中編

その橋を渡ることはずっとタブー視されていて、絶対にいけないことと刷りこまれていたのに、実際には見張りがいたり門があったりということもなくて、拍子抜けするくらいあっさりと橋を渡り終えてしまった。

 橋を渡りきるまでのあいだ、制服姿を誰かに見とがめられないかビクビクしていたけど、結局誰ともすれ違わなかった。橋の下を流れる川が凍りついてるんじゃないかってくらい静かで、鏡みたいなのが印象的だった。

 やっぱり由希が言っていたみたいに、うわさは単なるうわさなのかな。

橋一つ渡ったくらいで全然違う世界があるなんて、冷静に考えてみるとおかしいかも、そう思いかけた。

 でも……。橋を渡り終えた途端、全身の肌がざわついた。


 ―――なにこれ。


その感覚を正確に言葉にできるほど、あたしは語彙力豊かじゃない。

 空気に色があることを、この時あたしは初めて知った。

ここにあるのは、あたしの人生の内で吸って吐いていた空気とは異質なものだ。

 生まれて初めての感覚だったことだけはたしかだ。よどんでいる、というのとはだいぶ違う。ざわついている。うん、このほうが近い。空気に無数の目と手足が生えて、あたしを覗き込んでぺたぺたと触ってくる感じ。目に見えない気配であふれかえっている。


「由希……」


 こらえきれなくて、あたしは由希の腕をぎゅっと両腕で抱え込んだ。由希はひとにべたべたされるのが大っきらいであたしのことも例外扱いはしてくれないんだけど、そんなこと気にしている余裕はなかった。


「ねえ、やっぱり引き返そうよ」

「うん、どうぞ」


 震えながら絞り出したあたしの言葉に対して、あっさりとそう返してくる。「どうぞ、お一人で。私にはお構いなく」そんなニュアンスが含まれていることはすぐに分かった。

 本当にいつも通りの由希だ。でも、この時ばかりはちょっと恨めしかった。


 霊感っていうのか、こういう空気の変化にはあたしよりも由希の方が敏感なはずなのに、なんで平気でいられるんだろう。

 そこまで考えて、あたしはある可能性に思い至った。


「ねえ、由希。ひょっとして前にも橋向こうに来たことあるんじゃないの?」

「あれ、やっぱり分かっちゃう? うん、前にも一人で何度か」

「一人で!?」


 今日一日で何回由希に驚かされたことだろう。

できればもうこれっきりにしてほしい。


由希はこっちを向かずに、前を見たまま淡々と言う。


「今日までにもね、何度か占い師のところに行こうとはしたの。でも途中で諦めて帰ってきちゃったわ」


 少しずつ、由希の瞳が妖しい強さを帯びていく気がする。陽がかたむいてきて、空に紺色が混じるこの時間帯がそう思わせるのだろうか。誰かあたしの知らない人の横顔を見ているような気すらしてきた。季節外れの寒気があたしを襲った。


「でも、今日は日香里も一緒だからたぶん大丈夫。さあ、行きましょ」


 ふわりと朝顔の花がほころぶような笑顔はいつものもの。でも、妖しい瞳の光は消えてなくなったりはしなかった。


 ―――由希、本当は占いなんかが目当てじゃないんじゃないの。もっとなにか、あたしには分かんないような大きな決断をしてるんじゃないの。だって由希、どっか見えないくらい遠くを見ているような気がするよ。

 投げかけたい言葉は喉の奥までこみあげていたのに、結局あたしは何も言えなかった。口に出してもしもうなずかれてしまったらと思うと、無性に怖かった。

 あたしはこの先へと誘いかける由希の視線を受けとめて、無言で由希にくっついて歩き始めた。

 ざわつき、まとわりつくようだった空気が具体的な形をとってあたし達の前に姿を現すのは、橋から離れてすぐのことだ。


橋向こうの路地はどこも細くて入り組んでいて、まっすぐ伸びた道なんて一つもない。道というよりも、建物の隙間を這いずりまわっている感じだった。

左右の建物はどれも薄汚れた無機質なコンクリート造りで、住居なのか店舗なのかも分からない。だから、あたしはすぐに方向感覚を失ってしまった。もう一人じゃ元来た道を戻れそうにない。


 不意に視界が開けた。そこは中央に噴水のある円形の広場だった。ヨーロッパ風の造りに見えないこともないけど、奇妙にねじくれた抽象的なブロンズ像が無秩序に乱立しているせいで、ひどく不安定な印象だ。

