1-1 メイスオンリーさ
レディ・ローズレッドが世界を滅ぼすべく動き出したのは、彼女が十五の時だった。
大した理由はない。強いて言うならば他人の都合のせいである。
というのも、彼女自身は別に、世界の滅びなどどうでもよかった。世界を滅ぼしたがっていた存在は別にいて、彼女はその願いを聞かざるを得なかっただけだ。
進んでやりたがらなかったというだけなので、それが免罪符になるわけでもないのだが。
「別にどうだっていいじゃない。私がちょっとお手伝いしたら、滅びちゃう程度の世界でしょ? そんなものに、いったいどんな価値があるって言うの?」
スカーレット・メイスオンリー。
それが王国クリスタニアにおいて名の知れた、辺境伯にして南の国境守、軍神メイスオンリー卿の一人娘の名だった。
炎のように赤い髪、柘榴のように赤い瞳。身に纏うのは真紅のドレス。鮮烈な赤を纏った出で立ちの少女が赤薔薇と呼ばれるようになったのは、彼女が十二の頃のことだ。
彼女のデビュタントの日のことである。
といって、彼女が何かをしたわけではない。彼女はただそこにいただけだ。誰と話すでもなく、誰と踊るわけでもなく、彼女はただ壁の花としてそこにいただけ。
であるというのに――彼女はそこにいたすべての人々を魅了した。
その場に集められた子供たちも、彼ら彼女らを連れてきた高位貴族たちも。誰もが彼女を意識しながら、その日は声すらかけられなかったのだ。であるならいっそ、彼女は彼らを支配したと言ってもいい。
それほどまでに、少女の美しさは皆を戦慄させた。
当の本人はといえば、自分に向けられた視線の意味を勘違いしていたのだが。
「だったらそう言ってくれればいいのにね。ああいうのって初めてだったから、私、てっきり嫌われてるんだと思ってたわ。そう思われるだけの事情もあったしね」
そんな赤薔薇こと、スカーレット・メイスオンリーだが。
彼女を語る上で、もう一つ欠かせない噂がある――それは、彼女が“邪神”に見初められた花嫁である、という噂だ。
根も葉もない噂、というわけでない。むしろ事実だ。
彼女が十歳になった誕生日の日。それから数日後に彼女はとある邪教に誘拐され、邪神への供物として捧げられた。それ以来、彼女はどこか人が変わったという――その日何が起きたのか、彼女は決して語ろうとはしなかったが。
「ああ、あの人? 意外と話は通じる人よ? ちょっと人のこと洗脳しようとするのが玉に瑕だけれど。逃げられないってわかって協力し始めたら、そういうこともやめてくれたしね。案外話はできるのよ、彼」
そうして邪神の花嫁として、世界を滅ぼす手伝いをすることになった彼女だが。
世界に対する死刑執行は、彼女が世界を滅ぼすことを決断した、その三年後まで待つことになる。
何故かといえば答えは簡単。彼女が十五の頃に入学した、聖トリスディーヴァ学園――貴族の子供たちが集うその学園で、彼女を邪魔するとても面白い“玩具”が現れるからである。
邪神の花嫁の対とされた、一人の少女。世界の破滅を防ぐべく、とある神の一柱が見出した少女――赤薔薇と呼ばれたスカーレットと対比するように、彼女は誰からともなく白百合と呼ばれた。
スカーレットは困ったことに、その少女のことをとても気に入っていた。
「だって、あの娘だけなのよ? 私と唯一対等な存在って。少しくらい遊びたいと思っても、許されると思わない? ……仕方ないじゃない。だって退屈だったんだもの」
つまり、敵だ。
それも彼女にとって、挑戦する意味のある唯一の。
世界が破滅するまでの三年間は、言ってしまえば彼女たちの戦いだ。世界を滅ぼすべく暗躍するスカーレットと、彼女の企てを潰すべく奔走する、白百合と呼ばれた少女たちの戦い。
「悪趣味だと思う? まあそうね。でも人生って、悪趣味なことほど楽しいと思わない? ……付き合わせて悪かったとは思ってるわ。ホントよ?」
レディ・ローズレッド――スカーレット=メイスオンリー。
触れ得ぬ赤薔薇。全てを霞ませる紅。鮮血姫。薔薇の悪魔。
そう呼ばれた彼女のもう一つのあだ名が、これだ。
――悪役令嬢。
最初は自称だったという。だがあながち間違いとも言えない。邪神の願いによって世界を滅ぼす準備を始めた彼女は、世界にとってはまさしく、正しく悪役だった。
運命はそうして廻る。神が見初めた白き聖女が、邪神に見初められた紅き悪女を止めるために。世界は二人と二柱にかき回され、滅んではやり直され、滅ぼされてはやり直されと延々に巡る――
……はずだったのだが。
「まあ、“貴方”にとっては災難だったと思うわ。ホントにね。でも……たまには私が“観客”でもいいじゃない?」
ふと彼女が起こした気まぐれのせいで、運命はこんなふうに捻じ曲がる。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「う、く……ぐす……ひっぐ……」
「――うるせえぞガキ!!」
「ひぅっ……!」
どうしてこんなことになったのだろう――知らない男たちに囲まれて、怒鳴られて。ツェツィーリアは恐怖の中で息を殺した。
王都では嗅いだことのない、朽ちた家屋の寂れた匂い。誰もいなくなったという廃村の、おそらくは村長のものだったのだろう大きな館。その一室に……ツェツィーリアをさらった男たちがいる。
ガラの悪い、武装した男が六人。本当なら、彼らはツェツィーリアたちの護衛だった。そうだと、少なくともツェツィーリアは聞いていた。
王都から、メイスオンリー領にたどり着くまでの護衛だと。
(なのに、どうして……?)
