第53話 赤き海は愛した証拠

空には満月が置かれていた。深夜、鬱蒼と広がる森の細い道、正面にいるのは私の母。


「イザベル! 離れないで!」母は私を側に引き戻す。


気がついたら私は過去の記憶に包まれていた。そう、それは忌々しい過去の記憶。彼と出会った最初の記憶。


アスト・ユージニア。


ジーニアス……天才……天災。


「お母さん!」私は母に抱きついて泣きじゃくる。


今私は、体の制御などができず思考だけが独立して、この記憶に居座っている。


どう考えても夢なのであるが、ヒンヤリと私の肌を撫でる夜風が妙に現実感を取り持っていた。


「逃げるなって、あれは冗談だよ」怯える私たちの目の前に、アスト・ユージニアは立ち塞がった。


スーツを着こなしている彼は、私よりも十歳ほど年上で、年齢的には二十歳くらいに見える。まるで瞬間移動でもしたかのように思える素早さだった。


「娘には手を出さない約束でしょ!? 貴方の要求は分かってる、だからあと二日、二日だけでいいの……」


母はものすごい剣幕で怒鳴った後、懇願するように契約の延長を求めた。


「……二日もありゃあ、うまい飯が食えるな」アストはそう言って私たちに近づく。「……いい女だ、あと十年も経てば食べ頃か?」


彼はぬらりと私を覗き込んだ後、わざと聞こえるように呟いた。


「娘は関係ないって言ってるでしょ! それに、そんなことしたら、私との契約が解除されるわよ!」


「契約? 解除? お前が俺に何したってんだよ? 金遣いも荒くて、男漁りに夢中なババアが。何かしてくれるってんなら別だぜ?」


「そっ、それじゃあ今から!」私の母は服をはだけさせた。「私の体で──」


「ダーメ! お前は女としての価値ゼロ。年増で子持ち、おまけにバツイチ……。お前は救いようのねぇダメ人間だよ」


アストはそう言うと、突然私の手を掴む。そのまま私の体が上に上がってゆく。


「いたぃ!」私の幼い体はプラーンと宙ぶらりん。地面に足がつかない。


「……だけどな、お前に使わせた能力、今は返さなくていいぜ」


「待って、その子だけは──」


「今日この日から十年後、コイツで取り立てる。それくらいでゼロ点ピッタリだな」


私の右手が熱くなる。それはアストに握られている手で、なんとなく魔力が注がれている感覚があった。


「今、お前と同じ能力をコイツにも与えてる」


「お母さん! あつい! あついよぉ!」私が幾ら叫んでも、アストから注がれる魔力に限界が来ない。


思い出した。私の能力、この時に貰った力だったんだ。


「そして、お前の利用価値がたった今なくなった」


「待ってください! 私の、私の命だけでもお助け下さい!」


私の母は土下座していた。頭を地面に擦り付け、涙で地面を湿らせていた。私の目の前で、プライドのかけらもない女がそこにいた。


「おいおい、娘の前でよしなよ。死ぬことには変わりねえんだ、最後くらい気高く生きようぜ?」


トシャリと私を地面に下ろしたアスト。彼は母に手を添える。ここから行われる地獄は、今でも私の記憶の片隅に残っている。


──改造・展開


「にゃる、ふっ! べべべべべ!!」


母はまるで段ボール箱の様にされてしまった。四角い箱の上面には、焦点の合っていない黒目をした、イカれた母の顔があった。


「いいか? ここからが面白いんだよ?」アストはかがみ、私と目線を合わせて段ボールを見ている。 


そして彼は箱になっている母を持ち上げると、懐からカッターナイフを取り出した。ギリリリリ、刃を取り出す、不快な音が森に反響する。


「えっにゃ、ひゅゅゅ……ゔがぁぁ!!!」


 彼は母親の頭にカッターナイフを差し込み、まるで段ボールを開封するみたいに引き裂いた。


「ゔっ、あっ、あっ……」母は未だに苦痛に歪んだ声だけは出している。


「俺もね、本当はこんなことしたくないんだ」アストは母を折り畳みながら私に話しかける。「でも、子供は親を選べないだろ? キミは悪人の娘なんだよ」


「……私のお母さん、悪い人?」


「悪いぜ、結構」アストは懐から今度はビニル紐を取り出して、母をそれで包み始めた。


「私も悪い人?」


「悪人のガキに罪はない。けどな、お前にも多少の因果が回って来る」


アストは何度か母の外周に紐を通し、結び目を作っている。その間も母は苦痛に歪んだ叫びを発して、私の耳をつんざく。


