蒼緋蔵邸の訪問者(7)
妹の緋菜と別れた雪弥は、一階に集っている家族や客人から離れるように階段を上がると、行くあてもなく廊下を歩き出した。昔使っていた部屋へ行くようにして右折したところで、ようやく歩む速度を落として、ふぅっと息を吐く。
あの子、少し苦手なタイプだなぁ……。
綺麗だとか妖精さんだとか、よく分からない。そもそも自分の顔は、美麗な兄や妹と違って平凡なのだけれど、と、そう桃宮家の令嬢アリスを思い返したところで、雪弥は「あ」と声を上げて足を止めた。
去り際の蒼慶が、なんだか言葉数もあっさりとして違和感を覚えていたのだが、大人数での立ち話が始まってから、宵月の姿がなくなっていたのだ。
記憶を辿ってみると、桃宮がアリスを連れて登場した時には、もう存在感はなかった気がする。しばらく立ち尽くしていた雪弥は、もしやと勘繰って、推測を口の中にこぼした。
「……宵月さん、逃げたな……?」
「失礼ですが、わたくしは少し距離を置いて、皆様を見守っていただけです。決して逃げたわけでも、隠れたわけでもございませんので、そこは誤解しませんように」
抑揚のない声と共に、肩にポンッと手を置かれた。
幼い頃に植え付けられた強烈な苦手意識からか、肩越しに無表情な顔が迫ったことを察知した瞬間、雪弥は反射的に後方へ回し蹴りを放っていた。背後にいた宵月が、鞭のように弧を描いたその軌道から、顔色一つ変えず身体を反らして避ける。
雪弥は、彼の姿を目に留めたところで、ふと我に返った。しまった、うっかり本気で蹴り飛ばそうとしていた……と、肝が冷えてすぐに言葉が出て来なかった。
振りきった足をぎこちなく下ろす向かいで、宵月が「やれやれ、恐ろしい方ですね」と、襟元を整え直した。
「わたくしだから良かったものの、当たっていたら打撲だけでは済まないような蹴りでしたよ」
「その、すみません。いきなり宵月さんに背後に立たれたので、本能的な嫌悪感が走り抜けて咄嗟に……」
「申し訳なさそうながらも、この状況でストレートに失礼な本音を述べるとは、さすがでございますね、雪弥様。その辺は、昔とちっともお変わりないようで」
宵月は「まぁいいでしょう」と、位置を確認した蝶ネクタイから指を離すと、淡々と続けた。
「それで、貴方様はシャワーに行かれるのではなかったのですか?」
問われて、雪弥はギクリとした。そもそも、あれは蒼慶に断りを入れるための口実であって、そのような予定はなかったからだ。服もたっぷり濡れたわけではなく、既にほとんど乾いてしまっていて、湿りが残っているくらいだった。
「その、少し乾いたみたいだし……、太陽の下にいたらすぐに乾きそうだよ」
そう答えたら、優秀な執事が「なるほど」と短い相槌を打った。
「それでは、庭園へ降りてみますか?」
「外に行ってもいいんですか?」
驚いて尋ね返すと、宵月が「はい」と言って頷く。
「当時より、更に美しい庭園となっておりますので、散策としては楽しめるかと思います。近くには、増築し改装した乗馬用の場所などもありますよ」
「ああ、確か亜希子さんだけじゃなくて、父さんも兄さんも、乗馬が趣味だったっけ?」
「趣味ではなく、蒼緋蔵家の者は、乗馬技術を持っていなければいけないのです」
各名家を把握している事と同じで、必須教養なものであるらしい。雪弥は、緋菜が乗馬している風景を想像しつつ、「僕は乗った事がないなぁ」と感想をこぼした。
思い返せば、乗馬の経験はなかった。戦車や軍用ヘリコプター、ステルス、組織の改造車や大型バイクくらいなものだ。どれも大量の武器が積め込まれたタイプの物で、攻撃するためにしか乗った事がない。
「……う~ん、馬にマシンガンとかバズーカ砲を乗せてもなぁ」
「可愛らしい顔で、恐ろしい事をおっしゃらないでくださいませ」
雪弥は、そうすれば機会があるかもしれない、と本気で口にしていたのだが、宵月は「冗談はここまでにして、まいりましょう」と言って、道を案内した。
※※※
蒼緋蔵家の本館裏から降りると、東には別館や一族の人間が集う和風の平屋敷、北にいくつかの庭園を構えて、西側に向かうと広大な芝生地帯が広がっている。
本館に一番近い庭園へと向かい、北方向に進み出してしばらくもしないうちに、立派な馬小屋が見えてきた。その前に数人の男性使用人達が集まっているのを見て、その穏やかではない雰囲気に雪弥は眉を寄せた。
その中にいた二十代前半の男が、こちらに気付いて「宵月様」と駆け寄って来た。宵月が後ろにいる雪弥をちらりと見やってから、男へと視線を戻して抑揚なく問う。
「一体何事ですか?」
「それが、紐でつないでいたはずの小さな馬が、どこにも見当たらないのです」
馬の世話係らしき若い男は、急くような口調でそう報告した。集まっていた男達の年齢は、二十代が二人、三十代が三人、六十代が一人いたが、どちらも作業服に身を包んでいる。
報告を受けた宵月が、キリリとした眉をそっと顰める。すると、この中で一番の責任者らしき高齢の男が、黒い顔に刻まれた皺を、弱ったようにくしゃりとした。
「自分から柵を超えたり、戸を開けたりといった器用な事が出来る年齢の馬ではありません。しかし、柵は降りたままだというのに、馬小屋の戸だけが開いてしまっておりました。私達が駆け付けた時には、他の大人の馬達もとても興奮している状態で」
「渡辺(わたべ)たちがいないようですが、探しに向かっているのですか?」
「はい。足に自信のある若い連中を、先に捜索へと向かわせました。お屋敷の高い塀で、敷地内からは出られないでしょう。あの仔馬は遠くまで歩かせた事はないので、まずは近くの方を――」
その時、遠くから短い悲鳴のようなものが上がるのが聞こえて、話し途中だった高齢の男が口を閉じた。
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