どうして――彼らは裏切ったのか。どうして自分を誘拐したのか。わからない。ただ、怖い。自分がこの後どんな目に合うのか。誰も、ツェツィーリアにこんな時のことを教えてはくれなかった。
だから怖くて、涙を流して。だけど殴られるのも、泣き声を上げるのも怖くて、何もできないまま床にうずくまっている。
ツェツィーリアを傍で監視していた男が、窓枠に張り付いている男たちに声をかけた。
「敵の動きは?」
「まだねえよ。金よこせって要求だってさっき出したばっかだろうが」
「だったらどれくらいかかんだよ! いつまで待ってりゃいいんだ!!」
「俺が知るかよ! 怒鳴んじゃねえ!!」
その怒鳴り返す言葉こそが、もっとも大きな声だったのだが。
男たちは皆、一様に苛立っていた。最初の頃はそうではなかった。ツェツィーリアをさらい、この男を雇った騎士に身代金を要求してここに閉じこもったまでは笑っていた。だが時間が経つにつれ、彼らの顔から余裕が消えた。
何もしてないのに、追い詰められている――その空気を、どうしてかツェツィーリアも共有していた。だから怖いのだ。彼らが自暴自棄になった時、自分たちがどうなるのか――
「なあ。これは本当に必要なことなのか?」
ぽつりと、男の一人が問いかけた。
「アイツの命令は、こいつをさらってこいってだけだったろ。身代金なんて要求する必要はあったのか?」
「うるっせえな! 今更怖気づいたのか?」
「こいつをさらうだけでも十分金はもらえただろうがっ!! 無謀に手を出す必要はあったかって聞いてんだ!!」
押し殺した声が、そのまま激情へと変わる。暴力の気配に身がすくんだ。その気配がこちらに向けられていないとわかっていても、怖い。
問いかけられた人がリーダー格なのか。質問した男は、彼に更に詰問する。
「そもそも、どうやってここから逃げる気だ? 金と人質を交換して、その後は。メイスオンリーの国境警備隊相手に、俺たちだけで逃げ切れると本気で思ってるのか……?」
だが返ってきた答えは、誰にとっても予想外のものだった。
「ああ、そんなことか。返さねえよ?」
「……?」
「なあ、よく考えてもみろよ。人質はずっと俺たちの手の中だ。金持ってこさせても返さなきゃいいんだ。こいつがどれだけ大事な存在か、俺たちは知ってるからな。あいつらは俺たちに逆らえない――金だけもらって、そのまま返さず逃げりゃあいいのさ」
「……逃げきれねえだろ。ずっと追われるぞ」
「構やしねえよ。アイツと合流さえ出来りゃな。アイツ、魔術師だぜ? 俺たちを逃がす方法くらい、いくらだって持ってるはずだ。身代金を少しでも分けてやりゃあ、喜んで手伝ってくれるだろうさ」
あくまでリーダー格は楽観的だ。だが問いかけた男の顔は険しいまま。まだ会話を続けたりはしなかったが、「そんなにうまくいくのか……?」とこぼすのが聞こえた。
それが聞こえていたらしい。嘲るように笑っていた男が、その声に舌打ちした。
「……ああわかったよ。確かにこの状況はうんざりだ。だったら、状況を変えてやるよ」
そして、ゆっくりと、蛇のように男がツェツィーリアを睨んだ。
恐怖にツェツィーリアは息をひきつらせる。そんなこちらを見て……男はにたりと笑うと、唐突にツェツィーリアの体を掴み上げた。
「おいお前、いきなり何を!」
「人質なんて死んでなきゃいいんだよ。あいつらの時間稼ぎに付き合う理由があるか? 目の前で少しくらい刻んでやれば、こっちの本気具合もわかんだろ……?」
「ヒッ……!?」
頬に添えられたナイフの輝きに、ツェツィーリアは息を呑んだ。
本当は、悲鳴をあげようとした――のに、声が引きつって、喉から出ていかない。ペシペシと、脅すように頬を叩くナイフの冷たさに血の気が引く。涙も出ない。
「い、いや……やめて……!」
