ウォールウッドの醜聞 1


 少女は部屋の片隅で震えていた。

 全ての窓を閉めた部屋は暗い。

 本来いるはずの両親もとっくに逃げ出していて彼女はずっと一人ぼっちだった。

 両親だけではない。

 隣人もその隣の住人も。

 彼女のせいで死にかけた。

 だから少女は震えている。

 何故こうなってしまったのだろうと。

 何か悪いことをしただろうか。

 答えは出ない。

 事実として、少女は広くない部屋から出ることができずただ怯えているだけだった。

 そのまま行けば彼女は餓死していただろう。

 

「―――やぁ、こんにちは」


 そんな彼女の前に青年は現れた。

 黒い帽子と着古したコート姿。

 ぼんやりとした笑みを浮かべた小動物みたいな男。


「っ……来ないで、ください!」


 かすれた声で少女は叫んだ。

 青年に対する恐怖ではない。

 自分の持つ何かが、青年を傷つけてしまうと思ったからだ。

 けれど、


「うん? ……あぁ、ごめんね急に来て。怪しい者には見えるだろうけれど、それでも危ない者じゃない」


 言われた通り足を止めて、のんびりと青年は微笑んだ。

 少女を気遣うみたいに。


「…………なんとも、ないんですか? 私の、近くに来て……」


「うん、そうみたいだね。だから俺が助けに来たんだよ」


 少女の周りにいた誰もが、少女の周りにいられなくなった。

 ある日突然、彼女は一人ぼっちになってしまった。

 光の差し込まないくらい洞窟に置いてけぼり。

 その奥で萎れた花みたいに。

 だけど、青年は散歩するような気軽さで現れて手を差し伸べた。


「君の望むものかは分からないけれど―――せめて、こんな部屋の片隅で震えないようにはできると思う」






 シズク・ティアードロップ。

 いつもフードを被り、少年用のズボンかスカートにしてもストッキングやタイツ、常に手袋を嵌めた露出を絶対に認めないファッションの少女。

 東洋系の血が入った顔立ちはエキゾチックな美少女であり、フードから零れる色素の抜けた白髪は目を引く。

 暗い赤の瞳はいつも半分くらい閉じているけれど、それが逆に彼女の魅力を引き出しているようでもあった。

 今年ようやく16になるにしては背が低く、発育は残念な部類だけれどそれもまた愛嬌だ。

 彼女は凄い。

 何が凄いって名前が凄い。

 ティアードロップ。

 雫の落涙ちゃんである。

 そう揶揄うと物凄く怒るから中々呼べないけれど。


 そんな落涙ちゃんは通り過ぎた馬車の影から現れた。

 バルディウムの高級住宅街の中心の噴水広場。

 天気は良いが平日なせいか、子供連れの家族や恋人たちが視界のまばらに遊んでいたり、道路では馬車や最近金持ちが乗り回すような自動車の真っ黒なガスが漂っている。

 彼女は道路を横切り、噴水の前で突っ立っていたノーマンの下へ歩いていく。

 平和な公園が似合わないなと、ノーマンは思った。

 パーカーの上に大きめのジャケットを羽織り、動きやすそうなズボンに、少しゴツめのブーツ。

 小柄な体を少しだけ丸めながら歩く姿は露出がないのも相まって、世界のどこからも浮いているような、どこにもなじめないような印象を与えてくる。

 暗闇でずっと蕾のまま、光を浴びることを拒否する咲かない花のように。

 放っておけばそのまましおれて消えてしまいそうな少女。


「やぁ、シズク。遅かったね。でも安心してほしい、俺も今来たところだよ」


「なんですかそれは。ノーマン君」


 高く澄んだ声だった。

 けれどそれに乗ったのは気だるげな、僅かな不満をにじませた声だった。

 思っていた反応と違って、ノーマンは思わず髪を掻いた。


「ありゃ、おかしいな。前に待ち合わせた時は、どれだけ待っても今来たところっていうものだって言ってなかったかな」


「それは集合時間より前に会えた時の話です。相手が遅れたのにそれを言ったらノーマン君も遅れたことになるじゃないですか」


「おぉ、確かに」


「もう……」


 シズクがフードの奥で息を吐く。

 仕方ないなぁという呆れの嘆息だ。


「遅れてごめんなさい。けれど、なんだってこんなところなんですか」


「悪くないとは思うんだけれど。定番の待ち合わせ場所らしいよ」


「らしいよって。待ち合わせに使ったことあるんですか?」


「ないかな。このあたりに用事なんてほとんどないし」


「でしょうね。私だってそうです、そのせいで迷いました」


「でも、俺はここが待ち合わせに有名なところってくらいは知ってたよ」


「私が知るわけないことをノーマン君は知っているでしょう」


「……まぁね」


 フードの美少女。

 落涙ちゃんことシズク・ティアードロップ。

 驚くことなかれ、彼女はなんと引きこもりである。

 16歳ともなれば商家や貴族の娘なら花嫁学校に通ったりしているものだし、貧しい家庭なら働いているか結婚しているかだ。

 なのに彼女は学校にも行かず、結婚もせず、働きもせず、自分の下宿先に引きこもって趣味のバイオリンを弾いているのが大半という変わり者というにはなんとも残念な少女なのだ。

