。

 何もない平原に、価値のあるものを見出すのはやはり困難だ。

 だが。


(いつかまた、この地にやってきた時に)


 自分がもう少し大人になれていたのなら――あの少女を少しでも守れるほどに、無力ではなくなれていたのなら。

 その時には、見えてくるものも変わるかもしれない。


 ジークフリートは自らの拳を握り締めた。今度は悔しさからではなく……固く、覚悟を決めるために。

 この日の決意を――ここで出会った全てを忘れない。

 恥も、痛みも、悲しみも。己の無力さも、あの少女の強さと笑顔も。

 それを一人、己に誓った。


 ――父はそれを、見守るように静かに見ていた。

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