「はっ! 怖いかお姫様? そういう時はどうするか、礼儀作法を教えてやるよ――」
その瞬間に。
男は長く伸びたツェツィーリアの髪を、唐突に鷲掴みにした。
「ひっ、ぎ!? い、いたっ痛い! やめ、やめてっ!!」
「足りねえなあ。こういう時は悲鳴を上げんだ。やめて、助けてってな! オラ、もっといい声出せよぉ!!」
「やだ……やだぁ……!! だ、誰か……!!」
助けて、と言おうとした声は、だが今まで生きてきて体験したことのない激痛に消える。ギリギリと頭を襲う痛みに、ツェツィーリアはとうとう泣き出した。
それが愉快だったか。男は響かせるように大声で哄笑した。
「そうそう、その調子だ! その調子で大声で泣け! 隠れてる奴らによく聞かせてやれぇ! 大丈夫だ、殺しはしねえよ――」
と――
その時だった。
「――おい! 誰か来る!!」
「……あん?」
唐突に響いた、見張りの叫び。
その声に。誰もが窓の先を見た。
ここからでも見える、寂れた廃村の広場から。風のように駆け抜けてくる影が――一つ。
「なんだ……? ガキ、か?」
ツェツィーリアの目にも、そう見えた。
歳のほどは、おそらくは十歳かそこらか。長い赤髪を尾のようにたなびかせる、あまりにも小柄な――この廃村にいるはずのない、そしてこれまでもいなかったはずの少女。
いや、少女か? ツェツィーリアと同じくらいに小さいその人影の性別がわからなかったのは、その顔が仮面で隠されていたからだ。
その人はどこからともなく現れ、この家屋へと突っ込んでくる。一直線に。
「なんだ、あのガキ……こっちに向かってきてる?」
誰も、それに何も言えないでいる間に。
家までの距離はなくなり――そして。
窓へと躊躇なく飛びかかり、こう叫ぶのを誰もが聞いた。
「――エントリィイイイイイイッ!!」
そして直後、窓ガラスに足が突き刺さった。
「は、あっ!?」
歓声めいた咆哮、悲鳴、粉々に砕けた窓ガラス――宙に舞う細片が光を乱反射し、その中を少女が飛び込んでくる。
硝子を蹴破った爪先は、そのまま窓の前で驚愕していた男の顔面に突き刺さった。苦悶の声、それすらも靴底に押しつぶされ、飛んできた少女の勢い全てを受け止めて吹き飛んでいく――
だけではない。男を吹き飛ばした際に、少女は身をよじっていた。長い髪が花開くように回転して――宙を旋回した踵が、窓の横にいた二人目の男の頭をかち割る。
どさと。床に落ちる音が三つ。気絶したらしい二人の男と、一人の少女。
辺りを見回して、嘲るように笑ったのは……子供の方だ。
「よお、クソボケども。ガキいじめるのは楽しかったか?」
背中に背負っていたらしい小型の斧を構えながら、仮面にくぐもった声が響く。子供の声なのはわかるが、少年なのか少女なのかはわからない。
無機質な模様のない仮面に隠されて、子供の表情は見えない。だがその下にある顔は、きっと笑っているのだろう――少なくとも、その声には嘲りと、粗野だが溢れる力強さがあった。
「いい歳こいたオッサンどもが、よくもまあ悪趣味なことをしたもんだ。ま、オイタの駄賃はしっかりと払ってもらうけどな――逃げられるなんて思うんじゃねえぞ」
「テメエええええっ!!」
対する男たちも待ってはいない。子供だというのに容赦もなく、残りの四人が殺到する。
その全てに少女は受けて立った。ひゅうと口笛を吹く余裕さえ見せて。
まずは二歩、横へ跳んだ。そのままの場所にいたら四人を同時に相手することになっただろう。だから近づいてくる男たちの順番を整えた。
もっとも不運だったのは、最も遠くにいた男だ。飛び退きざまに斧を投げられた。
誰もがその武器で男たちを相手するだろうと考えていた。だから反応が遅れた。意表を衝かれ、防御もできずに顔面で斧を受ける――刃引きされていたのか、鼻血だけ出してそのまま男は気絶したが。
