本能と衝動的殺意の(2)

「仕掛けがあったらまずいと思うから、まずは僕から入ろうと思うけど、いいかな、兄さん?」


 すると、視線が合った蒼慶が「構わん」と許可してきた。だから雪弥は、ならばと辺りを窺いつつ、一番目に地下空間へと足を進めた。


 そこは、一つの立派な美術館が、すっぽりと入ってしまうほど広かった。両サイドに並ぶ巨大な柱は、目測でおおよそ六畳ほどの厚みを持ち、明かりの届かない闇に呑み込まれた向こう側からは、まだまだ奥に面積があると推測される風が吹き抜けている。

 そのおかげか、軽すぎる類の埃は積もっていなかった。地面は加工されて見事に真っ平らにされており、長年の風化や石砂などで変色してしまっているそこを足で擦ってみると、下に隠れていた柄が覗いた。


「何か、下に描かれているみたいだ」

「上もですよ」


 蒼慶と共に、雪弥の後に続くようにして内部へと踏み込んだ宵月が、特に表情も変えず遥か頭上にある天井を見上げる。そちらもまた風化がひどくて、そのうえ薄暗い事もあってか、何が描かれているのかまでは分からなかった。


 扉から祭壇までは、数百メールは離れているだろうと思われた。前を進む雪弥を先頭に、高すぎる天井に吸い込まれるようにして、三人分の足音が反響する。


「父から『ここから先は次期当主のみ』と聞いている。念のため、お前達は入らないほうがいい」


 祭壇まで十メートルほどの距離の床に、うっすらと赤いラインが引かれているのを見た蒼慶が、その手前で一度足を止めてそう言った。雪弥はそれをチラリと確認すると、肩をすくめて見せた。


「そうだね。父さんがそういうくらいだから、僕は待っている事にするよ」

「それでは、わたくしもここで待機していましょう。蒼慶様、どうかお気をつけて」


 宵月が礼儀正しく頭を下げて、主人を見送った。


 一つ頷いた蒼慶が、赤いラインを踏み込みえて先を進んだ。祭壇の段をゆっくりと上がっていくのを、雪弥は宵月と共に静かに見守っていた。


 祭壇の段差を一段、二段と上がり、蒼慶は本を置くためだけに用意されているような石の台の前で立ち止まった。松明の灯りに照らし出された、苔が黒ずんだような色をした本の表紙を、しばし見据えてから手に取る。


 ずっしりと重い大きなその本に被っていた白い埃が、ふわりと浮かび上がって流れていくのが見えた。吹き抜ける風は、隙間風にしては強いものだ。


 やはり、この地下の空間は、随分と奥まで続いているらしい。雪弥はそう推測して、巨大な柱の向こうをチラリと見やった。続けてひゅうっと風が流れ込み、彼の灰色とも蒼色ともつかない髪を揺らす。


「いくつか、ここの他にも出入口がありそうですね」

「一族の中でも、出入りが限定されている箇所がいくつか存在しているとは、旦那様から伺っております。しかし、そちらについても、今すぐは教えられない『秘密』の一つのようです。次期当主となる事が確定してもなお、全ての情報を開示されない状況が、蒼慶様は歯がゆいとも感じていらっしゃるようです」


 宵月が、手に取った本の表紙を、じっくりと眺めている蒼慶から目を離さないまま、そう相槌を打った。


 一見してもかなり重そうな本の中身を、その場で少し確認しようとでも思ったのか、蒼慶が一旦片手に持ち直そうとした。しかし、諦めたかのように小さく息を吐くと、腰に押し付けるように左手に抱えて、踵を返してこちらに戻ってきた。


 雪弥は、戻ってきた兄の腕へと目を向けて、父も長いこと触っていなかったらしい、その埃まみれの大型本を眺めた。


「近くで見ると、更に歴史を感じるなあ……コレ、博物館物ですね」

「だろうな。世界で一冊しかない本だ」


 その時、不意に、松明の炎がわずかに違う揺れ方をした。


 それを察知した瞬間、雪弥は反射的に、蒼慶を庇うようにして前に立っていた。自分達が入ってきた出入り口の方を、開いた瞳孔で警戒したように見据える。


 普段の性格からは想像出来ないほど、ピンと張りつめた緊張を弟から察して、蒼慶が「どうした」と怪訝に問いかけた。数秒遅れて反応した宵月が、主人を守るように雪弥の後ろで体勢を整えながら「侵入者です」と、代わりに答えた。


