ユキとヒカリ ~Ⅰ奇術師~

倉名まさ

前編

 放課後に鳴るチャイムの音は、授業の合間に聞くそれと比べると、妙に間延びして聞こえる気がする。西日が差しこみ、窓側の席に座る由希の顔をオレンジ色に照らしていた。

 この時間に教室に残っているのはあたしと由希ゆきだけ。


 それはそうだ。

 部活の人間はそれぞれの部室に行っているし、学祭や体育祭のようなクラスメートが教室に残る行事がある時期でもない。

 

 運動部の人間がグラウンドで上げている掛け声もひどく遠く感じる。

 主を失ってガランと並ぶ机と椅子。通いなれた教室がやけに広い。


 あたしは一日の中で、この時間が一番好きだ。

 由希にとってもそうであってほしいと心から願っている。

 こうして誰もいない教室にいると、初めから世界には私と由希しかいなかったような錯覚に陥る。それはとても甘い幻惑だった。いつまでも覚めてほしくない……。


 ほとんど毎日、こうして二人で教室に残っていることは、クラスメートたちも薄々知っている。

「よく放課後までそんな話すことがあるね」と言うけど、ほんとは話が自然に長引いてしまうんじゃない。話すことなんて何もなくてもいいくらいだ。

 あたし達は、二人でこの時間を待っているのだ。

 西日の差しこむ教室に誰もいなくなる時間を……。

 時が凍りついて、あたし達以外のすべてのものがどこか遠い世界に消え去っていく、夕日が作り出す刹那の空間。


 いまこの時だけは、あたしは由希と二人だけの世界にいるんだ。

 このまま太陽が動かなくなって、オレンジ色の教室に二人きりで、永遠に閉じ込められてしまえばいいのに……。


「ねえ、日香里ひかり


 由希に呼びかけられて、あたしは我に返った。


「どうしたの? なにか考え事?」

「ううん、何でもない」


 笑ってごまかすあたしに、由希は目を細めて微笑みかけてくる。まるであたしの内心を何もかも見通しているみたいな表情だ。そんな笑い方をされると、胸が苦しくなる。

 あたしは内心の動揺を覆いかくすように口を開いた。


「そ、それよりなに。何かいいかけたでしょ」


 ちょっと早口になったうえに噛んだ。由希の笑みが一層深くなった気がする。


「そうなの。日香里、このあとちょっと付き合ってもらってもいい?」

「付き合うってどこに?」


 意外に思いながら聞く。

 どこかに一緒に行くことが珍しいんじゃない。こんなふうに改まって聞かれることが意外なのだ。  

 由希は、いつだって寄りたいところに寄ったし、行きたいところに行く。

 あたしはそれに当然のように付いていった。由希も当たり前のような顔であたしを振り回す。

 それがあたし達にとっての”自然”なのだ。

 あらたまって「付き合ってもらっていい」なんて聞かれると、よそよそしい感じがして少し寂しかった。


「よく当たるって評判の占い師。最近街に来たばかりって話なんだけど、日香里知らない?」

「占い師? ぜんぜん聞いたことない。っていうか、由希が占いに興味があるってのがすっごく意外」

「あっ、ひどいなー。わたしだって乙女なんだよ。占いくらい興味あるよ」


 由希は冗談めかして、口をすぼめてにぎり拳を軽く頬に当ててみせる。

 不意打ちを喰らったあたしは、ぐらりとよろめいた。な、なんなのそのかわいさズルすぎる。

 あたしに対してはいつも暴君ばりに好き勝手ふるまうくせに、突然のあざとさ。


 教室に二人きりというこのシチュエーションでそんな挑発しかけてくるなんて由希、なんて恐ろしい子。……いや、怖いはあたしの方か。

 咳ばらい一つして、反射的に襲い掛かりそうになった衝動を追い出し、強いてジト目をつくって由希に言う。


「だって由希。朝の占いの番組みてはしゃいでるクラスメートのこととかバカにしてるでしょ?」

「うん、事実バカだし」


 悪びれることなく、いっそ爽やかな笑みさえ浮かべて由希はうなずいた。


「それに占いの結果がなんだって、自分のやろうとしたこと変えたりしないでしょ」

「さすが日香里、よくご存じで」


 中学時代、いまのこの学校よりずっとレベルの高い進学校を担任にすすめられた時、由希は反論すらせず完璧に無視した。

 あたしの知るかぎり、誰かに相談事をしたり意見を求めたことなんてない。というか、あたしですらないんだから、他の子が相談なんか受けたはずがない。あってはならない。


「その唯我独尊、我が道を勇往バクシンの由希がいったい何を占ってもらおうってのよ」

「それはね―――ヒミツです」


 人差し指を立てて、小首をかしげていたずらっぽい微笑、さらにはウィンクを一つ投げてくる。

 なんとなく予感がして、今度はある程度警戒してたから、グラッとやられることはなかった。

 いますぐ携帯取りだして写メ撮って永久保存して待ち受け設定なんかにして毎晩眺めてたいっていうかそれならいっそリアルの方を押し倒したいぺろぺろしたい―――衝動には駆られたけど、大丈夫。あたしは冷静。うん、冷静。レイセイ……。

