蒼緋蔵邸の訪問者(8)

 雪弥は、真っ直ぐに声の方向を捉えて、目と耳を鋭く研ぎ澄ませた。何事かと使用人達が辺りを見回す中、宵月も彼と同じ方向へと視線を投げていた。


「だいぶ奥のようですね」

「桜木の方からだ」


 開いた雪弥の瞳孔が、常人を超えた視力でもって、芝生地帯の奥に並ぶ青々と茂った桜の木を視認した。そこには腰を抜かせた男がいて、横たわる一頭の仔馬らしき肢体も確認出来た。


「――あそこに、男が一人。仔馬もいる」


 雪弥は、淡い光の輪郭を描く小さな瞳孔を、そちらへ固定したまま言った。


 それを聞いた作業服の男達が、勢いよく彼を振り返った。しかし、宵月が質問を許さないまま冷静に指示を出して、彼らが慌てて馬小屋に繋がれていた美しい毛並みをした各馬に飛び乗る。


「雪弥様、案内して頂けますか?」

「はい。それじゃあ付いてきてください」


 雪弥は視界の集中を解くと、一つ頷いてから走り出した。


 駆ける馬よりも速く、宵月と共に緑地帯を駆け抜けた。あっという間に長距離を移動し、計画的に植えられている木々の間に突入する。そこは、春の季節になると花見のためにライトアップされる『桜園』だった。


 均等間隔に並ぶ立派な桜木を避けて根を飛び越え、目的の場所に辿りついたところで、二人はほぼ同時に足を止めた。そこには異臭が漂っており、鋭い嗅覚を持った雪弥は、ある意味嗅ぎ慣れてもいるそれを察知して顔を顰めた。


 若い使用人が、ハッとしたように振り返った。遅れて到着した使用人仲間達が、馬を降り始めるのにも目を向けず、半ば足をもつれさせながら立ち上がると宵月に助けを求めた。


「よ、宵月様ッ、馬が……!」


 けれど混乱しているためか、言葉は上手く続かない。


 既に、仔馬は死骸の状態であるとは見えている。宵月が「おどきなさい」と厳しい口調で告げて、男の脇を大股で通り過ぎた。現場の光景を改めて目に留めた高齢の男と、駆け付けた馬の世話掛かりの仲間達の間に緊張が走った。


 そこにあったのは、すっかり血肉の感じられなくなった仔馬の死骸だった。苦しそうに開かれた口、身をよじるように伸ばされた四肢。水分がなくなった黒い皮が、骨に吸いつくように張りついている。


 その硬く黒ずんだようにも見える仔馬の死骸は、もう随分長いこと放置されたような印象さえあった。それを宵月が厳しい表情で見下ろす中、第一発見者となった若い男がうろたえてこう言った。


「あ、ありえない。だってこんな……朝まで元気だったのにッ」


 集った他の男達も、強張った顔で変わり果てた仔馬を見つめていた。誰もが発する言葉が見付からない様子でいた、その時――



「水分がない。血の一滴も残っていないみたいだ」



 雪弥が冷静にそう呟いた。膝を折った宵月の後ろから、例の仔馬の死骸を覗き込むその表情には、ショックの一つさえも見られないでいる。異臭の発生源が分かって、仔馬が死んだのか、と一旦頭の整理がついてせいでもあった。


 仔馬は水気のない干物のようだった。開いた口の中では舌も干からびて、薄くなった歯茎からは、歯が剥き出しになっている。触れてみると、死骸にはまだ温もりが残っており、見た目の印象を裏切らず皮膚は水分を失って硬くなっている。


 表情一つ変えず観察し、しげしげと死骸にも触れ出した雪弥を、使用人達が息を呑んで見守った。そのそばで宵月が同じように確認し始めた時、一番年長者である男が、我に返ったように「雪弥様ッ」と呼んだ。


「あなた様が、そんな事をなされる必要はないのです。これは私共で――」

「少し静かにしてもらえないかな」


 雪弥は、振り返りもせずぴしゃりと言った。


 透き通るような声とは裏腹に、言葉は高圧的な冷たい響きを持っていた。次々に口を開きかけようとした男達も、揃って黙りこむと『次期当主の弟』である雪弥の若々しい背中を見守る。


「刺し傷のようなものがありますね」


 殺気に似た空気が張り詰める中、宵月が思案げに口にして「ご覧ください」と雪弥を促した。

 そちらに目を向けた彼は、仔馬の干からびた皮膚に、大小様々な穴が数個ある事を確認した。覗きこんでみると、刺し傷はかなり深い。


「刺し位置は、どれもばらばらだな」

「そして、真っ直ぐではないようです」


 思案しながら雪弥が低く呟き、同じように考察した宵月が続く言葉を口にする。どうも手近にあるナイフといった刃物が凶器である可能性は、ないようである。


 二人のやりとりを見ていた使用人の一人が、恐怖するように肩身を狭めて、微かに震えた声でこうこぼした。


「さっきまでは元気に生きていたはずなのに、まるで、死んでずっと経ったあとのような死骸じゃないか……」


 気味の悪さを煽られたのか、男達が小さくざわめいた。それを聞いた宵月が、立ち上がって彼らを振り返ると、話題の矛先をそらすように現実的な事を淡々と尋ねる。


「この子を繋いでいた綱は?」

「えっと、それが……」


 先程、一番に報告をした若い男性使用人が、言葉を濁して気遣うような視線を向ける。そこにいたのは第一発見者である男で、彼は顔を後悔にくしゃりと歪めて答えた。


「こんな事になるなんて、思っていなかったんです。ただ、まだ小さいやつだったから、ほんの少し紐を緩くしてやっただけなんです。まさか、それが逃げ出すきっかけになるだなんて……」

「落ち着け、渡辺」


 高齢の男が、自身の責任だと感じて真っ青になっている若者の台詞を、ぴしゃりと遮った。


「あれくらいの仔馬だったら、わしらだってやっとる。でも状況からして、たったそれだけで綱がキレイに外れるとは思えない。噛んだような跡もなかっただろう」


 そこで彼が、不安そうに、宵月へ指示を仰ぐ眼差しを向けた。


「それに宵月様、小屋から脱走というのも珍しいですが、ウチの馬が敷地内で襲われた事は今までありませんでした。森の獣は、高い塀に阻まれて入って来られませんし、大型の野鳥だとしても、この死に方は――」

「一つの原因で、こうなったと考えるから不気味に見えるのでしょう。いいですか、当時の状況や環境によっても死骸の様子に変化は出ます。死後にこうなった可能性もありますから、死因については、こちらで調べておきます。仔馬の事は残念ですが、あまり自分たちを責めない事です」


 含む眼差しを受けて、高齢の男が「それもそうですね」と、自身より年下の仲間達に戻る事を促した。彼らは納得し難いような表情を浮かべたものの、宵月の説明を少し考えたのか、それもそうだなというように緊張を少し解いて、乗って来た馬に跨って引き返し始める。

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