本能と衝動的殺意の(5)

「お、母、さま」


 足をひきずるようにして出てきたアリスは、苦しそうに潰れたような声を発した。明るいブラウンの瞳は朦朧として涙ぐみ、その小さな唇からは、鋭い歯が飛び出して唾液が滴っている。スカートを握り締める小さな手は、すっかり白くなってカタカタと震えていた。

 君が殺したのか、とすぐに問う事は出来なかった。思わず雪弥は、アリス、とだけ小さく口の中で呟いていた。


 すると、その声が聞こえたのか、彼女がこちらへと力なく顔を向けてきて「……雪弥様」と、掠れて低くなった声で囁いた。その大きな瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちる。


「雪弥様、そこに、いるの? それとも、私、まだ夢を見ているの?」

「アリスちゃん……?」

「真っ暗で、何も見えないわ。お母様、怖い、どこにいるの?」


 今にも泣きだしそうな表情を浮かべたアリスが、助けを求める眼差しを動かせる。口から更に唾液が滴り落ちて、苦しい、お母様、と別人のような低い声がこぼれた。

 見るに耐えきれず、蒼慶が「おい」と低く紗江子を威圧した。


「一体、お前達の言う『特殊筋』とは、なんだ? そんな子供を、無理やり殺人者にするくらいの事なのか。そもそも、この本を必要としているのは何故だ? 何か知りたい事があるからこそ、これを奪おうとしているのだろう?」

「質問ばかりねぇ」


 紗江子がそう言いながら、面倒そうに蒼慶へ視線を返した。


「どうせここで消えてもらうから教えてあげてもいいけど、『あの方』は、いつの時代も私達を追い込んできた三大大家と、表十三家に今度こそ邪魔をさせたくないと考えている。そして、唯一の天敵となりうる蒼緋蔵家の『秘密』を求めているの。その本にヒントがあるのなら、とおっしゃっていたけれど、ほんと今更何を一体知りたいのかしら――」


 そう口にした紗江子は、よろよろと近づいてきたアリスが、縋るようにスカートを握り締める様子へ目を向けた。ふんわりと微笑みかけると、その頭を撫でながら続ける。


「私が思う特殊筋は、一族の血に宿った『物語』を明確に持った子ね。その中でも稀に、戦争の歴史の当事者として存在し続けているモノもある。たとえば、この旧藤桜家で伝えられている、一族の器を使って蘇る魔物『桜木の精霊物語』も、そう」

「蘇る、だと?」

「蒼緋蔵家の次期当主様は、本当に何も知らないでいるのね。特殊筋の一族の血が受け継ぐのは、性質的な異常だけではないのよ。形のない魔物だっている。――旧藤桜家の『桜木の精霊物語』の異名は『獰戯(どうぎ)』。とってもやんちゃで残酷なの」


 そう続けた彼女が、ふっと笑みを消した。



「そろそろ出てきなさい、獰戯。怯える顔が好きな貴方の悪趣味もあるでしょうけれど、今は夜の時間よ。いつまでもアリスの意識を、残しておかないで」



 獰戯、という呼び掛けを聞いた瞬間、アリスの顔から表情が聞こえた。その目が大きく見開かれ、震える両手をゆっくりと持ち上げながら頭上を仰ぐ。這い上がるかのような動きをする手の先の爪が、ぎちぎちと音を立てて伸び始め――


 次の瞬間、アリスの瞳に、獰猛な獣の殺気が宿った。同一人物だと思えないほど、その顔に怒りと増悪に染まった表情が刻まれたかと思うと、前触れもなく咆哮した。

 おおおおおお、と獣のような叫びが少女の口から放たれ、地面と大気を震わせた。見開かれている彼女の瞳が、次第に赤へと染まり、黒い瞳孔が獣の如く縦に伸びて細くなる。


 その咆哮は、不意に止んだ。けれど静かになった途端、彼女の小さな身体の関節の節々から、嫌な音が連続して上がり始めた。それは骨格や筋組織を生まれ変わらせるようにして、高速で破壊と再構築を繰り返していく。


