エピローグ2
――それで終わってくれればよかったのだが。
「あ、あの……そ、ソニアさん?」
「…………」
ところ変わらず、スカーレットの自室。ところ変わらず、ベッドの上。
ラトールらロイヤルたちが去った後、部屋に残されたスカーレットを待っていたのは……絶対零度のオーラを纏った、姉貴分ソニアの無言の圧力であった。
特段何か、変わったことをしてくるわけではない。今日の彼女の役割は、スカーレットの付きっきりの看病だ。それ自体はこれまでにも何度か――例えば風邪を引いた時とか――あったことではあるので、やはり特段問題ではない。
ないのだが……今目の前で起きているのはこれまで体験したことのない事態だったので、スカーレットは怯えと戸惑いをないまぜにした顔をするしかなかった。
「そ……ソニアさん? あの……き、聞こえてます?」
「…………」
先ほどは呼びかけたのに無視された。今度もしっかり聞こえているはずなのに、ソニアはピクリとも動かない……その眼球すら。
彼女は今、針仕事に精を出しているようだった。スカーレットの着替えと包帯の交換を済ませ、現在は待機中。その間に出来ることとして、針仕事に手を出したのだろう。今は贈答用のハンカチに、メイスオンリー家の刺繍を入れているところだった。
たっぷり数えて、二十秒。おそらくはスカーレットだけが感じていた、その気まずい沈黙を挟んで――
「何か御用でしょうか、お嬢様」
じろりと睨むような気配だけ発して――ソニアはハンカチから顔をあげなかった――、訊いてくる。
その強さに押されて、思わず声が上ずったが。
「い、いや……その、用ってほどのもんじゃ、ないんだけど……」
「であれば、仕事に集中させてください」
ソニアはピシャリとそう言って、談笑の“だ”の字も見えない会話を終わらせた。
そのままサッと素知らぬ顔で、針仕事へと戻っていく――
(いや、その……そのあからさまに“私怒ってます”オーラを出しながらほっとかれても、困るんだけど……)
さっきからずっとこの調子である。さっぱり取りつく島がない。
ソニアが気難しい娘かというと、そんなことはない。実の父親から鉄の女と評されてはいるが、それはあくまで姉貴分として、スカーレットにみっともない姿を見せないためにやっているのだ。
当人は至って素直な、可愛いもの好きな普通の少女である――だけに、今回の怒り様が何故なのかが、スカーレットにはわからない。
どうしようもなくなれば、もう後に残る選択肢は一つしかない。
観念して、スカーレットはそのまま訊いた。
「あの……ソニアさん? お、怒って、ま……す?」
瞬間――
ピクリと。名を呼ぶよりもハッキリと、ソニアは動きを見せた。
一応は、無視しようとしたのだろう。止めてしまった針の動きを再開しようと、指を動かそうとして――
「――怒ってるか、ですって?」
だがそれももう無理だと悟ったのだろう。ソニアは手に持っている物を、全て放り投げた――
いや、違う。放り投げたのは、手に持っていた物だけではないと遅れて気づいた。
自制だ。澄んでいると思った瞳が、ジワとうるんで光り出す。それでも睨むようにしてソニアが口にした言葉は、驚くほどに冷たく響いた。
「聞かなければ、わかりませんか」
「…………」
「本当に、聞かなければ、私の気持ちがわかりませんか……!」
言い募りながら、近寄ってくる。肩を震わせて――もう我慢するのをやめて。
鉄面皮に入ったヒビを、もうソニアは隠していない。
「人の気持ちも、知らないで……!!」
声も。押し殺していた激情を隠せてはいなかった。
スカーレットは逃げられない。ベッドの傍まで詰め寄ってくると、ソニアはそのままベッドに飛びつくようにして――くずおれた。
もう限界だったのだろう。泣くまいとしていたから、怒ったふりをするしかなかった。それができなくなった今……ソニアはしゃくりあげるように泣き出した。
「館のどこを探しても、見つからなくて――いざ帰ってきたと思ったら、身体中を傷だらけにして、真っ青な顔で眠っていて!! もしかしたら死んじゃうかもって脅されて! 三日もずっと、眠りっぱなしで――!!」
止めようとしていたのだろう言葉が、堰を切ったように溢れてくる。
「わ、わた、私、たちが!! どれだけ心配したかも、考えもしないで!! ちょっとイタズラをしただけみたいな顔で、反省もしないで!! わた、私がどうして怒ってるか……本当に、わからないって言うんですかっ!?」
