軋む青(6)
その時、雪弥は兄と同じテーブル席にいた、桃宮勝昭の様子が少し変である事に気付いた。彼はどうしてか、死人のような蒼白顔を俯かせている。膝の間で組んだ手を見つめているその額には、汗が玉となってこめかみを伝っていた。
「そ、その話を、どこで」
俯いたまま、桃宮がしどろもどろに口の中でぼやいた。
まるで独り言のような口調だったが、その声を拾った蒼慶が、チラリと桃宮へと視線を戻した。兄が冷静な表情の下で、何かしら反応を探る気配を察知した雪弥は、緋菜達へと顔の向きを戻しつつも、さりげなくその様子を窺って耳を澄ませた。
「幼かった頃、妹に童話を聞かせてやった。あなたもご存知の通り、ウチの当主は読書家でもあり創作もする。同じようなものだ――ただの子供の『童話』だよ、桃宮前当主」
「ただの、童話……」
まるで確認させるかのように、蒼慶が言う。薄らと笑みを浮かべる様子は、悠然と足を組み直す仕草も相まって、より美貌を引き立てていた。
桃宮は目を合わせないまま「そう、ですよね。『ただの童話』……」と、まるで自分に言い聞かせるように、けれどどこか疑うかのようなニュアンスで呟いた。それから、まだ話し続けている緋菜達の方へ、そろりと目を向ける。
雪弥は、その視線に気づかない振りをした。ちょうど怖くない方の童話を教え終わった緋菜に、アリスが感想するように口を開いた。
「桜の木は、家を守るために植えられたもので、女の子は夜だけその精霊さんになるのね……夜は祈りを捧げるから、一人なのかしら? 誰もそばにいないのは少し寂しいけれど、でも、太陽の下では植物にも愛されるのは、素敵ね」
「そうねぇ。小さな植物に言葉を掛けて、蝶や鳥とも話が出来る女の子のお話だったから、私も初めて聞いた時は、素敵だなぁと思ったの。夜になると、女の子の人格の方は眠ってしまうらしいのだけれど、いつも太陽の下の夢を見ているのだとか」
「じゃあ、寂しくはないのね。それなら、良かった。だって『夜は眠っていれば怖くない』ものね」
アリスはそう言って、幼い笑顔を見せた。緋菜も笑みを返しながら、別の話題を切り出し始める。
背中から桃宮の視線が離れたのを感じつつ、雪弥は、そんな二人をぼんやりと眺めていた。馴染みの薄い穏やかな空気のせいか、どうしてか母と過ごした日々が脳裏を過ぎった。
――命は儚いから、より愛おしく思えるのね。私は、大切な人達と一緒に歳を取りたいわ。きっと、その人の皺だって愛おしくなる。
母の紗奈恵は、いつも幼い雪弥を抱きしめ、「これが『生きている』事なのよ」「温かいでしょう?」と教えた。よく「愛しい私の子」と言って、眠る前は額に口付けた。微笑んだ顔には優しさが溢れ、それは病床についても変わらなかった。
どうか優しさを忘れない子でありなさい。儚い命の愛おしさを、私を通してきっと理解出来るはずだから。そう繰り返し言われ、それを何度も約束して、母を看取った。
理解はしているつもりだった。それでも雪弥は、母が語る全てに共感してやる事は出来ないままでいた。花が散り、蝶が死ぬ事に対する実感の欠落。鳥の羽根を自らもぎ取り、野草を自身の足で踏み潰すさまを容易に想像してしまう。
それでも、命は大事なんだ。無駄に散らせてしまってはいけない。それは、とても大切な事だから。
雪弥は、昔から何度も、自分の中で繰り返してきた言葉を思い浮かべた。母が何度も言い聞かせてきて、すっかり覚えてしまうまで唇に刻みさせたその言葉を、胸の内側でもう一度唱える。
知っているよ。だから大丈夫だ。
僕は、『命が大事であることを、知っている』。
「ねぇお兄様」
ふと声を掛けられて、雪弥は思案をやめると、緋菜へと目を向けて「何?」と訊き返した。
「お兄様、大丈夫? ここまで長旅だったみたいだし、もしかして少し疲れちゃった?」
「大丈夫だよ、ありがとう。少し考え事をしていただけなんだ」
その時、アリスが思い出した様子でこう言った。
「そういえば私も、物語の女の子ように、ぱったりと眠ってしまう事があるの。日中もよくうとうとしてしまって、よく眠ってばかりいるから自分の記憶も時々変な感じがするのも多くて。成長期だからよと言われたのだけれど、緋菜様もあった?」
「う~ん、私は食べた後にうとうとしちゃうかも。寝起きだと、今なん時だっけってなる事もあるし……。そうそう、気付いたら午後も遅かった時とか、すごくびっくりしちゃうわよね。お兄様もそう?」
「へ? ああ、なんだか分かる気もするような、しないような……?」
突然同意を求められた雪弥は、自分の睡眠についてチラリと思い返した。窓が一つもない特殊機関の研究室や、特に総本部の地下の階で仮眠を取ってしまうと、時計を持っていても時間の間隔が分からなくなる事が多い。
睡眠を取らずとも戦闘を続けられる身体だけれど、暇があると「他にやる事もないし」と、長時間睡眠を取って時間の間隔が分からなくなる事もあった。自室で身体を休める時には、数日平気で眠り続ける事もたびたびあり、部屋まで迎えに来たナンバー1に「今日は何日ですか」と尋ねて大笑いされたりする。
そんなに眠って平気なのか、と一桁ナンバーの誰かに驚かれた事もあるが、これまで身体に異常や問題があった事はない。数日間が過ぎてしまった、という時間経過の実感があまり湧かないせいで、週末はどこにいったのかな、と変な感じがしたりはするけれど。
「私、夜が来るのが怖い」
そう考えていたら、アリスがぽつりと口にする声が聞こえた。
「恐ろしいモノが真っ暗闇にあるのを想像して、とても恐ろしくなるの……。緋菜様が話してくれた物語の女の子が、羨ましい。だって私が見るのは、いつも怖くて冷たい、夜の夢ばかりだもの」
緋菜が「そうなの?」と不思議そうに彼女を見る。きっと怖い夢が多いのだろう、と解釈した様子で「じゃあ怖い夢を見ないおまじない、教えてあげるね」と、元気付けるように話し始めた。
雪弥は、何故かアリスの最後の言葉が、頭の片隅に引っ掛かった。けれど根拠らしい理由は何も浮かばなかったから、きっと気のせいなのだろう。
そう考えたところで、先程兄に『行け』と言われている身である事を思い出した。やはり話題を繋ぐのは苦手だとも感じたので、この辺で抜けても大丈夫だろうか、と妹達の様子を窺う。
「すまないが、少し席を外す」
しばし、険しい表情で雪弥達の方を見つめていた蒼慶が、思案顔でそう告げて立ち上がった。桃宮がハッと顔を上げて、同じようにして席を立つ。
「その……、それでは私は、娘のアリスの様子を見てきますね」
しかし、そう答えた桃宮を、蒼慶は振り返る事もなく屋敷へと向かっていった。
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