 雪弥は、アリスの小さな身体に起こり続ける異常を見つめていた。彼女の意識に取って替わろうとする何者かの気配を鮮明に感じ、ざわりと殺気が込み上げた。


「侵入者は、実質たった二人だったわけか」


 そう口にした蒼慶が、嫌悪感を露わに紗江子へと目を戻す。

 ボキリゴキリと音を立てるたび、アリスの華奢な身体がはねる。その様子を注視しながら、宵月が警戒して主人をかばうような姿勢で、一歩後ろへ後退した。


「ええ、たった二人よ。だって蒼緋蔵家は、今や戦士部隊もいないじゃない。それに所詮中途半端でしかない『番犬』を、どうして彼らが恐れるのか分からないわ。だって、現に聖水をかけるだけで鼻が利かなくなった。この子一人で十分だわ」


 紗江子が、蒼慶に視線を戻してせせら笑った。


 話の内容はよく理解出来なかった。ただ、敵である事だけは明確で、雪弥はアリスがぴたりと動きを止めた様子を見て、余計な考えを頭の中から締め出した。


「僕は、兄さんたちを守るよ」


 だから、唯一ハッキリと分かっている自分の想いを口にして身構えた。

 その時、アリスがその呟きに反応したかのように、勢いよく首の位置を戻した。小さな両手をだらしなく下げたまま、見開かれた赤い瞳をぎょろりと雪弥に向けたかと思うと、喉の奥でくぐもった笑い声を上げる。


「『兄さん』だって? それに『守る』?」


 アリスの唇から、先程とは違う少年の声がした。紗江子が微笑したまま後退する中、その身体がぐらりと揺れて、支えるように広げられた足が、品もなく一歩前へと歩み出される。

 警戒している蒼慶と宵月には目もくれず、アリスが金髪を揺らして、まじまじと雪弥を観察した。不意に、牙を覗かせてひどく顔を歪めて笑い出す。


「おいおい、冗談はよしてくれよ『番犬』。あんた、また不完全なのか? あん時、容赦なく俺を殺した頃のあんたと殺(ヤ)り合いたいってのに、なかなか『再会』出来ないなぁ」

「……僕は、君と顔を合わせた覚えはないんだが?」

「はいはい。んでもって、大抵はその台詞が返ってくるんだよな。『前の俺』もそんな中途半端な人間野郎に、しかもトドメのところで、ただの剣で倒されたってのが、非常に気に食わねぇわけだが」


 雪弥を真っ直ぐ見つめる赤い瞳は、獲物を狩りたいとする獰猛な獣の殺気に溢れていた。


「まぁいいよ。俺だって『今の時代』は理解している。自分を隊長だとか言って時よりもマシだし、どうせお前も、そこにいる奴らも、この俺に殺されるんだからな。――こっちを終わらせたら、この敷地内にいる人間全員、死刑だ」


 赤い瞳が、ぎょろりと一回りして、再びこちらを向く。


 それ見て、全身がざわりと総毛立った。言葉としてハッキリ害をなすことを告げられて、冷静でいられるはずがない。


「たかが一冊の本だけで、勝手に死刑執行させてたまるか」

「ハッ、いいねぇその顔。もそもそな論点は本じゃないんだぜ、これは戦争なのさ。人間側の表立った争いやら平和の下で、ずぅっと続いている領取り合戦だ。共存なんて無い。俺らは人間に抑圧されるのなんてまっぴらごめんだし、食いたいし、殺したい」


 またしても、よく分からない事を言われる。けれど、向けられている殺気が一気に膨れ上がり、敵の全神経が戦闘に入るのを察知した雪弥は、睨みをきかせて咄嗟に身構えていた。

 アリスが重心を低く落として、腕を両脇へと向けて交差させた。見覚えのない変わった戦闘態勢だ。そう考えて見つめていたら、視線を返してきた彼女がニィっと嗤った。


「全員殺す――まずは、お前からだ」


 言葉が上がると同時に、アリスの両腕の先から、爪とは別の鋭い凶器が突出していた。

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