2-1 どこ触ってんだテメエ
「……つまり、命に別状はないと?」
「……はい」
父ジョドスンの確認の言葉に、ソニアは重々しく答える……
既に日も落ち夜の気配に満ちた、メイスオンリー邸の二階、執務室。
主の趣向かその部屋にあるのは、書類や資料が納められた本棚にデスク、来客用のソファーなどといった仕事関係の物を除けば、壁に立てかけられたとある女性の肖像画くらいのものだった。
いっそ殺風景と言ってもいい。それだけしかない簡素で空虚で殺風景な空間に、今は三つの人影があった。自分を除けばあと二つ。
その片割れである父ジョドスンは、ため息をつくと、こちらの説明をもう一度繰り返した。
「コムニアの会場だったバスクアッド大森林の儀式場に、得体の知れないならず者たちが出現。お嬢様がどうやってか討伐したものの、気絶。そのまま目覚めないお嬢様を、迎えに行ったお前が連れ帰ってきたと……間違いないか?」
「はい」
「……ふうむ」
父の怪訝を含んだ吐息。それ以上何も言ってはこなかったが、父の顔はこう言っているようではあった――なんだってお嬢様はそんな無茶を?
(そんなの私が知りたいわよ)
心の内でだけ悪態を打つ。それがわかったからといって、ソニアにできることなど何もないのだが。
だが父はソニアの想像よりかは幾分賢明だったらしい。つまりこちらがわかるはずのないことは訊かず、代わりのように慰めを口にした。
「少なくとも、お嬢様のおかげで被害者はゼロなわけか。唯一の救いはそれだな。医者の見立ても問題はないというし、後はお嬢様が目覚めてくれるだけなんだがな……」
「…………」
そんなものが救いになるものか。悪態をつきかけたが、ソニアはどうにか口を閉ざした。
コムニアがあった今日――いや、もう昨日か――、予定の時刻にスカーレットは帰ってこなかった。何かあったのかと馬車を手配して街に向かえば、ソニアを待っていたのはぐったりと目を閉じたまま動かない、自分の主人の姿だった。
話は聞いている。コムニアの会場にならず者が乱入し、それをスカーレットが撃退したと。だが代わりにスカーレットは気絶した。彼女を見た医者――トリス・ディーヴァ教が呼んできた町医者――の話では、目立った外傷はなくただの過労ということだが……彼女は未だ目覚める様子がなく、今もスカーレットの部屋で眠っている。
本当ならソニアも彼女の側にいたかったのだが、看病している館の常駐医とその助手たちに邪魔だと追い出された。なので今は、父たちと共にこの部屋で知らせを待っている。
その父だが。物思いを終えると、嘆くような呆れるような、そんなため息を吐いた。
「……お転婆はメイスオンリーの血かな」
「血?」
いきなり何を言い出すのかと見やれば、父は苦笑していた。
スカーレットを心配していないわけではないだろうが、“メイスオンリー”という家系そのものとの付き合いが長いからだろう。ソニアと比べるとはるかに楽観的に言ってくる。
「“
どこか感心したように父は言う。後者の“お嬢様”だけイントネーションを変えたのは、その言葉だけニュアンスが違ったからだろう。
つまり、スカーレットは普通の令嬢ではないと言いたいのだろうが。
「お嬢様が、普通の“お嬢様”らしくしてたことなんてなかったでしょ」
「……取り繕う努力はしてただろう」
わずかに視線を逸らして、父。
トーンがダウンしたのはスカーレットの悪癖のせいだろう。この館では、ヒルベルトを除いた誰もが彼女の本性を知っている。というより、これまでどうしてヒルベルトが気付かなかったかの方が不思議なくらいだが。