 本人自身にはそんな雰囲気はまるでないけれど。

 ノーマンは肩を竦め、


「とりあえず行こうか」


 歩き出す。

 シズクは返事を返さなかったがしっかりと隣についてくる。

 拳一つ分の距離を開けて。


「それで?」


 ジロリと冷たい眼が隣に向く。

 ノーマンは答えず、コートの内側からファイルを取り出しそれを手渡す。


「……」


 黙ってそれを受け取った。

 握れば折れそうな白い指。

 ファイルには数枚の書類と写真。

 まず彼女が見たのは貴婦人らしき人物が笑顔で映っている顔写真だ。


「誰ですかこの人」


「メアリー・ウォールウッドさん。運送会社の社長。未亡人で、5年前に死んだ旦那の会社を引き継いで成功させた敏腕女性社長さんだ」


「おいくつで?」


「35歳」


「享年35歳って言うべきですね」


 ぞんざいに、つまらなさそうな動きで写真を捲る。

 そこには享年35歳のメアリ・ウォールウッドの死体の写真が。

 それなりにショッキングな死に方をしていたが彼女は顔色を変えずにファイルを閉じた。


「最悪ですね」


「全くだ。彼女が亡くなったこともそうだし、運送会社ってのはこのバルディウムじゃあ別の街からの入ってくる物資って大切だし……」


「そうじゃないでしょう」


 ばすんと、音を立ててファイルが突き返された。


「久しぶりに待ち合わせと思ったらこれで、いきなり仕事の話ですか?」


「仕事だからね」


「非合法な」


「とんでもない。……あぁ、いえ。ミステリー小説の話ですよ」


 続いた言葉は通りすがりの紳士に向けて。

 高そうな燕尾服とシルクハット姿の若い青年だがおそらく貴族か何かだろう。

 このあたりでは珍しくない。

 小柄な少女から非合法なんて言葉を聞いて足を止めてしまっていたので、ノーマンがやんわりとほほ笑んで話しかけた。

 

「あぁ……なるほど。そうなると、そちらのお嬢さんはワトソンかな」


 夜会なんかじゃ女性に引っ張りだこだろうな、なんて思わせる上品な笑みの紳士は小さくお辞儀をしてから歩いて行った。


「…………ワトソンってなんですか?」


 いつの間にか一歩離れていたシズクが距離を戻しながら聞いてくる。


「知らないの? 何年か前に流行った推理小説。王都で大流行して、バルディウムでも去年あたりみんな読んでたよ」


「みんなって誰ですか?」


「……君と俺以外の誰かってことかな」


「知りませんよ。あまり文字の多い小説を読むと頭が痛くなるので」


「……」


 なんというか。

 クールでダウナーな雰囲気の美少女から聞きたくないセリフの上位ではないだろうか。

 

「それで?」


「シャーロック・ホームズっていう名探偵の主人公がいて、その助手のジョン・ワトソンが振り回されながら事件を解決するっていう話だよ」


「ふぅん」


 シズクは小さく頷き、


「……ふっ」


 俯きながら小さく口の端っこを歪めた。

 フードや身長差による角度の加減で見えたわけではないが、ノーマンとシズクの付き合いはそれなりに長い。

 年頃の少女がするような笑みではない笑い方。

 大体の場合、彼女はそう笑う。

 

「その話なら、ワトソンはノーマン君でしょうに」


「……まぁね」


「ぷぷっ……くく……」


 妙にツボに入ったらしく、小さく肩を震わせていた。


「…………あの本、俺が印象的だったのはさ。わりと頭の螺子が外れてる名探偵に振り回されてる助手が、文句言いつつなんだかんだ付き合ってるところだったよ」


「くくくっ……ふふっ……やっぱりノーマン君じゃないですか……!」


 肩の震えが大きくなった。

 なんだろう、全く釈然としない。


「ふぅ。いえ、失礼でしたね。ノーマン君は文句言わないですし」


「そうか……? そうかな……」


「えぇ。言っていたとしても私は聞いていませんから」


「こいつ……」


「くくくっ」


 端正な唇をほんの少しだけ歪める笑み。

 暗闇の中で揺れる蕾のように。

 

「それでは行きましょうかワトソン君。殺人事件なんて面白くもなんともないですし」


「シャーロック・ホームズはそんなこと言わない」


 たぶん。

 

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