第49話 既成事実を媚薬とするならば

「脱ぐって、いくらなんでも……」アストはカトレア先輩を見上げて言った。


 不思議なことに、現在の俺はこの状況を覚えていない。エレナの時といい、この記憶は誰の記憶なのか。この記憶は俺にとって、事実であるかさえ不確かなものだった。


「お姉ちゃん、なにしてるの?」


 ユイナは姉、シシリーに対して疑問を抱いていた。それもそのはず、彼女の姉は服を脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿になっている。


「私の、私の体だけでお願いします。ユイナはなにも悪くないんです……」


 シシリーは馬車の床に両膝をつき、両手と頭を床に擦り付ける。傍には丁寧に畳まれた布、いや、シシリーの服があった。


「忍び込んで、体で払うのはいいこと。でも『妥協してくださいって』お願いをタダで聞くほど、私は優しくないよ?」


 カトレア先輩の一言には重力が伴う。彼女の言葉は、土下座しているシシリー先輩の背中に、ずっしりと重くのしかかるのだ。


 対するアストとユイナ、彼と彼女は未だ理解が追いついていない。二人はただなにも話さず、カトレア先輩とシシリーの会話だけが馬車に響く。


「分かってます。でもユイナは、ユイナはなにも悪くない。……悪いのは全部私です」


 シシリーは土下座から微動だにせず語る。言葉は震え、彼女の拙い語彙も底をつきそうだった。


「悪いとか、悪くないとか……。貴方が決めることではないし、罪を背負えるほどの人間でもない……」


 常にカトレア先輩は上から言葉を打ち下ろす。現在の俺はこの世界に干渉できない故、哀れな少年少女に何もしてやれない。


「どうか、どうかユイナだけは……」床はシシリーの涙で滲む。


「食欲を満たしたいなら、他の欲を差し出せばいい。……それが道理」


「他の……。他に……」ユイナは自身の体を触り、他のものを探していた。


 アストとシシリー、ユイナはまだ幼い。それすなわち、カトレア先輩が指している言葉すら聞いたことがないだろう。


「あるじゃん、性欲」しかしカトレア先輩の表現は直接的なもの。


 誤解の余地もなく幼い彼らに突き刺さる。いや、しかしながら誰も意味を知らない。


「リーダー、せいよくってなんですか?」


 普段なら気まずい雰囲気を作り出す、いわば魔法の呪文。今回だけは例外的に、性教育を施すのだ。


「食べて寝ると同じこと。アストが女の子とエッチなことするの」


「エッチな……。きっ、キスとか?」アストは真面目に質問する。


「それはいつもやってる。そうじゃなくて、……特別な方」


 アストはこの言葉を皮切りに顔が青ざめ、ガクブルと全身が震えるのであった。しかし、現在の俺には察する事は出来ても、記憶での裏付けはなかった。


「あれはイヤ、やだ、エッチやだ……」彼の表情は恐怖に上書きされている。


「アストが嫌がるから痛くなる。受け入れれば気持ちいのに……」


「大好き……」カトレア先輩は震えるアストを抱きしめ、何度も、何度も耳元で呟いている。


「エッチなこと……。お姉ちゃん、私怖いよぉ……」


 ユイナは土下座する姉に縋って泣いていた。ポロポロと頬を伝って落ちた涙は、シシリーの美しい背中を伝って床に溢れる。


「大丈夫、ユイナは私が守る。全部、全部、私が悪いから」


「リーダー、俺やだよ、したくないって」アストも大粒の涙を流す。


「大好き、大好き……」カトレア先輩は狂ったように呟く。


狭い馬車の中、やはりカオスになってしまった。


ジュジュ!!


