蒼緋蔵邸の訪問者(9)

 綱をゆるめた自分のせいだとする第一発見者の若い男が、肩を震わせて泣き出した。同じ年頃の仲間に気遣われて連れられながらも、彼はずっと仔馬の事を嘆いていた。自分がここに務めて初めて、出産に立ちあった馬だったのに、と。


 雪弥は膝を折り、死骸の様子を一つ一つチェックしていた。気になる部位に触れながら、その死骸の上を滑る静かな瞳が、その瞳孔にゆらゆらと淡いブルーの線を描いて殺気を浮かび上がらせる。その耳は、離れていく馬の足音を聞いていた。


 不意に、彼の口元に嘲笑うような笑みが浮かんだ。


「宵月、この仔馬は『殺されて』いる。そんなに時間は経っていない」


 形のいい雪弥の唇から、低く問い掛ける声が上がった。辺りに響いていた鳥の声が遠のき、風がピタリとやんで、草葉の囁きも異様なほどひっそりとする。


 普段と打って変わった堅苦しい口調だ。肌をチリチリと刺す緊張感が、一瞬にして場を支配していた。けれど宵月は、眉一つ動かさずに振り返ると、彼の華奢な背中を見下ろして答える。


「はい、わたくしもそう推測しております。体液は蒸発させられたのでしょうか?」

「恐らくは違うだろう、と。もしかしたら『原始的に吸い取られて』いるのかもしれない」


 雪弥は、思案の言葉をこぼしながら、知らず嘲笑とも嫌悪ともとれない様子で目を細めていた。その瞳孔の周りを、不思議な色合いの光が鈍く揺れ動く中、観察もしまいだと伝えるようにして立ち上がる。


 邪魔者がいるのなら、排除しなければならない。

 よくも堂々と、蒼緋蔵家の土地を踏み荒らしてくれたな。



 殺シテくれる。こノ牙デ噛み砕き、爪でヒき裂くのダ。


 当主とソノ一族を、脅かシテなるモノカ。我ガ手の届くウチデ、勝手な真似ナドさせはせぬ。



 殺せ殺せ全て殺しテシマエ「兄を守らなければ」殺シテクレルこの怨み忘れハセヌ「私は兄のための右腕だった」殺セ殺セ殺セ「きっと守るよ」喰ッテヤル殺せ殺せ嗚呼殺シタイ「ごめん副当主として、もっと役に立ちたかったのに」「私は【番犬】としては不完全だ、『緋サラギ様』の番犬みたいに非道にはなれない」殺サセロ「あの大きな犬は、どんな想いで死んでいったのだろうか」モット殺シタイ「兄さん、ここでさよならだ」殺す殺す殺す殺殺殺……


『全軍前へ。もし私(ふくとうしゅ)が死んでも、構わず戦い続けろ。決して奴らを、当主(あに)のいるところまで踏み込ませるな』



 

 不意に、雪弥は我に返った。


 一瞬、意識が途切れていた気がする。頭の中で忙しなく『何か』を考えて思い出していたようにも感じたが、何も覚えていなくて、きっと気のせいだろうと思った。

 こんなところでぼんやりとするなんて、集中力が少し足りなくなっているらしい。エージェントとして、ようやく出来た休日で気がゆるんでいるせいなのか。


 そういえば、アメリカの特殊機関に勤めていた時、このような死体を見るのも珍しくはなかったな。


 雪弥は、ふっと思い出して記憶を手繰り寄せた。あれは時間が経ったものだったが、数時間で、身体中の水分を人為的に蒸発させられた人間の死体だった。もしかしたら共通点はないだろうかと思って、目の前の仔馬のソレと比べてみる。


「……これは違う気がするなぁ。なんというか、うーん」


 独り言のように、雪弥は思案をこぼす。その声色は、穏やかさを取り戻して高くなっていた。

 先程と違うのんびりとした表情が、微塵の緊張感もなく足元に転がる死骸に向けられている。宵月は、また吹き始めた柔らかい風が、日差しに透き通る彼の蒼とも灰色とつかない髪を、小さく揺らす様子を静かに見守っていた。


「なんだか、養分を吸い取られたみたいだ」


 雪弥は、自分が抱いた印象を口にした。次へと考えを進めようとしたところで、不自然に小さく盛り上がった土がある事に気付いて、膝を折ってそちらを覗きこんだ。後ろから宵月が、同じ箇所を観察するように腰を屈める。


 それは、硬い土で出来た、小さな盛り上がりだった。手でそっと触れてみると、中は空洞だったようでボロリと崩れてしまう。


 まるで、何かが土の中から、飛び出した跡みたいだな……?


 そんな疑問を覚えた時、雪弥は宵月に呼ばれた。視線を返したら、あちらを見るようにと指で促された。

 そこには何かを引きずったような跡があり、桜の根にも複数の傷が入っていた。立ち上がり、その痕跡を全体から注意深く辿ってみると、小振りな何かを引きずったようないびつな線は、仔馬の死骸の下でピタリと途切れていた。


「これ、ちょっと持ち上げて引きずった、みたいな感じの痕跡ですね」

「とはいえ、ざっと目測するに五メートルほどしかありません。スタート地点は中途半端でございますし、推理がし難い状況です」


 引きずられたような跡には、所々乾燥していない小さな血痕も残されていた。雪弥が「ふむ」と訝しむそばで、再び宵月が膝を折って仔馬の様子を確認する。


「首の骨が折れていますね」

「だから僕は言ったじゃないですか、殺されているって」


 仔馬の首には、見落としてしまいそうな薄い締め跡が残っている事を、雪弥は先程確認していた。触れてみると骨や組織は壊れており、かなりの力で食い込んだのが分かる。


 不意に、ざわり、と雪弥の中の得体の知れない何かが揺らめいた。するべき事を、と血に流れる遠い記憶の彼方から問いかけるような、理解しがたい感情の波が胸の片隅で蠢いた気がして、不思議に思って自分の胸元に触れる。


「蒼慶様のもとへ戻りましょう」


 立ち上がった宵月が、そう告げた。

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