2-6 誰か嘘だと言ってくれよ

「……にしても遅えな、親父殿」


 父ヒルベルトが席を外してから、体感にして約十分。

 食べ終わった朝食の皿を眺めながら、スカーレットはぼんやりとそんなことを呟いた。

 メイスオンリー邸に急な来客というのは、よほどの事がない限りほとんどない。緊急度の高い案件なら父より国境警備隊に投げたほうが早いし、そもそも緊急度が低いなら父に直訴する必要がないからだ。

 そして緊急度に関わらず父は長話を好まないので、さっさと戻ってくるとばかり思っていたのだが。

 さすがに長すぎるとソニアも思ったのだろう。彼女もわずかに首を傾げて、


「確かに、少々お時間がかかっているようですね。何かあったのでしょうか?」

「さっき言ってた、友達が持ってきた面倒事ってやつかね?」


 思い当たるのはそれくらいだ。父がようやく手に入れた、たまの休暇を吹き飛ばすほどの厄介事。それを持ってきた友人というのも、スカーレットには心当たりがないが。


(というか友達いたのな、親父殿)


 軍神として知られるヒルベルトは、メイスオンリー領内では領主として、あるいは国境警備隊の長として尊敬されている。だがそれはある意味恐れられているのと同じなわけで、スカーレットは父が友人なる生き物と談笑しているところを、これまで一度も見たことがなかった。

 強いて言うならジョドスンくらいだろうが、それとても人目のあるところでは主従の関係を崩さない。つまり結論、父に友達などいないものだとばかり思っていたのだが。


「……まあ、オレが気にしても仕方ないか。親父殿も戻ってこなさそうだし、オレは部屋に戻るか」


 食器の片づけをソニアにお願いして、スカーレットも席を立つ――

 と、まるで図ったようなタイミングで、また部屋の外から来訪者の気配。

 今度は先ほどよりは落ち着いた足取りだ。ただし、速度自体は早い。それで誰が来たかを察した。

 案の定、部屋にやってきたのはジョドスンだった。ソニアと違って彼自身は表情豊かなほうだが、今は鉄面皮を作って――つまり仕事モードで――言ってくる。


「お嬢様、今お時間よろしいですか? お客様が、お嬢様にもお会いしたいとおっしゃっていますが」

「……それ、断れそうなやつ?」

「おそらくは、無理かと」


 首を振るジョドスンを、思わず半目で見やる。別にジョドスンを睨んだわけではなく、呼び出してきた相手に疑問を感じたからだ。

 仮にも辺境伯とその令嬢という、そこそこの身分であるこちらが会うことすら拒めない人物――つまりは相当に高位な身分の人間、かつ父の友人。そんな相手にはそれこそ心当たりがない。

 だが拒めないと言うのなら仕方なく、スカーレットは席を立った。


「正門の前で、今は旦那様が応対されております。どうかお早く」

「ああ、わかった」

「猫はお忘れなきよう」

「アイアイ」


 ジョドスンの言葉に手短に返して、スカーレットは歩き出した。急げとは言われたが、貴族は普通は走らない。むしろそんな態度のほうが失礼だとされる。

 館を出て庭園を一人で突っ切る。今はソニアはもとより、ジョドスンもついてきていない。何故かといえば、彼らは貴族ではないし、来訪者も彼らに用がないからだ。


 大層なご身分の人間が相手の場合、用がない限り従者は極力持ち場から離れる。高貴な血の流れる者の面前に立つには、相手にも相応の血の重みが求められるのだ。つまりは伝統とか格式とか、そんなものだ。

 些細な非礼一つで争いが勃発した例もなくはないので、平民たる彼女らが無礼を働かないよう、ついてこないのも仕方がないのだが。


(そういうのを面倒くさいって思っちまうのは、やっぱり前世のせいなのかね?)


