5-5 どうして

「……え?」


 ――ジークフリートはそれを、どこか夢のような心地で見ていた。


 どうして夢のようかに思えたかといえば、目の前で起きた光景が信じられなかったからだ。

 魔術だろう、おそらくは。斬られざまにニールが――ニールの姿をした誰かが、絶叫した。その瞬間に放たれた何かが……スカーレットを吹き飛ばした。

 空間が破裂したような爆発音。次いで聞こえた、地面に人が横たわる音。それを最後に……スカーレットは、動かない。


「う、そ……?」


 それは誰の声だったのか。

 背中に負ったツェツィーリアの声かとも思ったが、違った。それは自分の声だった。いくら生意気でも負けることはないと信じていた者が負けて、愕然とする、声……


「よくも、よくも、よくも――」


 その声を掻き消す、声。


「やってくれたな、小娘ぇ!!」


 その声には、憎悪があった。たった今傷つけられたからだけではない。もっと長年――何年も何十年も、ゾッとするほどに長く熟成された、闇のような憎悪が。

 瞳のない顔に、それでもわかるほどの怒りと憎しみを称えて。体を引きずるようにして、ニールはスカーレットへと近づく――スカーレットは逃げ出さない。もう、ピクリとも動かない……

 その腹を。


「何が、不満か!!」


 ニールは、容赦なく蹴り上げた。


「あの方の、寵愛を、受けておきながら――我らが、生の全てを捧げてなお、届かぬ神愛を、賜っておきながら!! いったい、何が! 不満だと言うのだ――何が!!」


 一撃では済まされない。何度も、何度も。スカーレットを蹴り上げる度に、肩から胸へと走る傷から血を溢れさせながら――それでも男の憎しみは止まらない。

 止めなければならないと。当たり前のことに気づけたのは、既にスカーレットが何度も蹴り上げられてからだった。


「や、やめ――やめろぉ!!」


 空いている手でもう一度、ニールに力を突きつける。クリスタニア一世が、王国を作るきっかけとなった力。神託と共に授かった、民を統べるにふさわしい王の力――そのうちの一つ、“畏怖”。

 全力で突きつければ、近衛騎士たちでさえジークフリートに膝をついた。誰にも負けない王の力だ。人を支配するために、ジークフリートが授かった――

 それをぶつける。相手に自分を怖がれと念じて。


 そして事実、確かにニールは動きを止めた。

 再びスカーレットを蹴り上げようとした足を止め……ゆっくりと、振り返ってくる。首から生えた生首だけが。


「小童――貴様もか?」


 侮蔑、憤怒、劣等感――その中に一つ、嘲笑を足し込んで。

 生首は、ジークフリートに指を突きつけた。


「貴様も、自分が殺されぬと勘違いしてるのか?」

「――っ!?」


 その一瞬で。

 ジークフリートは、その場から吹き飛んだ。ツェツィーリアごと、腹部を衝撃に殴られて。受け身すら取れず、二人で床を転がった。必死にしがみつこうと伸ばした手は、だが何もつかめずに床を滑る。

 それでもと顔を上げた先で――やはり、生首だけが見ていた。ジークフリートを。獲物を見る捕食者の気配で。


「ああ、正しい……小童。お前は死なない」

「う……あ、あ――」


 体が凍り付いたように動かない。無様に床に倒れながら……立ち上がることすら思いつかない。

 そんな様を嘲って、冷静さを取り戻した生首は笑った――いや、嗤っていた。


「ここでお前は殺さない……何故かわかるか? お前には役目があるからだ……これから始まる世界の終わり、その一端を担う――」


 だが、聞いていなかった。


「ああああああああっ!!」


 ジークフリートはただ恐怖に導かれて叫ぶと、何もかもを忘れて突撃した。

 自分の挙げた声が悲鳴だとすら気づかなかった。喉から血の味が滲み、肺が痛みに引きつっても――それが何の意味があるのかもわからない。自分が何をしようとしているのかも。

 それでも拳を固めてニールに詰め寄り――


 そしてまた吹き飛ばされた。


 今度はただ、剣の腹で思い切り殴られて。来た道を逆戻りするように吹き飛ぶ。

 痛みは感じなかった――ただ、ぐわんぐわんと世界が回る気配だけを感じていた。


「愚かな……」


 もはや嘲りすらなく、哀れみを込めて生首が囁く。

 だがやはり、彼は聞いていなかった。耳で聞くということがなんなのか、それすら忘れていた。


 世界がグニャグニャと壊れてしまったように歪む中、音はもはや何の意味ももたらさない――自分が錯乱し始めていると、他人事のようにジークフリートは悟っていた。

 その無意味な世界の中で。彼が今聞いていたのは、自分の胸の内で響くこの言葉だけだった。


(どうして……?)


 どうして。その言葉がジークフリートの中で無数に弾けた。

 どうして、自分には何もできないのか。どうして、自分の力は敵に通用しないのか。どうして、敵はこんなことをするのか。どうして、自分がこんな目に合うのか。どうして、こんな理不尽が世界にあるのか。


 どうして、こんなにも、自分は弱いのか……


(どうして、ボクは……?)


 気づけば、ジークフリートは泣き出していた。

 何もできない。それを悟ってしまった。

 思い出してしまった。スカーレットが言っていた言葉。“王族”でない自分に何が残るのか。それをわかった。わかってしまった。

 親の七光りとスカーレットは笑った。その通りだった。


(ボクには、なにもない……)


 できることなど何もない。妹も、同い年の少女も守れない。ここで泣くことしか、もはやできない……


「ふん……小娘がいかにとち狂っていようと、小童はやはり小童のままか。相変わらず諦めが早いことだ。これまでと同じだな……無駄な時間を取らせおって」


 吐き捨てると、生首はもはやジークフリートから興味を失ったようだった。視線をツェツィーリアへと移し、そして切り裂かれた胸元に手をやってから、嗤う。


「まあよい、まあよい……この程度ではまだ死なぬ。儀式の完遂までは――……?」


 そうしてふと、生首は言葉を止めた。表情のない顔に困惑の気配を漂わせる――同時にジークフリートも、戸惑いと共に顔を上げた。

 音が聞こえたからだ。


 ざ、と。砂のこすれるような音が。

 キン、と。床に斧を突き立てる音が。


 その音と共に。

 ジークフリートの中で、もう一つだけ“どうして”が弾けた。


(どう、して――?)


 どうして、お前はまだ、立ち上がるんだ?

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