後編
“たどりついた”という感触がたしかにあった。
その場所はあきらかにこれまで歩いたところとは異質だった。ざわつく空気は鳴りやんで、建物もひとけもなくなった、物寂しい一角だった。耳がいたいほどの静けさがあたりを支配している。スケールは違うけど、RPGゲームで、ボス戦が始まる前の緊張感になんか似ている。
「ありがとう、日香里。本当にここまで来たのね」
熱さと湿り気を帯びた声で、由希がそう言ってきた。今までずっとにぎっていたあたしの手を両手でぎゅっとにぎりなおし、真正面でむきあう。
「日香里をこんなところまで連れてきてしまってよかったのか分からない。わたしのしたことは間違ってるのかもしれない。でも、いまわたし、すごくうれしくて、すごく感謝してるの」
「由希……」
なんと答えていいのか分からず、ただあたしは彼女の名を呼んだ。
そのまま見つめあっていると意味不明な涙がこみあげてきそうだったから、あたしは視線をそらして、前にすすんだ。
やがて見えてきたのは、小屋と呼ぶにもみすぼらしい、両脇に立った木の柱に紫色の布をわたしただけの、小さなテントだった。
テントの中には、人の三倍くらいの長さがある棒や、金色の剣、どこの国のものだかも分からない巨大なメダル、銀色の杯、その他わけのわからないガラクタが散乱していた。かろうじて占い小屋らしいものは、机の上に置かれた水晶球くらいだった。
そして、その奥に男が一人腰かけていた。
「やあ、よく来たね」
顔が判別できるよりも、はるかに遠い距離から男は話しかけてきた。それなのに、まるで耳元でささやかれたような気がして、あたしはびくりと肩をすくませた。
物音一つたてずに男はたちあがり、悠然とこちらに歩いてくる。
短く刈りこんだ髪と燕尾服を見てあたしは相手を男だと思ったけど、近くで見ると男なのか女なのかよく分からない。うっとりするのを通りこして、こわくなるような美形だった。切れ長の瞳とくっきり左右対称の輪郭が人形めいてみえた。
男と目が合う。ただ一瞥されただけなのに、まるで全身をなでられたような感触が走った。でも、それはまったく不快ではなかった。まるで心臓の奥まで見透かされたみたいだった。
自信に満ちた微笑をたたえ、目にうつる全ての事象を把握し、あやつっているかのような所作。「占い師」と言われても違和感はないけど、どっちかというと、それは―――そう、マジシャンの雰囲気だった。
世界の物理法則をねじ曲げながらもそれを当然のことのようにふるまい、観客の驚愕を愉しむ奇術師の目。
「いったい私に何の用かな?」
凍った時の中を、男の音楽的な声がすべりおちる。男はあたし達二人に―――ではなく、はっきりと由希に向かって話しかけていた。
由希はいつもの落ち着いた声音で応えた。でも、かすかに震えているのがわかった。
「分かっていて聞くんですね」
「それが必要な儀礼だからね」
由希は一度自分の胸中をさぐるみたいに顔をうつむかせた。あたしは息をするのも忘れて、そんな由希を見つめる。少したってから、口を開いた。
「わたしは―――この世界を捨てにきました」
占い師の男は笑っていた。
さっきまでの、中性的な魅力をたたえた微笑じゃない。
獲物をまえに狩りの本能を思いだし、忠良なしもべの仮面をはぎとった猟犬のような、獰猛な哄笑だった。
「ハハハハハ、素晴らしい。我が元を訪うにふさわしい少女だよ、きみは」
その姿はただただ怖ろしかった。あたしには、目の前の男が未知の怪物のように思えて、からだの芯が凍えるような震えが止まらなくなった。
なのに、目をそむけることができない。
男は笑いをおさめると、目に映るすべてを見透かすようなその瞳を、ぴたりとあたしに向けた。震えがさらにひどくなる。
「―――ところで、こちらの子はなぜここに?」
「わたしを見送りにきてくれたの。わたしがこの世界に生きた最後の証人になってほしくて連れてきたのよ」
由希のこたえに男はふたたび笑った。
「それは彼女にとって酷なことを考える。見たところ、両人はひとかたならぬ絆でむすばれているようだがね」
「……たしかにひどいのかもしれない。でも、わたしには必要なことだったの。日香里がいなければ、ここまで来ることもできなかったんだから」
二人のやりとりはどこか別世界から響いてくる遠い音楽のように、あたしの頭を素通りしていった。意味なんてぜんぜん分からないし、あたしのことを話しているんだという自覚も湧かなかった。
ただ、いつもどおり少しも揺らがない由希の声は、きれいで大好きだなぁと、そんなことばかり思う。
「よろしい。それではさっそく始めるとしよう。“扉”に選ばれし少女よ」
ショウが始まる前口上のように高らかに言葉を放ち、男は身をひるがえした。自分のテントのところにもどると、乱暴にガラクタを押しのけて、身の丈の倍以上もある棒を手にした。
「舞い踊れ。かつてあり、いまあり、のちにある無数の物語たちよ」
悠然とした仕草で棒を肩の高さまで持ちあげると、横なぎに一振りした。
その瞬間―――あたりの景色が消失した。
♦♦♦
明るい暗闇―――そんな形容矛盾した空間にあたし達はいた。
光源はどこにも見あたらないのに、闇の奥が遠くまで見わたせる。由希と占い師の男の姿もくっきりと闇に浮かんで見えた。夜行性の動物には、夜の世界がこんなふうに見えているんだろうか。