斧を投げ放った後も、子供の動きは止まらない。近づいてきていた先頭の男に、子供もまた踏み込んでいた。
斧を投げ捨てたことに驚いて硬直した男、その心臓に拳を放つ。とはいえ子供の拳だ。大したことはないとたかをくくった男の体が――
衝撃に、浮いた。
「……は?」
「へっ――」
どうっ、と激しい打撲音。子供が鼻で笑う声――声にすらない一人目の悶絶。
吹き飛んだ男の体が、二人目を巻き込んで動きを止めた。
その間も子供は駆けている。敵に絡みついた一人目の体を踏み台にして、宙に跳ねた。呆然とそれを見ているしかない二人目の目の前で、またコマのように横旋回。放たれた爪先がそのまま男の側頭部に突き刺さる。
そして最後の一人。
宙を舞った子供が着地するのと、その男が接近したのはほぼ同時。
ナイフを振り上げ、上段から振り下ろす――一撃を。
少女もまた、どこからか取り出したナイフで受けた。
一瞬だけ弾けた火花。それを挟んで、睨み合う。
「――チンケな銭稼ぎだとは思わねえか? なあ、おい」
鍔迫り合いの中、笑ってみせたのは子供の方だ。見た目には圧倒的に不利なはずの小柄な体で、大男と対等に押し合う。
いや、対等ではない。上から押さえつけられるようにして競り合っているのに……押していくのは、むしろ少女の方だ。
その力と同じように、嘲笑もまた止まらない。
「どこぞのお偉いさんのかは知らんが、ガキを捕まえて金稼ぎ。みっともないにもほどがあるぜ。小物臭くてかなやしねえよオッサン」
「ガキのくせに、テメエ……! なにもんだ……っ!?」
「おっと。名乗ってなかったか?」
怒気をたぎらせて誘拐犯が押し返すも、子供は何の怯えも見せない。
恐ろしいのは、その声に何の気負いもないことだ。今というこの状況に、何の脅威も感じていない。大きな男と目の前で、ナイフを押し付け合っていたとしても。
そしてその拮抗も、一瞬で終わった。
パァンと、何かが弾ける音。ツェツィーリアにはその子供が何をしたのか見えていなかった。だがその瞬間に、男がつんのめるように姿勢を崩す――
その真下から。ナイフの柄で、子供が敵の顎を打ち抜いた。パッと、まるでゴミでも払うかのような気軽さで……だが、男の意識はもうそこにはない。
倒れ込む男をサッとかわすと、子供は男を見下ろすようにして、こう笑った。
「メイスオンリーさ――ま、忘れてくれてて構わんよ。親にゃ内緒でやってるからな」
そして、それで終わりだった。
おそらく一分にも満たない時間で、誘拐犯たちが無力化された。うめき声だけがかろうじて聞こえてくるだけで……もう、動き出すことはない。
さらに遠くから、たくさんの声。ハッと見やると、統一された服の、武装した人たちが突撃してくる。
自分を誘拐した人たちとは違う、兵士のような雰囲気に、ツェツィーリアはようやく助けが来たのだということを知った――
と。
「よお、嬢ちゃん。よく我慢したな?」
「え?」
不意に声をかけられて――誰かが話しかけてくるとは思ってなくて――きょとんと、声のほうを向く。
いつの間にか、目の前に仮面の子供の顔があった。窓のほうを見ている間に、傍に寄ってきていたらしい。
しゃがみ込んで、こちらに目線の高さを合わせた少女は、申し訳なさそうに苦笑の気配を忍ばせると――
「全部終わったよ、お疲れさん。これでようやくとーちゃんかーちゃんのとこに帰れるからな……よく頑張った」
「あっ……――」
ポンと、頭に軽く乗せられた手のひら。
本当に終わったのだと気づいたのは、その手のひらが暖かくて――思わず、泣き出してしまったからだった。
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