スカーレットを叩けないからだろう。ベッドを何度も叩き、また言葉を叩きつけるように泣き叫ぶ。
そうして全てをぶつけて、涙にぬれた瞳で睨まれ――スカーレットは、どうしようもなく観念した。
訊くべきじゃなかったと、今更ながらにようやく気付く。
考えてみれば、家族のような存在が“そう”なったなら、誰だって同じ気持ちになるだろう。仮に配役が入れ替わって、スカーレットの代わりにソニアがズタボロになっていたのなら――そう考えただけで、気分は暗澹としたものになる。
だというのに、どうしてスカーレットはソニアを――みんなを思いやってやれなかったのか。ある意味では、ソニアの涙こそが、これまでの事件の中で一番痛かった。
だから、素直にスカーレットは謝った。
「ごめん。悪かった。オレが軽率だったよ……無茶をした。心配もかけた。泣いてくれてありがとう。あと……やっぱり、ごめん」
「二度と、もうこんなことしないと約束してください」
「…………」
それはさすがに……と思わず口ごもる。
今回、命を懸けたのは守らなければならない者がいたからだ。それと似たような状況にもしまた立たされることがあるなら……
と、何も言えないでいるこちらに、ソニアは脅迫めいた言葉を囁いた。
「お嬢様が死んだら、私も後を追いかけて死にます」
「おいっ!?」
思わず咄嗟に叫び声をあげるが。
鉄面皮を取り戻したソニアの瞳が、どうしようもなくまっすぐスカーレットを見据えているのを確かめてしまって――それがどうしようもなく本気だと悟って、スカーレットはため息をついた。
「わかった……わかったよ。もう無茶はしない。こんな、死んじまうかもしれないようなこともだ」
「…………」
「確約は出来ない。だけど、オレが死んだら本当にあとを追いかけてきそうな、姉貴分がいるってことは絶対に忘れない。絶対にだ……それで勘弁してくれ」
それが満足のいく答えだったのか。それはソニアにしかわからない。
こちらをまっすぐに見据えてくる姉貴分の瞳を、同じようにスカーレットも見返して――そして。
先にため息をついたのは、ソニアのほうが先だった。
「……ツェツィーリア様が泣いてくださったから、私まで泣きたくありませんでした」
恨み言のようにそう言うと、サッとベッドから立ち上がる。
涙の痕を隠すように目元をこすると、そのままソニアはスカーレットに背を向けた。
「昼食の用意をしてきます。しばらくお傍を離れますが、よろしいですね?」
「わかった。お願い……あ、なんか肉とかあったらもらってきて。精のつくもの食べたくてさ」
「半病人が食べるものではないでしょう? まったくもう……」
ぷりぷりとそんなことを言って、ソニアは部屋から出ていく。だがなんだかんだでソニアは甘いので、何かしら取ってきてくれるだろうとスカーレットは知っていた。
と。
『……本当に、わかってる?』
不意にベッドの傍らに、腰を掛けるようにして人影が現れる。
赤い髪、赤い瞳、赤いドレスの、赤い女だ。ある意味では、いつも通りの顔とも言える。
何か言いたげな呆れ顔に「げっ」といやなものを感じて、“彼”は思わず呻いた。
「なんだよ。お前まで説教か?」
『してほしいの? 本当に死んじゃうところだったんだから、あの子のお説教は言う通りだと思うのだけれど』
「勘弁してくれ。本当に凹んでるんだよ。あんな風に泣かれるとは思ってもみなかった」
“彼”がまだ“彼”だった頃には、ありえなかったことだ。自分がケガをしたせいで、あんなに取り乱して泣かれるのは。
あの頃の“彼”の周りには、そんな人は誰もいなかった。スラムに捨てられたガキだった頃も、戦場暮らしの傭兵としてさすらっていた頃も。だからこそ、慣れない想いがこそばゆくて、持て余す。
「オレが死んだら、後を追いかけるとよ。冗談にもなりゃしねえ。本気でやりそうで怖いよ。おかげで迂闊に死ねなくなった」
『あら? それを疑うの? あの子ならやるんじゃないかしら?』
あの子、優しすぎるから、と。女は言う。
ソニアが去った後の扉をじっと見つめる女の顔は、それこそ、“彼”がこれまで見たことないほどに優しかったが。
「そういやお前さ。一個訊いてもいいか?」
『?』
きょとんと首を傾げた女に、“彼”はふと気になっていたことを訊いた。
「お前、結局、ジークフリートのこと好きだったの?」