「すごいですな。僅かな殺気を瞬時に察知するだけでなく、雪弥様は的確にその場所すらお当てになられた。お見事なものです」


 自分よりも遥かに早く反応した雪弥の後ろ姿を見つめ、宵月が呟いた。それを聞きながら、蒼慶は扉の方へと視線を向けたところで「――やはり来たか」と口の中に言葉を落とした。


 出入り口から現れたのは、一つの人影だった。その人物が地下空間に足を踏み込みながら、その手に持っていた銃口をこちらへと向けてくる。


「その本を、渡してもらおう」


 三人に真っ直ぐ銃口を向けてきたその侵入者は、訪問客である桃宮勝昭だった。松明の灯かりに鈍く反射する銃をこちらへと向けたまま、やはり脅し側に回っても尚、その威厳もない気弱な表情が浮かぶ顔を、どこか悲痛に歪める。


 どうしてあなたが、と雪弥は思った。これまで多くの『敵対者』を見てきたが、ここまで悪役に向いていない人間と対峙するのは、初めての事だった。


 雪弥が見る限り、桃宮はこれから行う事への行為を思って、躊躇する心を隠し切れない様子だった。こちらを見据える目と指先からは、強い迷いを感じる。その銃口も、僅かに震えているのが、雪弥の目では視認出来てもいた。


「やはり、あなただったか。桃宮前当主」


 どこか諦めに似た眼差しを向けて、蒼慶が想定範囲内だとでも言うような冷静さで口を開いた。桃宮が急くように歩き出しながら「仕方がないんだ」と言い、こちらから数メートルの距離に近づいたところで、足を止める。


「殺すつもりはないんだ。わたしは……私は、その本さえ手に入れば、それでいいんだよ」


 そう告げる声は、心の底から恐れをなして震えていた。こちらに向けられている桃宮の銃口も、さらにガチガチと音を立てて震えが強くなる。彼は可哀そうなほど震えながら、蒼慶を見つめて今にも泣き出しそうな顔をくしゃりと歪めた。



「――雪弥。まだ動くな」



 背中に二人を置いたまま、いつでも反撃できるよう冷静に桃宮の様子を窺っていた雪弥は、後ろから蒼慶に小さな声で指示されて、ふと我に返ったように殺気を解いた。

 そんな命令を出されるとは思っていなかったから、つい「へ」と口の中に言葉を落として、兄を肩越しにチラリと見てしまう。


 蒼慶はこちらへ視線を返さないまま、それに気付かず更に数歩前へと足を進め始めた桃宮に、続けてこう問い掛けていた。


「桃宮前当主。これは一体『誰(なにもの)』の差し金だ?」


 投げかけられた言葉を聞いた途端、桃宮の足がピタリと止まった。彼は武器を構えている立場でありながら、まるで審判を下す者を前にしたかのような表情で蒼慶を見つめ返すと、恐怖に顔を歪めてガチガチと歯から音を立てた。


 その様子をじっと見据えながら、蒼慶が続けて訊いた。


「あなたは、こんな事をする人間ではないはずだ。それとも、誰かに唆(そそのか)されたか?」

「ち、違うッ。私には家族がいるんだ! 守るべきッ、家族が!」


 桃宮が唐突に喚いて、銃を両手で構えた。力が込められた手によって震えが抑えられ、向けられている照準が定まったのを見た雪弥が、咄嗟に身構えると、彼が肩をビクリとさせて「動くな!」と叫んできた。


 そのような脅しが効くはずがない。『発砲される前に首を落とす』自信はあったし、たとえ先に発砲されたとしても、兄とその執事に当たる前に『爪で斬ればいい』のだから。

 これといって警戒心も動かされなかった雪弥は、そもそも何故、自分がその指示に従わなければならないのだろう、とぼんやりと思ってしまった。よく分からないが、『不快である』『貴様にそのような権限はないはずだが』という、冷やかな感想が胸に浮かんだ。


 指示を仰ぐようにして、蒼慶にチラリと目を向けた。視線を返してきた彼の目に『まだ待て』という意思を見て取ると、込み上げる口調のまま「承知した」と答えてから、桃宮へと視線を戻した。たったそれだけで、不思議と少し落ち着いた。

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