ジョドスンは小さくため息をつくと、視線を部屋の奥へと向けた。見たくないものを覚悟して見るような眼で。そろそろ――我慢か忍耐か、あるいは観念かは知らないが――限界だったのだろう。
ソニアもそろそろ諦めて、父の視線を追いかけた。
極力見ないようにしていたものがその先にある――つまりは、部屋の中にいる最後のもう一人のことなのだが。
「……スカーレット……スカーレットぉ……ひっぐ、ぐず、ぐす、ぐず」
控えめに言って、デスクに突っ伏して大泣きに泣いている大男というのは、奇怪というか、不気味ですらある。
この館の主でありメイスオンリー家を束ねる当主を務める、ヒルベルト・メイスオンリーその人である。勇猛果敢な戦士として、また攻め込んできた敵国を相手に何度も国境を守り抜いた英雄としても知られる男なのだが……
「おお、神よ……どうして、どうして我が娘ばかりこんな目に合うのですか。もうすぐあの子の誕生日ではないですか。だというのにどうして……どうしてこんな……おーいおいおいおい……おーいおいおいおい……」
「あの方の“これ”はどうにかならないものかな……?」
ぼそりと、諦観の声音でジョドスン。
ソニアは何も言い返したりはしなかったが、代わりにジト目を父に向けた。
(父さんも人のこと言えないでしょ)
幼い頃、ソニアの姉が病気にかかった時、ヒルベルトと似たような表情をしていたのを思い出す――確かに、ヒルベルトほどひどくはなかったが。
とにもかくにも、そのヒルベルトだ。気絶したまま帰ってきた娘を見てからこっち、ずっとあんな調子で嘆いている。
スカーレットの部屋を追い出されたのも、半分以上は彼のせいである。泣きっぱなしの嘆きっぱなしのスカーレットにしがみつきっぱなしだったので、引きはがされたあげくに追い出されたのだ。
額に手を当て嘆息した後、ジョドスンがヒルベルトに声をかける。
「旦那様。お嬢様のお顔を見てからもう四時間ほどになります。命に別条はないとの見立てですし、もうしばらくしたら目覚めるはず。そろそろ泣き止んではいかがか」
不意に声をかけられ、ハッとヒルベルトが顔を上げた。
その顔は当然、涙やら何やらでべとべとだが。
「だが、だがジョドスン……す、スカーレットがふび、不憫で……う、ぐず……おーいおいおい」
顔を上げていた時間も長くはなく、すぐにまた机に突っ伏して泣き始める。
またため息を――ただし今度は先ほどよりも明らかに長く――ついて、ジョドスンがぼやく。
「……どうしてこの方はお嬢様関連となると、こうまでポンコツになられるのかな」
「お嬢様関連で、ポンコツではない旦那様というのを見た記憶がないんだけど」
「どうにかならないものかなぁ」
ほぼ諦めたような調子で、父。内緒話をしているわけではないので、当然この声はヒルベルトにも聞こえている。だがそれでも反応しない辺り、相当参っているようだ。
まあ気持ちを思えば仕方のないこと――というより、娘を案じる父親の姿としては好ましくはあるのだが。
どうにもならないものはどうしようもない。なのでソニアは極力感情を無視して、自分の主人の泣き声を右耳から左耳へと直通させ続けた。
「おーいおいおいおい……おーいおいおいおい……おーいおいおいおい……おぉ――」
と。
「――ああもう――」
その泣き声を止めたのは、不意に聞こえたこんな声だった。
「――うるっせええええええええええっ!!」
「…………」
「…………」
顔を上げ呆然と見つめてくるヒルベルトに、ソニアは無言で首だけ振った。
やり取りの意味は、こうだ。
“今の、キミかね?”