「いんが? 私もお母さんみたいになるの?」


「なることはねぇ。まぁ、お前がバカな真似しなくちゃな」


アストは母を包み終わって、私とようやく目があった。


「なにをしたら──」


「俺の記憶を叩き起こさないことだ。そして、万一起こしちまっても、能力をねだっちゃいけない」アストは自分のこめかみをトントンとする。


そして彼は私の質問に食い気味に答えたのち、母を背負って森の中へ消えていった。


「じゃあな」彼は最後に、背中だけで別れ際の挨拶を済ませる。



──アスト・ユージニア、忘れていた男の子。






資料室、窓の外にはまん丸の月が顔を覗かせていた。


私とアストは同じ椅子で抱き合って寝ていたらしい。私は裸で彼に跨っていた。オリヴィアちゃんは、部屋の隅で縮こまって寝ている。


「キミ、全然変わってないね」私はそっと呟く。


そこら中に撒き散らされた私の体液と、彼の体液。オリヴィアちゃんの液体は、彼女が寝ていた所以外には飛んでいない。


「……もしかして、あの日から十年?」ポツリ、私はつぶやく。


私は下腹部をさすり、アストの寝顔に聞いてみる。そして、ゆっくりと両手を伸ばす。狙いは彼の首、命の根源。


「これが恋? それとも殺意?」彼の首に手をかけ、私は股を濡した。


本能が叫ぶ『彼を殺したい』と、理性が止める『記憶が戻る』と。彼は言っていた『記憶を戻して、能力をねだるな』と。


「ねぇ、私のこの力、君のでしょ?」


私の力。生物を改造して、意のままに操るその力。彼の能力の、氷山の一角にすぎないかもね。


「返したらどうなるの? 私もあの女みたいに?」


お母さんみたいに、段ボールにされちゃうのかしら?  


私はアストの首にかけた手の力を強める。きゅう、きゅう、と力を込めるその都度、私の心が快楽で跳ね回る。


「でも、きっと、これが本能なのよ。私には止められない、巨大な因果の流れ……」


アストを殺すことが私達の本能だとしたら、エレナもマリオンも、シシリーちゃんのことだって分かる。


私は寝ている間の夢を思い出して、そんな結論に至った。夢の中で彼女たちは度々、アストを手にかけていたのだ。


「キミを殺せばなにが見えるの? 私を殺したキミはなにを見たの?」私はアストの胸に耳を当てる。


やっぱり、心臓が動いてない。彼、出会った時から死んでたんだ。


「ふふっ」私は思わず笑ってしまった。


ヒーラーを自称した『改造学の始祖』は、私達を蘇生するよりも前から死んでいる。いや、むしろ死んでいる方が正しいのかも?


──改造・展開


私はアストの胸を開いた。


彼の中身は空っぽで、まるで着ぐるみの中のようになっていた。心臓も、他の臓器も何もない。それはただの『アスト・ユージニア』という器に過ぎなかった。


「やっぱりか」私は彼の体を元に戻して落胆する。


──ガチャリ


資料室のドアが開く。私でない、誰かが外から鍵を開けてやってきた。私は入り口に目を向けて、そこにいる人物を特定した。


「……カトレアも、アストくんを殺しにきたの?」


白衣に包まれ、愛想のない無表情。そんなカトレアという女は、片手に包丁を握りしめていた。


「殺すには早いかも。でも、もうすぐ起きるから……」


彼女の発言の意味は分からなかったが、アストを殺すことに間違いはないようだ。


早く、早く、アストを早く殺して!


「ごめんなさい、学園長。私、もう我慢が……」カトレアは私のそばまで寄って来る。


彼女が最後の一人、アストを殺していない最後の一人。オリヴィアちゃんがさっきの性交渉でアストを殺したから、正真正銘最後の一人。


「はあっ、はあっ……」カトレアは興奮している。


そしてゆっくり、ゆっくりとアストに刃を押し込み、彼女の顔が快楽に歪んでゆく。少しずつ彼女の鉄仮面は剥がれ、最後には発情した雌の顔になっていた。


「あすと、あすと、あっ──」


ズブリ……


カトレアの白衣に穴が空いた。そこから赤い液体が漏れ出る。


「ゴブッ、私は……ダメなの? あすと、ゆるし、て……」


トクトクと床に広がる赤き海、カトレアは涙を流してそれを見守っていた。


「残念、カトレア。貴方は愛されてないのね……」


空では満月が沈みかけていた。

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