 少し前までならスカーレットはそんなこと、欠片も思いつきはしなかっただろう。

 貴族令嬢として学んできた常識に、傭兵や賞金稼ぎだったかつての記憶が合わさった今となっては、礼儀作法というのはとかく面倒に感じられた。


 なんにしても、庭の先にある館の正門だ。その先に、確かにいくつかの人影があった。

 まずはどこか不満そうに客を迎えている父ヒルベルトと、父と話をしている誰か。その二人の近くには馬車が停まっているが、馬車の周りで数名の剣を帯びた男たちが待機している。私服ではあるが、おそらく騎士だろう。佇まいに傭兵にはない品がある。

 となれば護衛されているのは高位貴族だろうということも予想がつく――ついでにその彼らが重点的に守っているのは馬車のようだ。窓の先でちらちらと影が揺れているので、誰かが乗っているようだが。


(小さい影……子供か? 二人いる。なんで馬車から降りてきてないのかがわからんが……)


 それよりも問題なのは、父と話しているその誰かであった。

 にっこりと友人に向けるような気安い笑みの、見た目には三十前後ほどの男性。金糸のような長髪に、透き通るような透明感のある青い瞳。服装こそラフだが、その素材や仕立ての良さから、身にまとっている物は高級品だと一目でわかる。

 つまりは貴族なのだが……何と言うべきか。

 物凄い、見覚えがあった。


 知り合いでないのは間違いないのだが、似た顔をスカーレットは数えて三度、見たことがあった。

 一度目は過去、“彼”がまだ“彼”であった頃、遠目に。

 二度目は昨日。コムニアの中で。本人ではないが、その相似形っぽい小さいものを。

 そして三度目は今朝――あの地獄みたいな夢の中で。これも本人ではないのだが……


(おいおい……嘘だろ? 誰か嘘だと言ってくれよ……)


 逃げ出したい。だがもし相手が想像通りの人間なら、スカーレットに選択肢はない。心は今すぐにでも回れ右して知らんぷりを決めたがっているが、理性はそれを許してはくれなかった。

 と、流石に武人らしく、いち早くヒルベルトが気づく。こちらに背を向けていた彼は、気配でスカーレットに気づくと、男に向けていた渋面のまま振り向いてきた。


「おお、来たかスカーレット。すまないな、急に呼び出してしまって」

「いいえ、お父様。お父様のご友人だと伺っていますもの。私からもご挨拶させていただけたらと思っておりましたの」


 務めてお嬢様らしく。先ほどヒルベルトと話していた時とも違う、丁寧な言葉で返答する。

 ご友人、の辺りで父は物凄い苦そうな顔をしていたが。ひとまずそれは置いておいて、スカーレットは改めて父の“ご友人”の前に立った。

 淑女としての礼と共に、告げる。


「――お初にお目にかかります、ラトール=クリスタニア陛下。私はスカーレット・メイスオンリーと申します。このような形でお会いできたこと、光栄に存じます」

「…………」


 しばらくは、陛下と呼ばれた男は驚いたように無言だったが。

 一度だけぷっと吹き出すように笑うと、面白がるように父に声をかけた。


「私のこと、もう話してあったのかい?」

「いいや、何にも言ってない。だが娘は私に似て目端が利くのでな?」


 どうだ、賢い娘だろうと言わんばかりのヒルベルトだが、流石に恥ずかしいのでやめてほしい。淑女として外れない程度にジト目で父を睨んだが、父は全く気付かなかった。

 そんなこちらをニコニコと見つめていたラトールが、優しげな声音で言ってくる。


「やあ、スカーレット嬢。始めまして、とは言わないよ。なにせ昔、私は君と会ったことがあるのだからね」

「……そうなのですか?」


 あまりにも親しげに話しかけてくるので、つい聞き返してしまう。

 本来であれば無礼な態度だ。王族を相手にする際には、相手が許可するまでこちらは口を開いてはならないのがマナーとされる。

 だがラトールは気にしなかったらしい。それどころか、次に続いた鬱陶しげなヒルベルトの言葉を咎めもしなかった。


「三歳の頃の話だ。覚えてなくとも無理はない――私は覚えているがな。なにしろスカーレットの誕生日の日だった」

「知らなかったんだよ。お前も教えてくれなかっただろう。おかげで『家族の団らんを邪魔された』なんて、しこたまお前に怒られた」


 悪かったとは思ってるんだよ? などとラトールは肩をすくめてみせる。父はフンっと鼻を鳴らして不満を表明してみせたが。


「アリア君に抱かれて笑っていたあの子が、こんなにも綺麗になって私を迎えてくれているなんてね。いやあ、感慨深い。歳なんて取りたいものでもなかったけど、こういうのは悪くないな」