思い出すのは、館の裏にある森の中で敵に襲撃された時のことだ。逃走中、ニールに助けを求めたジークフリートを止めようとした、女の声。
それともう一つ――“彼”が“彼”となる直前に見た、ジークフリートとの離別。女が囁いたのは、“あの女の元に行くのか”という押し殺した嘆きだった。
見つめた先、女はしばし無言だったが。
どうとでも取れそうなため息を一つついた後、肩をすくめてこう言ってきた。
『さあ? そんな気持ち、もう覚えてないわ……“あの子”はもう、私の知る“殿下”ではないしね』
未来が変わったから、ということだろう。スカーレットとツェツィーリアが邪神の生贄として捧げられ、世界の破滅へと向かうことになる未来からは。
それでふと気づいた。未来が変わったということは、この女の知る“未来”が失われたということだ。
それはつまり、この女が今まで築いてきた人々との関係そのものが失われたということでもある。
本来ならあったはずの、正しい“スカーレット”としての周囲の人々との関係性。この女と父との家族愛、姉貴分であるソニアとの親愛、そしてジークフリートに対する想い――それら全てが、“彼”が“スカーレット”になったことで変わってしまった。
それにどんな想いを抱けばいいのやら。
「……まあいいさ」
胸の内に湧いた想像を持て余して、“彼”はため息をつく。
「なんにしたところで、これでぜーんぶ終わったわけだしな。だろ? これでもう邪神だの邪教だのに煩わされることもなし。なべて世はこともなし……ってな」
邪神復活の儀式は失敗に終わった。本来生贄として捧げられるはずだったツェツィーリアも生きている。
それはつまり、スカーレットが“邪神の花嫁”として生きる必要がなくなったということだ。
ケガまみれになったことだけは失敗だが。結果として全部うまくいった。後はまあ……男と結婚させられない程度に、好き勝手生きていけばいいだけ――
と。
『……? あなた、何言ってるの?』
「……あ?」
女の、理解できないと言った声。それに思わず嫌な予感を感じながら――
女を凝視すると、女はため息のように言ってきた。
『やっぱり、気づいてなかったのね……まああの後すぐ気絶しちゃったから、見る余裕もなかったんだろうけど』
「……何の話だ?」
『左の手の甲。あなた見た?』
「手の甲?」
きょとんと繰り返して、“彼”は自分の手の甲を見やった。吹っ飛ばされたり切られたりと、全身包帯でグルグル巻きだが。左の手の甲も例外ではない。
含みのある女の視線で察すると、“彼”はそこに巻かれた包帯をほどいて、手の甲を見やった――
そして悲鳴を上げた。
「なっ――なんだ、これぇ!?」
手の甲は、ただの手の甲だ。やはり切り傷やら擦り傷やらで大変なことになっているが。それはまあどうでもいい。
一番の問題は――最も大きな傷は、手の甲の真ん中にデカデカとあった。
なにか、熊のような大型の獣がひっかいたような――鉤爪の痕。だが観察して、すぐにそれは傷ではないと気づく。
紋様だ。真っ黒な色をした、鉤爪の紋様。こすっても落ちない。皮膚に墨でも入れたかのように、真っ黒に染みついている――
『邪神様が言ってたでしょ? 私なりのコムニアだって。それがそれよ。初代クリスタニア王が“加護”を授かったのと同じように、あなたも邪神様に“呪われた”。流石に私の時みたいに、支配するまでの強さはないみたいだけれど……でも居場所とかはもうバレバレよ?』
「えーと……つまり?」
『あなた、もう、逃げられないの』
きっぱりと告げられた、女の言葉を頭の中で反芻して――
どうにか言葉にできたのは、やっぱりというべきか、これだけだった。
「……ハ――はあっ!?」
『あー……いいわあ、その間抜け面。この瞬間だけが生きがいよねぇ……減るものじゃないんだから、もっと驚きなさいよ? ほらほら?』
「いや待て、邪神は復活しなかったんだろ!? だったらもうこれで終わりだろ! なんでまだ次があるみたいな話を――」
『なんで一回で諦めると思ったの?』
ぽつりと差し込まれたその一言に――
「……え?」
『考えなくてもわかるでしょ? 失敗したならもう一回やればいいって』
“彼”は危うく、意識をどこかに飛ばしかけた。
その間も女はつまらなそうに説明を続ける――
