蒼緋蔵邸の三人(4)

 幼い頃と全く同じ台詞を聞いた雪弥は、間髪入れず突っ込んだ。呑気な表情でぶらさがっている『白豆』を今一度見ると、飼い主としてペットが嫌な視線に晒されるのを防ぐべく、携帯電話をスーツの内側へとしまい直した。


 その時、階上の大扉が開閉する音が上がって、雪弥と宵月は肩越しにそちらへ目を向けた。

 楽しげな声が近づいてきたかと思ったら、廊下を客室の方へ向かい出した桃宮夫婦の姿が見えた。こちらに気付いた紗江子が、少し驚いたように目を丸くする。


「まぁ、そんなところでお座りになられて、一体どうされましたの?」

「その、えぇと特に理由はないのですが――」

「こうして雪弥様と二人で、親睦を深めていた最中だったのです」

「嘘をつくな、親睦どころか警戒心と溝が深まったわ」


 雪弥は、間髪入れず言い返した。そろそろ兄も出てくるだろうと思って、立ち上がった宵月に続いて階段を上がったところで、額の汗を拭っている桃宮と目が合った。


 ぎこちなく愛想笑いを浮かべられ、疲れているのかなと思いながら小さく会釈を返す。すると、彼の隣にいた桃宮婦人である紗江子が、声を掛けてきた。


「雪弥様、覚えていらっしゃいますか? 紗江子と申します。二度ほど、こちらでお会いした事があるのですよ」

「すみません……あの、実は覚えていなくて、ですね……」

「そうですわよね。あなた様はお小さかったですし、お会いした時は、紗奈恵様の後ろに隠れておいででしたわ」


 一瞬、自分の耳を疑った。


 まさか、母と一緒にいる時に会っていたらしいとは思わなかった。遠目から見掛けただけでなく、実際に言葉まで交わした事もあるのだろうかと、意外な事実に目を丸くする。


「母さんを知っているんですか?」

「ご挨拶程度ですけれど、こちらでお会いしました。とてもお綺麗な、心優しい女性でしたわね」


 そう答えた紗江子の優しげな瞳が、少し悲しげに細められた。今は亡き人であるのを知っているのか、控えめに微笑んだだけで、それ以上の言葉を続けてくる様子はない。


 一緒にいるだけで、温かさが移ってくるような不思議な穏やかさを感じた。老いの線が刻まれたふっくらとした顔、上品な眼差しと慈愛が覗く微笑。まるで見つめている相手すべてに、『愛おしい』と語りかけてくるような目だ。


 姿形に類似点があるわけでもないのに、どうしてか母の事が思い出されて、雪弥はひどく懐かしい気がして目を細めた。こんな風に誰かに見つめられたのは、十数年ぶりだと気付いて何故だか切なくなる。


「母をそんな風に言ってくれて、ありがとうございます」


 宵月がそばに控えている中、しばらく間を置いてぎこちなく笑った。すると、紗江子が愛おしむように微笑み返してきた。


「またこうしてお会いできて、本当に嬉しいですわ」


 不思議だ。見れば見るほど、なんだか、どことなく母と似てくる気がする。


 もし母の紗奈恵がまだ生きていたら、こんな風に歳を取っていたのだろうか。そう想像した雪弥は、彼女に母の声まで重ねようとした自分に気付いて、小さく苦笑した。久しぶりに強く懐かしさを思い出して、胸が痛かった。


「僕もですよ」


 どうにか、そう答えた。紗江子が夫の腕を取って「それでは、失礼しますわね」と、共に別れの挨拶をして、二階の廊下を客室の方へ向けて進んでいった。


 その後ろ姿を、雪弥は知らず目で追ってしまっていた。今まで母の面影を探した事はなかったのに、当時の事が蘇って胸が冷たく沈んだ。


「おい」


 不意に、不機嫌な声が聞こえて我に返った。数秒遅れで振り返ってみると、いつの間に出てきたのか、そこには仏頂面をした兄の蒼慶が立っていた。


「何やら、外が騒がしかったようだが」


 しばしこちらを見ていた蒼慶が、ふいと視線をそらして宵月に尋ねる。


「桃宮様とのお話しは、もうよろしいのですか?」

「もう済んだ。長びく報告でなければ、すぐに話せ」


 彼がそう言ってから、偉そうな態度で腕を組んだ。なんがた少し機嫌が悪そうだった。

 口を開いたら余計に怒らせてしまいそうな気もして、雪弥は説明を宵月に任せると、階段の中腹まで降りて再び段差に腰かけた。報告の合間に、チクチクと嫌味を言われてはたまらないし、すぐに終わる話も終わらないだろう。


 階段の上で、蒼慶と宵月の小さな声を聞きながら、身体を休めるように姿勢を楽にして、まだ明かりの灯っていないシャンデリアを見上げた。


 思えば、こうやって蒼緋蔵家の中でゆっくり寛いで座っているなんて、変な感じだった。数日前の仕事の最中、第三者として蒼慶や父と電話で話していたのが、随分前の事のように思えてくる。


「…………僕がここにいるなんて、違和感しかないなぁ」


 つい、ぼんやり口の中で呟いた。


 まるで戦乱時代の名残のように、高い塀に囲まれた蒼緋蔵邸の敷地。目の届くところには、滅多に顔を合わせる事もなかった蒼慶や宵月がいて、少し歩けば会える距離に亜希子と緋菜もいて、遅くには父も帰って来る『家』に、今、自分はいるのだ。


 なんだか変な感じだなぁ、と思う。父、母、兄、妹が揃う大きな家の中に、こうして自分がいる事に違和感があった。



 雪弥はしばらく、階段の中腹に腰を下ろして待っていた。数分ほどで「おい、貴様も来い」と蒼慶に呼ばれて、仕方なく立ち上がって階段を上がった。

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