5-6 死んだみたいに、生きたくねえ
気絶してからこれまでの間に、武器を手放さなかったのは幸運だった。
震える体に活を入れ、斧の柄を床に突き立てる。それを杖にして――“彼”はゆっくりと体を起こした。
そして失敗した。
膝が笑ってバランスを崩した。倒れ込みそうになるのだけは、斧にすがって耐えながら――
(オレは……なんだって、こんなことしてんだ……?)
わからないまま、それでも何かに突き動かされて、立ち上がる。
全身が激痛に軋み、息をうまく吸うことができない。地上で溺れるように酸欠にあえぎ、体中が熱病に冒されたように痛む。意識は眠りにつくことを欲している――
その全てを、“彼”は意志の力で叩き伏せた。
武器にすがるようにして立ちながら、正面を睨めば――そこには愕然とこちらを見る、敵がいる。
勝利を確信していた敵が、呆然と呟くのが聞こえてきた。
「バカな……何故立てる……?」
(そんなこと、知らねえよ……)
そう笑ったつもりだったが、声にはならなかった。声になる前に血が喉につまり、“彼”はせき込んだ。たったそれだけのことで眩暈にふらつき、体が限界に悲鳴を上げる。
だというのに。意志だけは、明確にそれに逆らった。
戦わなければならない。その衝動だけが、今の“彼”を突き動かす。
なんのためにか? 痛みに寝ぼけた脳ではその答えを見つけられない。
ふらつく頭は今にも止まってしまいそうで。だというのに、頭の奥底で。焼けつくような意志の力だけが、“彼”に眠りを拒絶させる。
ならば、戦わなければならない。
この命が果てるまで――いや、果てたとしても。勝たなければならない――
『……もう、いいわ』
水を差す声は、“彼”のすぐ傍から聞こえた。
血が眼に入ったのか、何も見えない。辺りは薄暗く、正面にいる敵以外の何もかもが見えない――だがかえって好都合でもある。
敵以外は見えなくていい。アレと刺し違えるだけでいいのだから。
だというのに、その声だけは、明確に“彼”の邪魔をした。
『……結局、未来は変わらないってことがよくわかった。だからもう……これで、終わり』
(……終わり?)
これがか?
囁く女の声音が束の間、“彼”の意識を覚醒させた。熱に浮かされ思考がどこかを惑う中、それでも続く、女の声を聞き取った。
『もう、勝ち目なんてないわ。もう戦う意味なんてない。そんなボロボロになってまで頑張っても、もうどうしようもないわ。だから……もう、諦めましょう?』
慰めるように――あるいは聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように、女は言う。
女は本当に、心の底からそう思っているのだろう。声にはかすかな労いと――そして隠すことのできない、何よりも重い諦観が見えた。
姿は見えなかったが、きっと女は笑っているのだろう。“彼”は素直にそれを信じた。
聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように――だけど、泣きそうな顔をして。失敗した“彼”を慰めるように、その女は笑っているのだろうと。
“彼”はその妄想を、素直に信じた。
だから、彼は笑った。
「――終わりじゃない」
そう呟いたつもりだったが、実際にはせき込んだだけだった。蹴られた時に口の中でも切ったか、血の味がする。まだうまく呼吸ができない。
自分が息を吸いたいのか、吐きたいのか。そんなことさえもうわからない。
だが構うものか。まだ自分は生きている――まだ戦う意志が生きている。
戦わなければならないと、心が敗北を拒んでいる。
「オレはまだ、死んでない」
女にはわかるまい。それが“彼”の生き方だと。
負けたと悟って――どうしようもないとわかって、諦めてきた。それがその女だったのだろう。これまで何度も繰り返してきた。
諦めることに慣れてしまったこの女には。決して、“彼”の想いなどわかるまい。
『どうして……!? もう勝てないってわかるでしょう!? あなた、死ぬ気……!?』
だから、女にはわからない。今もなお、声を荒らげている。
『これ以上やったって勝てないわ! それくらいあなたにもわかるでしょう!? これ以上やって、あなただけが無駄に傷ついて――それにいったい何の意味があるの! これ以上アレを怒らせるなら、あなた、本当に殺されるわよ!? くだらない意地なんか張るのはやめて――』
「――
『……え?』
女の言葉に差し込んで。“彼”は静かに告げた。
「――死んだみたいに、生きたくねえ」
これまでも、そうやって生きてきた。
何も持ち物などない、クソガキだったあの頃から。唯一持ちえたと言えるのは、この心だけだった。
意地を貫き通すこと。それだけが“彼”の唯一で――それさえも捨てなければならないのなら。真実、死んでしまった方がいい。
