軋む青(5)
亜希子達が去ってすぐ、蒼慶がこう命令する声が聞こえた。
「行け」
庭園の向こうへと歩き進み、小さくなっていく亜希子達を見送っていた雪弥は、ちょっと怪訝そうに兄を見やった。他にも異変が起こっていないか、屋敷外の様子を改めて見てきても構わない、という事らしいと察しつつも尋ね返す。
「今ですか?」
「なんだ、私の指示に従えないのか?」
確認してみただけなのに、横目に高圧的な視線を寄越されてしまった。向かいの椅子から、桃宮勝昭が不思議そうにこちらを見ている。
このまま居座っていたとしても、桃宮と蒼慶の話しにスムーズに参加出来るわけでもないし、たとえ話を振られたとしても、碌(ろく)な相槌すら打てないのも事実だ。その辺を歩いている方が気も楽である事を考えて、「分かりました」と腰を上げた。
雪弥が歩き出した時、亜希子達と入れ替わるようにして、緋菜とアリスが奥の方からこちらに向かって歩いてきた。ブロンドのアリスとは対照的な、漆黒の艶やかな髪を背中に流した彼女が、「あ」という口の形を作って大きな目を丸くする。
「どうしたの、お兄様? どこかへ行くの?」
「改築された庭園を見がてら、ちょっとその辺を歩いてこようかと思って」
雪弥は、この場で違和感のない台詞を口にした。
チラリと目を向けてみたら、アリスがポッと頬を染めて「こんにちは」と言うと、恥ずかしそうに妹の腕にさっと隠れてしまった。二回目に顔を合わせた際の、精霊さんだとかなんとか言われた衝撃を思い出して、思わず沈黙してしまう。
「アリスちゃんに、花の名前を教えていたの」
言葉を掛けるタイミングを失っていると、緋菜が気を利かせて先に話しを切り出した。
雪弥は「そうなんだ」と苦笑を浮かべつつ、再びアリスへ目を向けた。落ち着きなく恥じらっている様子は、華奢な見た目やレースのついた可愛らしい衣装のせいでもあるのか、十三歳にしては心身共に幼い印象が強い。
思わずじっと目に留めていたら、緋菜が「お兄様、見過ぎよ」と注意してきた。
「余計に緊張させちゃうじゃない」
「え。ああ、ごめん」
条件反射のように謝ってしまったものの、なんで緊張しているのだろうか、と雪弥は疑問だった。ちょっと尋ね返そうとしたのだが、何かしら憶測したらしい緋菜が、口を開く方が早かった。
「アリスちゃんが美少女だから、見ちゃうのは分かるわよ。まるでお人形さんみたいで、昔よりも綺麗になっていたから、私もびっくりしちゃったのよねぇ」
「は? あの、それ違――」
「ほんと、アリスちゃん綺麗になったわよね。まるで絵本の中から出てきた精霊みたいだったから、蒼慶お兄様から聞いた童話を思い出しちゃったのよ」
こちらの訂正の言葉にも気付かず、緋菜がアリスへと目を向けながらそう続けた。彼女が興味を覚えた様子で、腕にぎゅっとしがみついた状態で視線を返す。
「どんなお話なの?」
「というか緋菜、兄さんから聞いた童話って、何?」
まさかあの当時、兄は歳の離れた妹に、読み聞かせまで行っていたのだろうか。既に難しい本ばかりを読んでいたのをよく覚えているから、あの蒼慶も絵本などを開いていた頃があったらしいと想像して、雪弥は意外に思ってそう尋ねた。
二人から質問をされた緋菜が、少し得意げに胸を張る。
「幼い頃、よく蒼慶お兄様に絵本を読んでもらったり、聞かされた不思議な童話が沢山あったのだけれど、それは桜の精霊のお話なの。一族の中にたった一人だけ、金髪で生まれた綺麗な女の子がいて、十二の歳を迎えた時に桜の精霊と半分同化した、みたいな――まぁ、ようするに歳を取らなくなる女の子の、お伽噺なのよ」
そう思い出すように口にしていた緋菜が、ふと顔を顰めた。「そうだ、ちょっと聞いてよ雪弥お兄様」と、ずいっと顔を寄せて、こちらの顔を覗きこむようにして見上げて言う。
「蒼慶お兄様ったら、私を怖がらせようとして、その童話を怖くアレンジしたみたいなの。隙あらば何度も、怖いうたい文句を繰り返すんだから! もうすっかり耳にこびりついちゃったわ。『夜、彼女は桜の香りに時を止め、人としての生を失う。だから植物は、陽の下で人である彼女を愛し、夜の彼女を恐れた』」
怖い余韻を思い出したのか、語り口調を真似るよう言った緋菜が、非難するように雪弥を見て「雪弥お兄様」と、むっつりとした表情で続けた。
「私、たった一人で聞かされたんだからね。一緒に暮らしていたら、きっと怖い思いも半分で済んだと思うのだけれどッ」
「そんなこと言われてもなあ……」
そもそも、たまに泊っていたタイミングでそれがあったとしても、一緒に寝てやるわけにもいかないとは思うけれど……と、雪弥は当時の環境を思い返した。
幼かったとはいえ、令嬢である緋菜が異性と長らく二人きりにならないよう、当時の使用人達も目を光らせていた覚えがある。彼女のベッドは確かに大きかったけれど、だから恐らく兄と自分が、一緒に就寝してやるのは無理だと思うのだ。
すると、アリスが不安な眼差しを向けて、緋菜のスカートの裾を掴んだ。
「なんだか、怖いわ……」
「あ。これは蒼慶お兄様の作り話だから、気にしないで」
つい、うっかり彼女の存在が頭から抜けた緋菜が、慌てて言葉を付け足した。こんな事があったのだ、という愚痴を、久々に会えた二番目の兄に伝えたかっただけなのである。
「その、ちょっと思い出しちゃっただけで、怖がらせるつもりはなかったのよ。なんというか蒼慶お兄様は、普通の童話を怖いバージョンのセットで話すところがあったというか……。変なところで『よく怖がらせたがる』ところがあったのかも」
そう続けた彼女が、再びアリスに詫びて、今度は怖くない方の童話の内容を話し始めた。
その声を聞きながら、雪弥は呆れ返った視線を蒼慶の方へと向けていた。数メートル離れたテーブル席にいるというのに、こちらの話をちゃっかり聞いていたのか、兄の顔には『心外だ』と言わんばかりの顰め面が浮かんでいる。
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