 そして広場に集う人達は、そのオブジェよりももっと奇妙だった。


 まずなによりもうるさい。

 噴水の周囲にはエレキギターだのキーボードだのヴァイオリンだの南米風の太鼓だのと、それぞれの楽器を手にして、自分の他には歌っている人間なんていないと思ってるみたいに、となりのことなんて全く構わずに歌声をがなりたてている。それぞれの歌はちゃんとしたものなのかもしれないけど、全部が混然一体となってあたしを襲うせいで、耳がおかしくなりそうだった。


 騒音を生んでいるのはそれだけじゃない。顔を真っ赤にして酔っぱらった男女が獣のような唸り声をあげている。首がもげるんじゃないかってくらい激しく長い白髪を振り乱して踊るおばあさんがいる。喧嘩をしているのか浮かれているのか分からないけど、太った身体を思いっきりぶつけ合うおじさん達がいる。お互いを噴水の中に何度も何度もつきとばしあう裸同然の子ども達がいる。地べたにはいつくばったまま何かをずっと叫び続ける男の人、人混みにぶつかりながら噴水の周りを走り回る小男、何故か胴上げされて歓声とともにどこかへ連れ去られていく若い女の人。

人間のものとは思えない、ありとあらゆる狂態がそこかしこに転がっていた。

離れた場所で見ているだけで、あたしは渦巻く狂気に飲まれて、息をするのもやっとだった。


「……なんなのこれ? なにかのお祭り?」


 かすれてもれでたあたしの声は広場の喧騒にかき消されてあたし自身にも聞こえなかったけど、由希の耳には届いたみたいだ。


「ううん、ここはいつもこんな感じ。今この広場にいるなかで、正気でいるのはたぶんあたしと日香里だけ」


 由希の涼しげな声音はかすかにも乱れていない、吹きすさぶ嵐の中で凛と響く鈴の音のように、周囲の喧騒をかなたに押しのけてあたしの耳にまっすぐに届く。心がすぅっと落ち着いていくのを感じた。

 もし、となりに由希がいなかったら、あたしも勝機を失って野獣のように暴れまわっていたのかもしれない。そんな気がした。

 広場の光景は震えが止まらなくなるほど恐ろしいのに、目をそらすことができず、心のどこかで致命的な興奮を抱いていることを認めないわけにはいかなかった。


「さあ、それなりに面白い眺めだとは思うけど、わたし達の目的地はここじゃないわ。先へ行きましょう」


 高地になるほど酸素が薄くなるように、橋向こうの奥へ進めば進むほどあたしのなかの現実感が希薄になっていく。

 ざわつくようだった空気はいまやはっきりと音をともなってあたしにささやきかけてくる。声はさらに奥へと誘いかけているような気もしたし、「引き返せ」と拒絶を示しているようにも思えた。男の声のようでもあり、女のようでもあり、人外の獣の叫びにも似ていた。


 物陰に無数の気配がひそみ、じっとこちらをうかがっているような気がしてならない。広場で見かけた人たちの影が路地をよぎっては消える。

……ただの幻かもしれないけど。

 あいかわらず無機質な建物と曲がりくねった細道が意識を遠のかせ、方向どころか上下の感覚すら怪しくなってくる。

あたしはちゃんと立って歩いているのだろうか?


「……日香里、大丈夫?」


 由希の声にはっとわれにかえった。


「うん、大丈夫。ちょっとボーっとしてたかもだけど」


 目を向けると、さすがの由希の顔も少し青ざめて見えた。

 けれど、あたしはもう引き返そうとは口にしたくなくなっていた。理由は自分でもよくわからない。橋向こうの魔性に魅入られてしまったのだろうか。

 いまや、つないだ手から伝わってくる由希の柔らかなぬくもりだけが、あたしの現実感をつなぎとめる唯一のしるべだった。

 由希にとっても、あたしの存在がそうあってくれているなら、とても嬉しい。「今日は日香里がいるから大丈夫」と由希は言ってくれた。だから、そうに違いないんだ。

 いまあたし達は、お互いの体温だけを頼りに存在し、前に進んでいる。他に頼るもののない世界で、このままずっと手をつないでいたい。


 「戻ろう」と口にできなかったのは、そんな幼稚な願望に浸っていたかったからかもしれない。

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