 咳ばらいをもう一回。


「ま、まあ高くないなら別にいいけど。で、どこにいるの? 駅前とか?」

「ううん、

「はあっ!?」


 思わずすっとんきょうな声が出てしまった。

 誰もいないのは分かってるけど、きょろきょろと周りをうかがってしまう。

 由希が口にしたのは、学校の中でうかつに発していい言葉じゃなかった。もし教師に聞かれていたら、職員室に連行されて質問攻めと説教にあうくらいは覚悟しないといけない。


 街の禁忌。橋向こう。


 この街に生まれた人間なら誰しも「橋向こう」に行くこと、いや、行こうと思うことすら強く戒められながら育つ。

 いかがわしく、治安は最悪、昼なお暗く、あらゆる犯罪と悪人が跳梁跋扈する魔の土地。そう繰り返し繰り返し教えこまれる。少なくとも、高校を卒業するまでは決して覗き見てはいけない。そういう場所だった。


 怪談めいたうわさ話なら、校内のあらゆるフロアに転がっていた。

 橋向こうで誘拐されて内臓を売り飛ばされた生徒のこととか、親の借金のカタに橋向こうのいかがわしい店で働かされている生徒のこととか、先月突然退職した数学教師は橋向こうの人間と交流しているのが発覚してほされたのだとか。交友関係が狭くて、うわさ話にはとんと疎いあたしでも橋向こうに関する話なら両手の指じゃ足りないほど耳に入ってくる。

 もしも、万が一「橋向こう」の人買いかなんかが由希をさらったりしたら……、だめだ、ちょっと想像しようとしただけで気絶しそうだ。


「じょ、冗談で言ってるんでしょ。付き合うってまさか、その……アノ場所に行くっていうそういうことじゃ……」


 その場所の名を口に出すのをためらって、あたしは自分でもびっくりするくらい弱気な小声になって言う。

 それだっていうのに、由希はまるで平然としている。


「冗談なわけないでしょ。占い師のお店は橋向こうのけっこう奥の方にあるらしいんだから」


 由希がその単語を口にするたびにこっちは息が止まりそうな思いでいるというのに、駅前のカフェの話をするのとなんにも変わらない顔してる。

 実に不公平だ。

 ……なんて腹を立ててる場合じゃなかった。


「だ、だめに決まってるじゃん、そんなの」

「どうして? さっき別にいいって言ったじゃない。あれはウソ?」


 ……うう。半分以上演技だと分かってるのに、由希から責めるような目で見られるとジクジクと心臓が痛くなる。


「……だ、だって、女子二人であの場所に行くなんて。生きて帰れないよ」


 自分の声音がさっきよりも弱々しいものになっている自覚はある。けど、これ以上由希相手に強く出られない。


「おおげさだなー。そんなの単なる噂話だよ」


 あっけらかんと笑う由希。そして、唐突にあたしの手を両手で柔らかく包んだ。手を握られただけなのに、柔らかな温もりに全身が包まれたようだった。


「大丈夫だよ、日香里。だ・い・じょ・う・ぶ」


 あたしの頭に染みこませようとするみたいに、一音一音はっきりと区切って由希は言う。

 天使の歌声のように甘く響くその声に、意識を全部持っていかれそうだった。

 頭をぶんぶん振ってなんとかこらえる。


「どうしても、その占い師に会いたいの?」

「うん、どうしても」

「でも、何を占ってほしいのかは教えてくれないんだよね」

「うん、ヒミツ」


 あたしは真正面から由希の顔を見つめた。

 由希の返事には迷いがなくて、その瞳はすこしも揺らがなかった。結局、例によって例のごとく折れたのはあたしの方だ。思えば、この力関係が崩れたことは今まで一度もなかった。


「ああ、もう、分かった。じゃあせめて陽が暮れないうちに行こう」


 もしこのまま説得を続けて反対を唱えても「だったらわたし一人で行く」なんて言い出すだけだ。由希は学校ではあんまり目立つことをしないから、大人しい性格なんて思われてるフシがあるけど、あたしから言わせれば思い違いもはなはだしい。


 おとなしい? まじめな女子?

 どこが?


 由希は鋼鉄の意志の持ち主だ。何があっても、自分の決めた行動を曲げたりしない。滅多に他人に干渉しないせいと、あまりに堂々と静かに自分のことをやってしまうせいでみんな由希の意固持さに気づいていないだけだ。


 だから、あたしだったどうすることもできない。由希の意志に従うか、放っておくかの二択しかない。そして、由希に「付き合ってくれる?」なんて尋ねられた時点で、あたしの選択は一つしか残らない。

 でも、そのことを不快に思ったことは一度もなかった。由希の決定に従うのはあたしにとっては喜びでしかなかった。

 そう。なんだかんだで、由希が決めたことに従って後悔したことなんて一度もない。

 今度だってきっとそうだ。

 由希と一緒なら橋向こうだろうと、世界の果てだろうと大丈夫だと思えてきた。


「うん、ありがとう、日香里」

 この笑顔をあたしに向けてくれる、ただそれだけで幸せだった。

 由希の意志と共に行動する限り、ずっと二人一緒にいられる。


 この時のあたしはそう信じて疑いもしなかった。

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