「なんなの、これ……」
現実感の麻痺した脳は、もう何が起きても驚きはしなかった。
だけど、この場所はいるだけで押しつぶされそうな不安を掻きたてる。声を出したのは、黙っていると恐怖心に負けそうだったからだ。
男はまだ長い棒を手にしていた。そして、もう一度その棒を横なぎに振るった。
と、バサバサと乾いた音があたし達の頭上から降ってきた。
鳥の羽ばたく音に似ている、と思ったけど違った。
本、だった。
見上げると、数えきれないほどの本がページをバサバサとめくりながら、あたしたちの頭上をぐるぐるめぐり、乱舞している。大きさは百科事典くらいだろうか。
「この光景―――何度も夢で見たわ」
だしぬけに、由希がつぶやいた。その声はけたたましくページがこすれる音にかき消されることなく、あたしの耳にはっきり届いた。悦びにうわずった声だった。
やがて本たちはでたらめに舞うのを止めて、あたし達の周囲を取り囲み、円状に宙に浮かびだした。表紙をこっちに向けたその姿は、あたし達に挑みかかってくるようだった。
「さあ、少女よ。これらはすべて、いまでない時、ここでない場所へ続く物語の扉だ。この中からいずれが自分にふさわしい物語か選ぶことができるかな?」
闇を圧して男の声が朗々と響きわたる。
「もちろんよ」
それにたいして、由希は力強く首肯した。そして、一人虚空にむけてつぶやく。
「ずっと思っていた……。わたしは生まれてくるところを間違えたんだって。ここはわたしの居場所じゃない。ここにわたしのなすべきことはない。想いは時が経つほど強くなっていた……」
―――一歩、一歩。床なんてないのに、由希は闇の上をゆっくりと滑っていく。あたしたちを囲む本たちに引き寄せられるように。
……いや、由希の視線の先にあるのは、たった一冊の本だった。
「はっきり呼んでいるのが分かる。あれが本当の“わたしの物語”……」
その時のあたしはたぶん、なにも考えていなかった。理解できないことが次々起こりすぎて、感覚が麻痺しきっていた。
だけど、体はかってに動き、声は口をついてでた。
「待って、由希!」
あたしは由希の腕をつかみ、叫んでいた。
自分の声を耳にしてはじめてあたしは我に返った。
「ねえ、待ってよ、由希。どこへ行くつもりなの」
自分自身の紡ぐ言葉が、じょじょに意識を醒ましていく。
そうだ。この状況の意味は全然分からないけど、由希がどこかへ消えていってしまいそうなことは分かる。あたしが声を出せたのはきっと、ひろがる闇や立ちならぶ本や占い師の男への怯えよりも、由希を失ってしまう恐怖がまさったからだ。
「日香里」
由希はしいてあたしの腕をふりほどこうとはしなかった。それどころか、掴んだ腕を引き、あたしの身体をたぐり寄せる。
そして―――抱きしめられた。息ができないほど、強く。
「ごめんね、日香里。悲しい思いをさせてごめんね。けど、どうしても最後に日香里に傍にいてほしかったの」
耳元でそんなことをささやく。
なんで、なんでなの、由希。
胴に回された腕はこんなに力強いのに。伝えてくれる言葉は、胸の奥底を直接温めてくれるくらい優しいのに。
なんで、最後なんていうの。
「日香里だけは、わたしのことをいつもまっすぐ見てくれた」
由希はあたしの身体を抱きしめるその腕をゆっくりとほどいた。でも、距離は一歩も離れない。肩と肩が触れ合い、互いの足が交差するその距離のままだ。
由希の瞳にあたしが映っている。由希の吐息があたしの頬にかかる。由希の心臓の鼓動があたしの胸に伝わってくる。
由希の手がゆっくりと、髪を、顔を、肩を、背中を優しくなでていく。
触れられたところに熱くて甘美な電撃がはしった。由希は魔法の指の持ち主なんだろうか。神経がおかしくなる。声が漏れそうになるのを、どうにかこらえた。取りもどしかけた意識が白くとんでいきそうだった。
「わたしがこの世界にのこした唯一つの未練はあなたよ、日香里」
服にへだてられているのがもどかしい。二つの身体に分かれているのがもどかしい。
このまま由希と魂まで一つになれたら―――死んだっていい。白濁した心でそんなことを想う。けど―――、
「けど、それは世界と引き換えになるほどの重さじゃないの」
不意に、熱のかたまりが遠ざかった。
「あ……」
とん、と軽く肩を押されただけだったのだと思う。
でも、崖の上から突き落とされたような絶望的な喪失感をあたしは味わった。この空間に満ちた闇が一度にあたしに襲いかかってきた。致命的な距離が、あたしと由希を分かつ。
由希はもうこっちを見ていなかった。
あたしはうずくまったまま、動けなかった。由希、由希! 声をあげようとしても、呼吸の仕方すら忘れてしまったみたいだった。
最後まで由希は振り返らなかった。
宙に浮かぶ一冊の本の前までまっすぐ歩いていく。
本は由希を歓迎するかのように大きくページを開いた。そして目を焼くほどまばゆく輝く。闇が覆う世界を、一瞬だけ光がつらぬいた。
まぶしさに目を閉じ、次に目を開けた時。
由希の姿は、もうどこにもなかった。
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