世界にノイズが入る。


「そうか、あの時と一緒か」俺には多少の慣れがあった。


ホー、ホー、


 場面が切り替わると既に日没後。何処から、ミメイフクロウの鳴き声が聞こえるほどの深夜。


パチパチ……


 俺は木陰にいて、視線の少し先には淡い光。なんとなくキャンプしていることは理解できたし、そこにアストがいることも察した。


俺は木陰から様子を見る。


「はあっ、はあっ、はあっ……。もっと、もっと頂戴?」


 俺は目を疑った。俺の視界の中心にはシシリーがいて、だけど彼女の瞳にはアストが映って。しかもシシリーの雰囲気が全体的にエロい。


「んんっ、えへぇ、んちゅう」


……もはや手遅れ。


あの姉妹は全裸、そして腹部に大きな穴。


 オーバーヒールによって、本能を刺激されてしまっている。彼女達には俺しか見えていない。所詮、焚き火の光も彼女達にとっては照明でしかないようだ。


「リーダー、助けて、やだ、したくない……。んんっ!」


 唯一正気を保っているアスト。しかしながら、二人の獣に押さえつけられてしまってはなす術がない。半歩ばかり離れた所で見守っているカトレア先輩はただ、無言でアストを見下ろしていた。


「なんでだよ、どうなってんだよ……」


 俺はそれ以上の困惑。ユイナの話と全然違うどころか、シシリーが俺のファンになる動機すら見当たらない。


「過去って、意外と曖昧なもの。思ってた事実が、本当にそうとは限らない……」


ザッ、ザッ……


 カトレア先輩は俺に向かって来る。勘違いでもなんでもなく、俺たちの瞳は重なり、声もまっすぐ飛んでくる。


「アストがここまで来たのは、シシリーのせい。さっき殺されたでしょ?」


「はい、殺されましたね」


 『見えてるの?』などといった確認はいらない。彼女には俺が見えている。それは確定事項なのだから。


「ちょっとだけ、んふふっ」俺に近づいてもカトレア先輩は足を緩めなかった。


 彼女に俺は抱き寄せられ、太陽の香りに包まれる。太陽、頭に浮かぶのはそういう感覚だった。


「なんで、どうしてこんなことを?」俺は答え合わせをするかの如く尋ねる。


「この世の神様を皆殺しにするため……」


 俺は驚いて身をひこうとする。しかし全身に絡みつくカトレア先輩の体はびくともしない。


「神様がいるから、攻撃学とか、防御学がある。でも、それはこの世界にいらないもの」


「いらないわけないです。人々を幸せにしてます」


「その価値観はダメ、洗脳されてる。私がせっかく過去を変えたのに、また同じ轍を踏む」


「過去を、変えた?」


 俺の疑問に、カトレア先輩から答えが返ってこなかった。代わりに口内、舌をねじ込まれる。


「れろっ、んんっ……ぷはぁ」


 相変わらず思考はぐちゃぐちゃに。カトレア先輩の甘い舌に、脳まで犯された気分だ。


「残念、アストはまだ知らない」彼女からの返答はたったそれだけ。


「教えてくださ──」


「んちゅ、んっ、れろっ……」


 その後は焚き火が消えるまで、この森の中に水音が響き渡るのであった。音源は二つ、夜はより深く、なんて洒落は通用しない。


「アスト、もっと」「欲しい、ほしいのぉ……」





──キーンコーン、カーンコーン


 チャイムの音で目が覚めた。埃っぽい部室、俺は机に突っ伏して寝ていたようだ。机の上にはエレナの弁当、それとハンカチ。


「んっ、いつから寝てたっけ……」周囲を見渡すが誰もいない。


 窓から風が吹き抜け、頭が寝ている俺を迎えにきた。ただ、異常に寒く感じるこの部屋、シシリー先輩に殺されてあまり時は経っていないはず。


スン、スン……


「カトレア先輩?」俺の鼻腔をくすぐる太陽の香り。


 それはついさっき嗅いだものと同等かつ、より強く残っていた。頭の中で彼女を思い描き、まるで彼女に恋しているみたいに胸が苦しくなる。


それは、アカツキ先輩に対する恋心に匹敵するのか。


未だ答えの出ない迷宮を俺は彷徨うしかなかった。


──キュルリ


「うわぁ! この部屋さっむー!!」快活な少女の声。


オリヴィア先輩の入室は、彼女を見る前から声で察していた。


「アスト君じゃん! ちょうどよかったー!!」


 オリヴィア先輩は俺の向かい側に腰掛ける。手にはフラスコ、中にピンク色の液体。


「ええっと、まさかそれを飲ませに?」


「だいせいかーい! アスト君にピッタリな薬だよー!」


 オリヴィア先輩はグイグイとフラスコを俺に近づける。勘違いかもしれないが、明らかにイケナイ薬を飲まそうとしている。


「ふふっ、ほら、早く飲んで?」

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