蒼緋蔵邸の訪問者(4)

 全身の毛が逆立たった。頭髪までもが鳥肌を立てるのを感じて、戦闘モードに突入させてもいないのに、指先の爪が思考の制止を振り切って今にも飛び出してしまいそうになる。


「雪弥様!」


 更に強く宵月の声がした瞬間、頭の中で、カチリと思考が切り替わった。


 混乱がピタリと止まる。その瞬間、雪弥は何も考えないまま、反射的に足に力を入れると、踏んだ大理石にヒビを入れる瞬発力で跳躍していた。


 数メートル先に着地すると、ゆらりと身体の向きを変えて、開いた大扉の方をロックオンする。前傾姿勢に入ってすぐ、地面を蹴り上げて前に飛び出した。


 後ろから、もう一度「雪弥様!」と制止するような叫びが上がった。宵月が追ってくるのを感じながら、雪弥は標的を探して一直線に行動し続けていた。

 

 何故、自分がこうして駆けているのか、よく分からなかった。まるで殺してもいい相手が向こうにいて、自分を待っているような錯覚に囚われて、理性が押し潰される。


 そう、『敵』だ。殺してもいい奴が、ソコにイるぞ。


 雪弥の開いた瞳孔が、先程の四人の男達を探すわけでもなく、真っ直ぐ玄関を捉えた。黒いカラーコンタクト越しに、殺気立った蒼(あお)い二つの光が浮かび上がる。


 大きな玄関扉が開かれるのが見えた瞬間、反射的にそちらへ突っ込むように地面を蹴っていた。けれどその直後、不意に開いた玄関から入って来たものが目に入った途端、爪が伸びかけた雪弥の手が不意に止まった。



 一人の男が、水槽を両手で抱えて大玄関をまたいでいる。その水槽の中には、数匹の小さな金魚が入っており、向こうの景色が水越しにぼやけて見えた。



 ああ、水だ。


 雪弥は、太陽の光が鈍く差し込む水槽を、ぼんやりと見つめていた。一気に理性が戻ったけれど、空中を突き進んでいるその身体は止まらななくて。


 水槽を抱えたまま、玄関口から数歩足を踏み入れたその男が、突然至近距離に現れた雪弥に気付いて、驚きの声を上げた。そのまま、突っ込んできた彼に押しやられるように、ぶつかった衝撃で水槽と共に扉の外へと投げ出される。


「雪弥様!」

「お父様!」

「あなた!」


 三つの悲鳴が上がった直後、ばしゃんッ、と盛大な水音が上がっていた。


 頭上からかぶった水で一気に頭が冷えて、雪弥はうつ伏せの姿勢で、茫然と顔を上げた。同じように外に転がった男が、地面に尻をついた状態で苦痛に顔を歪めている。その手前には横倒しになった空の水槽があり、側面が少し割れてしまっているのが見えた。


 宵月を含む数人の悲鳴と騒ぎの音を聞いて、使用人達が蒼緋蔵邸の仕事場から次々に飛び出してきた。白い肌に明るい茶色の瞳をした金髪の少女が、「私の金魚ちゃん達が!」と、どこか英語訛りで叫ぶそばに、慌てて女性の使用人達が向かう。

 倒れこんだ男性のそばには、心配そうな表情を浮かべて「どうしましょう」とあたふたする中年女性の姿があった。男はスーツ、女は貴婦人のようなレース入りのスカート衣装だ。そちらへ、男性の使用人達が駆け寄って、素早く対応に取りかかり始めた。


 …………えっと、この三人は一体『どちら様』なのだろうか……?


 雪弥は、見覚えのない親子連れを、呆気に取られて見つめていた。どこからか「大丈夫ですか雪弥様ッ」と、慌てたような若い使用人の声が上がったが、それを宵月の「タオルはわたくしがやっておきます、下がりなさい」という低い指示が遮った。


 その後、ふわふわとした白いタオルを頭からかけられた。雪弥はそれに気付いて、腰を落としてこちらを覗きこむ宵月を見つめ返した。無言で頭髪を優しく拭き始める彼に、騒ぎになってしまった事も含めて「すみません」と謝った。


「えっと、あの」


 続けて説明しようと口を開いたものの、言葉が出て来ない。そもそも、どうしてこんな事になっているのだろう、と直前までの記憶があやふやで疑問に思う。


 すると、一通り頭をタオルで拭った宵月が、こちらの顔にかかった水を拭いにかかりながら、いつも通り淡々とした口調で話しかけてきた。


「大丈夫ですか、雪弥様。派手にぶつかっておられましたが、どこか痛いところは?」

「うん、その、大丈夫」


 こんな事になったにもかかわらず、宵月が無事を確認する他は尋ねず、助け起こしてスーツにも少しかかっている水を拭いていく。


 雪弥は、トラックにぶつかっても平気なくらいには、自分の身体が頑丈な事を思った。相手の男性は随分年上そうだが大丈夫だろうか、と心配になって目を向けたところで、思考する余裕が戻ってきて、ふっと一つの可能性が浮かんだ。


「……もしかして、彼れらが『訪問予定のお客様』……?」


 先程、亜希子達が口にしていた『泊まりのお客様』という、蒼緋蔵家の遠縁の人間の来訪予定が思い出されて、思わず口元が引き攣った。


 地面に尻をついていたその男性は、やや中年太りが目立つ身体をしていた。白髪交じりの頭をしていて、ふっくらとした顔は後十代後半ほどだろうか。瞳は愛嬌があって丸く、タオルを当てる女性使用人に「大丈夫です、お構いなく」と答える声は柔らかい。

 そんな彼を心配そうにして見守っている夫人は、五十代半ばほどといった容姿をしていた。彼女もまた少しふっくらとしているが、小柄で可愛らしさがある。


 綺麗に結い上げられた白髪交じりの髪には、太陽に反射し煌めく装飾品が付けられていた。背筋はすっと伸びていて、表情から指先まで品があり、夫である男を気遣うような動作一つ一つが、まるで着物を着ているかのような印象を与えた。


 地面に放り出された魚を救出するため、動き回っている使用人達の中心には、中学生になったばかりくらいの少女が一人いた。腰まであるブロンドを持った、かなりの美少女である。

 ひらひらのワンピースドレスに身を包んだその姿は、まるで西洋のお人形のようだった。大きな茶色の瞳で心配そうに辺りを窺いながら、彼女は「私の金魚ちゃんは八匹いたのよ」と澄んだ高い声を上げている。


「あちらが桃宮家(ももみやけ)のお客様ですよ、雪弥様」


 一通り水気を取った宵月が、雪弥にそう言った。


「本日いらっしゃったのは、桃宮グループ前代表取締役の勝昭(かつあき)様と、その奥様の紗江子(さえこ)様。そして、アメリカ人だった祖父の血を濃く受け継いだ、末娘のアリス様にございます」


 説明を受けた雪弥は、眩暈を覚えた。脳裏には「この馬鹿者が」と、睨みつけてくる蒼慶の顔が想像されていた。


「…………どうしよう。客人になんて事を……」


 思わず呟くそばで、優秀な執事が顔色一つ変える事なく「大丈夫です、わたくしがおりますので」と述べた。

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