「じじむさいことを……未だに年寄りどもから若造呼ばわりされてるくせに」

「彼らにとっては私たちなんて、いつまで経っても若造さ。彼らの年を追い越さない限りはね」

「だったら若造らしく振舞えタワケ」

「三十を超えたらオッサンさ。若造らしくなんて振る舞えるものか」


 胸を張って言い返すラトールに、ため息をつくヒルベルト。明け透けな物言いの応酬は、二人の関係を言外に物語っているようでもある。

 そんな親しげな言い合いを、下からぼんやり見上げていると。

 先に根を上げたヒルベルトが、ふてくされた様子でスカーレットに言ってきた。


「スカーレット、楽にしてよいぞ。こう言ってはなんだが、今ここにいるのはラトールという名のただの男であって、陛下ではない。少なくとも、この場で臣下としての礼節は不要だ。無礼講で構わんな?」


 最後はラトールに向けて言う。流石にこの国で最も偉い相手にそれはどうかと思うのだが。

 驚くべきことに、ラトールはあっさりと頷いてみせた。


「ああ。今日ここには王としてではなく、ヒルベルトの友人としてやってきたんだ。今は口うるさい連中も見てないしね。どうせなら“ラトールおじさん”とでも呼んでくれても構わないよ?」

「……はあ」


 本気で言ってるのか、そして本気で受け取っていいものかどうか分からなかったので、ひとまずスカーレットは生返事だけを返しておく。

 国王ともなればそんな気やすい相手ではないし、むしろそんな相手に平然と言い返す父も謎ではある。

 と、ラトールが察して訊いてきた。


「私とヒルベルトの仲が不思議かな?」

「ええと、まあ……はい。父と陛下がこのように仲が良いとは、知りませんでしたので」


 言うと、娘に何も話してないの? というような顔でラトールはヒルベルトを見やる。

 話すわけがなかろうと不満げな顔のヒルベルトに、ラトールは呆れたような顔をしてから、


「彼とは子供の頃からの付き合いなんだ。私の父が先代メイスオンリーと仲がよくてね。歳の近いボディガードとして、ヒルベルトがよこされたのさ。それ以来、なんというか……こんな関係でね」

「なに被害者みたいなこと言っておるのだ。苦労したのは私の方だこのドタワケが」


 かちかちと歯を鳴らして、威嚇するように父。そんな父にラトールは苦笑しているが。


(王様相手によくそんな態度取れるなあ、親父殿。普通なら不敬罪じゃねえか?)


 呆れ気味にそんなことを思ったのは、ヒルベルトが暴言すれすれの物言いをするたびに、控えている騎士たちの何人かが目をつり上げるからだが。

 ヒルベルトもラトールも一切気にしていないのは、これが彼らの平常運転だからだろう。

 と、ラトールにため息をついて、ヒルベルトは呟いた。


「それで? いきなり我が家に押しかけて、一体何の用だ。仕事の話を家族の前でするつもりはないぞ」


 突き放すような物言いをしながら、ヒルベルトがわずかに目を細めるのをスカーレットは見つめていた。

 家で、というよりスカーレットの前ではやらない仕草だ。どこか威圧するような冷たさを感じる。

 だからこそ、スカーレットにはそれが“真面目な話をしろ”という合図のように思えたのだが。

 いなすようにラトールは肩をすくめると、気楽にこう言った。


「その前に、今日は私にも連れがいてね。先に紹介させてくれ――おいで、ジーク。ツェツィ」

「連れ?」


 きょとんとヒルベルトが呟くのと同時。


「…………」


 呼ばれてか、おずおずと一人の少女が馬車から出てくる。

 肩の辺りまで伸びる金の髪に、ラトールと同じ青い瞳。歳はスカーレットより下だろう。おそらくは八歳ほどか。服装は簡素な桃色のワンピースだが、可愛らしいフリルの裾が、少女の印象をさらに幼く感じさせる。

 見覚えのある顔だ。というより、昨日会ったばかりなのだから忘れるはずもないのだが。


「……? あっ――!」


 その愛らしい顔立ちに不安をめいっぱい浮かべていた少女は、だがスカーレットを見つけると、ぱあっと表情を輝かせた。

 そして慌てて、馬車の方へと振り返って叫ぶ――


「お兄様、呼ばれたよ? 早く降りなきゃ!」

「フン――」


 苛立ちと共に鼻を鳴らすと、ゆっくりと勿体ぶって降りてくる、少年。おそらくは、それこそがジークと呼ばれた子供なのだろうが……


(――ああ……マジか。やっぱりマジなのか? これってつまりそういうことか……!?)


 その少年を見た瞬間、スカーレットは絶望故に顔から表情を消した。

 その顔は、やはり昨日見たジークフリート少年のものに違いなかったが。


 ――悲しいことに、今朝見た夢の“婚約者”にもよく似ているのだった。

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