守ると誓ったガキ共二人を、見殺しにして生き延びるくらいなら。
二人のために命を懸けて、前のめりに死んだほうがいい。
『…………』
息を呑んだかのような、女の気配。
それを最後に……もう女は何も言わない。
だからか? あるいはそれまで待っていたのか――叫んだのは、敵だった。
「愚かな……愚かな、愚かな、愚かな!! そこまで愚昧に成り果てたか!!」
癇癪のように地団太を踏み、バカにするなと剣を振り、声を荒らげて敵が言う。
「わかっているのか、贄よ! それは我が神に対する裏切りぞ!? 何がお主をそんなに変えた――これまで諦めて受け入れてきたお主が、今更どうしてこうまで歯向かう!?」
「黙ってろ」
今度は、せき込みはしなかった。
男の表情のない顔が気色ばむ。怒りは憎悪に転じ、憎悪は殺意へ転じたが……それを恐ろしいとは、欠片も思わなかった。
「お前に用はねえ」
告げて、構えた。
もう力は残っていない。立つことすらもう満足にできない――だからスカーレットは、普段ならしない構えを取った。
右手は斧を握ったまま、だらりと垂らし。
左手は地を掴むように、床に。
身を低くして、飛びかかる獅子のように構える。マスターキーは最大励起。回避も防御も考えない。前進以外の何もかもを捨てた、捨て身の四足獣の構え。
「…………」
もはや男に言葉はない。躊躇いも。殺すまいと心掛けていた手加減も。
そして殺意を振りまいて、踏み込んでくる。床を踏み砕くほどの力で。吹き飛んでくるように接近してくる。
今度の剣は、“彼”を殺すだろう。それを確信しながら――それでも、“彼”は笑ってみせた。
刺し違えるだけでいいのだから、これほど楽なことはない。
だから、“彼”もまた一歩を踏み出した――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
それを彼は、ただ茫然と見つめていた。
自分より背の小さな少女が、命を懸けて戦おうとしている。何のためにかと問うならば、それは彼らのためだった。彼と、妹。二人のために。二人を守るために戦っている。
(どうして……?)
胸の内で、浮かんだ問いがまた弾けた。
最初は気に食わないだけだった。
田舎者の、礼儀知らず。自分のことを棚に上げて、彼女を無礼だと蔑んだ。妹にどれだけたしなめられても、それをやめようとは思わなかった。
全部、全部気に食わなかった。田舎の粗忽者に嬲られていたところを助けられたのも。苛立ちをぶつけた妹に、いつの間にか寄り添っていたことも。自分が何もできないでいたのに、ならず者へと立ち向かっていった強さも――それが、本来守るべき“女性”だったという事実も。
その赤い瞳に浮かぶ、見たことのない意志の強さも。
何もかも全部――気に食わないから、目を奪われた。
いつの間にか、目が離せなくなって。だというのに、少女は彼など見ていなかった。
少女が気にかけるのは妹のことばっかりで。それが気に食わなくて――だというのに、何もできなくて。ただ少女を追いかけた。
あの森の中で。あの馬車の中で。メイスオンリーの館で。そしてさらわれた後も、ずっと――ずっと、少女を見てきた。
(どうして……?)
どうして、今そんなことばかり思い出すのか。
このままいけば、彼女は死ぬ。ジークフリートとツェツィーリア、二人の命と引き換えに。それを、彼はわかっていた。
それを承知で、彼女が敵に挑んだことも。
(いやだ。いやだ――ボクはまだ、お前に何も――)
止めることはもうできない。その力は、自分にはない――それでも、どうにかしなければいけない。
何かをしなければ――それができるのは彼だけだ。
それなのに……
(どうして……ボクには何もできない……?)
それが彼には悲しかった。
だからかもしれない。不意に思い出していたのは……どうしてか、やはり少女の声だった。
どこか皮肉な、だけど明るく――強さを伴って響く声。
自分にはない強さを、隠しもしない少女の――
『偉いやつってのはな、後ろでふんぞり返ってりゃいいのさ』
――オレが任せた、なんか文句あんのかってツラしてな。
(……ああ、そうか)
その時初めて、わかった気がした。
(そういう、ことだったのか。どんな王になりたいのか。どんな王になればいいのか……)
自分に今できる唯一のこと。
少女が教えてくれたこと。
自分の力の、正しい使い方――その全てがこの土壇場で混ざり合う。
腕を突き出し、かざした。
その先にいるのは、スカーレットを討つべく踏み出したニール――ではない。
満身創痍のスカーレット。
敬愛したい勇ましい少女に、ジークフリートは“力”を使った。
「――
「行けええええぇぇぇっ!!」
そして初めて、ジークフリートは彼女を“
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