蒼緋蔵邸の三人(2)

「真相のほどは、いががですの?」


 ふっくらとした顔に浮かぶ皺を、柔らかに深めて面白そうに尋ねる。


 それについては、先日に一族内で話し合われたばかりで、まだ公表されていない詳細部分だ。亜希子は、申し訳なさそうに肩をすくめた。しかし、彼女が口を開くよりも早く、蒼慶が唐突にこう断言していた。


「うちの会社に呼び戻したのは、婚姻関係の類では一切ない。緋菜には、秘書の『役職』を与える」


 亜希子がガバリと目を向けて、ちょっと言わないはずなんじゃないの、と目で伝えた。動揺する母に対して、蒼慶は冷静な様子でチラリと横目を返しただけだった。

 桃宮夫妻が、驚いたように丸い目を見開いた。


「まぁっ。蒼慶様、それは本当ですの?」

「緋菜であれば、その『役職』が務まると蒼緋蔵家の多くが推薦し、権限を持つ者が集った場にて、全員の賛成一致で受理された。当主と私で、本人の意思も確認してある――アメリカに渡る前の朗報だ、今は他言無用で頼む」


 ふっと不敵に笑んだ蒼慶が、やや柔らかい声色で言ってティーカップを手に取った。

 桃宮夫妻は、しばらくお互いを見つめ合っていたが、それぞれが微笑をたたえた。桃宮家が今年で代替わりしたように、近い将来は蒼緋蔵家の当主となる彼へと向き直る。


「それは、おめでたい事ですわ。数代振りの、女性の『役職』ですわね。本当におめでとうございます」

「アメリカに旅立つ前に、良い事を聞きました。感謝致します」


 昔から交流があった緋菜の朗報である。我が子のように喜ぶ婦人に対して、けれど桃宮はぎこちなく笑っていた。


 亜希子は、自分の息子を探るように見つめた。紅茶を口に付けようとしていた蒼慶が、「前もって祝いに来てくれた礼だ」と言うのを聞いて、やや納得したように肩から力を抜いた。


「なんだ、珍しい事するじゃないの。大人になって、その変はちょっと丸くなったのかしらね?」


 おい化けの皮が剥がれそうだぞ、と、言いかけた蒼慶の言葉は続かなかった。ティーカップを持った彼は無表情で、テーブルの下でその足を踏んだ亜希子は作り笑いを張りつかせた状態で、互いに似た絶対零度の眼差しで見つめ合う。


(おい。普段は『あんた』と呼んでハッキリ言ってくる癖に、それが出来ない場所でストレスを発散するみたいに、こうして足で地味に訴える手段に出るところ、どうにかならないのか?)

(足じゃないとダメージないじゃないの。それに、あんたが空気読まないからでしょ)


 睨み合ってこっそり言う。


 フォークを手に取った紗江子が、またしてもハンカチでこめかみを拭う夫に、優しくケーキを勧めた。それから、視線を移動させてこう尋ねた。


「蒼慶様、他の『役職』はどうでしょう? 結構難しいのではありませんか?」

「難しいところではあるが、蒼緋蔵家は皆協力的なので、順調に進んでくれている」

「頼もしい限りですわね。皆、あなた様だからこそ、ついてこられるのでしょう」


 微笑んだ紗江子を見やった蒼慶の瞳が、少し悲しげに細められた。珍しい息子の様子に気付いて、足を離した亜希子が首を傾げるそばで、当の彼女が「何か?」と尋ね、彼は「特に何も」と短く言葉を切って足を組み変えていた。



 新しく立ち上げる予定の事業について、桃宮が蒼慶に意見を聞き始めた。小難しい長々としたやりとりを見たアリスが、つまらなそうにして考えた後、金魚を見せようと思い立って緋菜を引っ張って部屋を出て行った。



 亜希子はその場に残って、紗江子と女性同士の会話を楽しんでいた。


 桃宮家の前当主だった桃宮勝昭は、蒼緋蔵家の分家出身である。昔は時々、家族を連れて泊まっていく事もあったが、家族付き合いというよりは一族同士の社交のようなもので、大抵は夫がメインとなって相手をしていたから、亜希子は彼の子供達や紗江子の事も、ぼんやりとしか覚えていなかった。


 だから、このように個人的に話す時間を、長く過ごした事はなかった。しかし不思議なもので、紗江子と話していると、時間も忘れてしまうほど楽しかった。


 亜希子は、何故もっと前から、親しい友人として付き合わなかったのだろう、と懐かしい穏やかな気持ちに包まれていた。これまで長く離れていた親友のようにも思える彼女の声や仕草に五感が奪われて、桃宮と息子の方の会話に注意をはらえない。


 なんだか自分がおかしい。頭の中がふわふわとしてきて、時間の経過が分からなくなってきた。プライベートの深い話なんてした事もないはずなのに、好きだわ、という気持ち一色に染まって、何も考えられなくなりそうになった。


 蒼緋蔵家の当主の妻として、普段の強気な自分はこんなんじゃないわ!


 そんな自分の心の声がしたような気がして、亜希子はハッとした。何もかも話してしまいたいような危うさから立ち直った時、不意にある古い思い出が蘇った。その人物が、目の前に座る彼女の姿に重なる事に気付いた。


 驚いた。この人、誰かに似ていると思ったら、紗奈恵に似ているんだわ。


 紗奈恵は、雪弥の母だった女性だ。穏やかに笑う瞳は、時々悪戯っ子の少女のような輝き見せ、それでいて指先まで優雅で優しい子だった。


「亜希子さん、どうかなさったの?」


 不思議そうに問い掛けられて、亜希子は慌てて「ううん、なんでもないのよ」と、うっかり素の口調で謝っていた。けれど紗江子は気にしないでいてくれて、再び話し始めた。手振りを交える少しの仕草も、やはり亜希子に懐かしさを感じさせた。


 愛しい妹同然だった彼女を思い起こして、まじまじと見つめてしまう。そんなはずはないのに、まるで年を取った紗奈恵が生きてそこにいるような印象さえ受けて、そんな自分が不思議になった。


 そもそも桃宮紗江子という女性は、元からこのような雰囲気だっただろうか。そんな違和感が頭の片隅に過ぎったものの、話していると気のせいにも思えた。

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