『流石に司祭が一人死んじゃったし、ツェツィーリア様の警備も厳重になるでしょうから、そう簡単にはまた儀式なんてできないでしょうけど……別に、生贄はツェツィーリア様じゃなくてもいいのよ。あの方が選ばれたのは、単に都合がよかったってだけだもの。あの司祭たち、無駄に諦めが悪いから――』
「いや。いや待て。おい待て、本当に待ってくれ――んじゃ、なんだ。何か? 今回邪神の復活を阻止したから、話はそれで終わりってわけじゃなくて……」
『ええ。もちろん?』
にっこりと――というより、にぃ……っこりと――本当に、腹立たしいほどにいい顔で。
女は、満面の笑みで頷いて、こう言った。
『まだまだあなた、“邪神の花嫁”から逃げきれてないわよ?』
「おい待て。冗談だろ!?」
『ほーんとよ? ついでに言わせてもらうと、その紋章、ラトール陛下やお父様も把握してるわ。邪教に何かされたようだってね。だからあなた、これからしばらく王家からの監視対象よ? 加えてラトール陛下はあなたのこと気に入ったみたいだから――』
「おい待てやめろ。それ以上何も言うな――」
だが女は。
情けも容赦も加減もなく、バッサリと言い切った。
『たぶん、ジークフリート様との婚約話、まだ消えてないんじゃないかしら』
「はああああああああっ!?」
とうとう悲鳴を上げて、“彼”はその場でのたうち回った。
全身が痛むから地団太は踏めないが、気持ちだけはそんな心地で叫ぶ。
「なんだよそれっ! なんだよそれぇ!? オレの努力はなんだったんだ!? オレ、オレ――死に物狂いで今回頑張ったんだぞ!? それがなんだ? ただの徒労だったってか!?」
『やあねえ、徒労なんてことはないわよ? ツェツィーリア様は生きていらっしゃるし、メイスオンリーの領民も恩赦を受けられるんでしょ? 私の時よりよっぽどマシだと思わない?』
「それは……いや、お前の未来がどうなったかなんて知らんから、何も言えねえけど……」
おそらくこれとは比較にならないほどの大惨事になったのだろう。その事実に、怒りは長続きしなかったが。
それでやるせなさが消えるわけでもなく、“彼”はじたばたと――実際には体がろくに動かなかったためにもぞもぞと――暴れて、わめいた。
「やだー!! もうやだー!! こんな女みたいな人生やだー!! 貴族令嬢やめるー!! 傭兵に戻せー!! スラム暮らしでもいいからー!!」
『あーもう。子供じゃないんだから……って、子供の格好の私に“私”が言うのもややこしいわね……って、ああ、そうそう』
と。何か思いついたかのように、女。
『今のうちに言っておかないと忘れそうなことがあったの、忘れてたわ。だから、今言わせてもらうわね?』
「まだ何かあんのかよ……」
ゲッソリと力尽きた心地で呻いて、未だに楽しそうな女を見上げる。
そうして女が言ってきたのは――“彼”が、欠片も予想していなかった言葉だった。
『――
「…………」
きょとんと。聞き間違いかと、しばし呆然として……
「……それ、何に対しての礼だ?」
そうでもなさそうだとようやく気付いて、半眼で訊く。
何か裏があるとしか思えなかったのだが、女はこちらの疑問に取り合う気はなさそうだった。クスクスと楽しげに喉を鳴らして、年頃の少女のように女は笑っている。
『さあね。あなたが知らなくていいことよ。私が、私のために言いたかっただけだもの。私はお礼を言った。あなたは理解できなかった。それでこの話はお終いよ』
「…………」
と、これまた思い付いたように、女がころっと話を変える。
『そういえば、これまで私はあなたにいろいろ言ってきたけれど。あなたが私に何を思ってるかって、これまで聞いたことなかったわね……最初は“報いを受けろ”とか好き勝手言ったけど。今どう思ってるのかって聞いてもいいのかしら?』
まるっきり、悪戯を思いついた小娘という風情だ。にやにやと、どんな答えが返ってくるのかと、女は楽しそうに待ち侘びている。
どう思っているかなど決まっている。この女はよりにもよって、自分を邪神の花嫁の身代わりとにした女だ。なにがどうなろうと、そこはこの先ずっと変わらない。
なので“彼”は、真顔で一言こう答えた。
「くたばれクソ女」
対する女の返答は――
ともすれば、誰もが頬を染めるだろう。可憐な花のような微笑みだった。
『あらひどい。でもその時には、あなたも一緒よ。だから……最後まで、楽しませてね?』
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