“ノウ”
と。
部屋の外から響く荒い足音。慌ただしく走ってくるその人物は、体当たりするように部屋に入り込むと、勢い余って前のめりに倒れ込んだ。
白衣を着こんだ若い男――常駐医の助手だ。何故か顔に青タンを作っているが。ついでに言えば半泣きだ。衣服も乱れている。
その助手は、床に倒れたままこう叫んだ。
「だ、旦那様――す、スカーレット様が――」
「え?」
そこから先は、いささかソニアの理解の範疇を超えていた。
事実だけを列挙していくとこうなる。
まず一つ目。ソニアの頭上を、何か影のようなものが飛び越えていった。背中を向けていたのでそちらは見ていなかったのだが、おそらくヒルベルトだ。デスクから跳躍した。音もなく
二つ目(ソニアが見たのはここからだ)。突如として目の前に落ちてきたヒルベルトが、猫でも持ち上げるみたいに助手の首根っこをつまみ上げた。
そして最後――助手ごとヒルベルトは執務室から出ていった。
これらが全て、まばたき一つ分の間に終わっていた。助手の悲鳴が聞こえてきたのはその後からだ。
「……ええ?」
「お嬢様が目覚めたようだな。何かトラブルらしい――追うぞ」
ジョドスンが言いながら走り出したのに気づいて、ようやくソニアも駆け出した。
慌てて父の背を追うが、父は落ち着いたものだ。小さくため息をついてすらいる。
理解を置き去りにされたまま、ひとまずソニアは無心で走った。といって目的地は同じ館内、同じ階だ。
スカーレットの部屋は執務室と同じ階にある――ただし来客を迎えることもある執務室と違って、彼女の自室は奥まった場所にあるのだが。廊下の突き当りを右に曲がれば、そこがスカーレットの部屋に続く廊下だ。
廊下を曲がると、ヒルベルトの姿が見えた。扉の開かれたスカーレットの部屋の前で、呆然としている……
(呆然としてる?)
理由はすぐにわかった。というより、辿り着く頃にはわかるようになっていた。声だ。先ほどの罵倒と同じく、部屋の外に漏れている。
呆けた大男の隙間から覗き見るように、ソニアはスカーレットの部屋へと視線を向けた――
「――いいからほっとけっつってんだろうが!! もう大丈夫だっつってんだろ!!」
「…………」
ひとまず言い訳をさせてもらうと。
仮に自分の主人がこのような言葉遣いをしていたのなら、普段のソニアならまずたしなめただろう。
いつも猫を被っていた、彼女の父親の前であればなおさら。
「それを確かめたいって言ってるんですよ! たった五分も待てないのですか!?」
「待てねえから言ってんだクソたわけが!! こっちは人生かかってんだよ!! それよりさっさと馬の用意だ、馬っ!!」
「だから、何故馬なのですか!?」
「今から出かけんだよ!!」
ニ度言い訳をさせてもらうと、仮に自分の主人が他の従者と揉めていたなら、その争点が何であろうとソニアはまず彼女をなだめただろう。
それがたとえ常駐医とその助手たちとの、取っ組み合いのケンカだったとしても。
「あーもう、あーもう!! なんだってこんな……! 早く確かめないと――おいお前らいつまでボケっとしてんだ! 早く馬の用意しろってば!!」
「……ダメだ、お嬢様は錯乱している――ジェット、鎮静剤の用意だ! このままではお嬢様の様子が見れん!! リード、お嬢様の手を!!」
「ちょ、待てテメ――オイどこ触ってんだテメエっ!!」
「ぐふっ!!」」
三度言い訳をさせてもらうと、仮に自分の主人が他の従者をぶん殴っていたとしたら(しかも、割といいパンチをだ)――まあ、ひとまず何かしらはしただろう。
それが何かは知らないし、あまり思いつきもしなかったが。
だがそれら全てが同時に起きているというのはいかんともしがたく。
ソニアは遠くから響き始めた頭痛を堪えるために、眉間を強く指で押した。
と、不意にスッと――あるいはハッと、息を吸う音。
おそらく全ての終わりを告げた最初の音は、それだった。
「む、娘が……」
「えっ?」
その声に、全員がハッと部屋の入り口を見やる。
呟いたのはヒルベルトだ。ソニアも彼の傍から大男を見上げるが、その男はダラダラと冷や汗を流し、何故か死体もかくやというほどに顔色を真っ青にしていて――
(……真っ青に?)
なんで? と思うのと、その呟きが聞こえてきたのはほぼ同時だった。
「む……娘が…………グレた…………?」
「へ?」
そしてヒルベルトは、恐怖に震えながら息を肺の奥深くまで吸い込むと――
「――ノオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォウっ!?」
――その日、メイスオンリー辺境伯家は揺れていた。
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