蒼緋蔵邸の訪問者(3)

「それは知りませんでした。『榎林』というのも、名家の一つだったんですね」

「おや、知りませんでしたか。我々の間では有名な話です」


 宵月は、自分を見上げている雪弥を見つめ返すと、何かしら思う事があったかのように、少し間を置いて僅かに目を細めた。


「一族の背景やその歴史を知るのは、名家や財閥関係者には当たり前の事なのです」

「へぇ、じゃあ緋菜も知っているんだ」


 すごいなぁ、と雪弥は呟いて、特殊機関のほとんどの人間が、十桁エージェントの噂や顔を覚えているらしい事を思い出した。その他にも、各部署の重要人物や、共に仕事をする人間を覚えるようにしているのだとか。


 なかなか覚えられない自分とは大違いだ。意識の違いなのか、努力が足りないのか……まぁひとまず、戻ったら夜蜘羅家について調べてみてもいいのかもしれない。

 宵月がもとの位置に上体を戻すのを背後に感じながら、雪弥は新聞をめくった。数日前の仕事の際に出会ったあの男と、異形の者について思い返していたから、その大半の記事を読んではいなかった。


 特殊筋、当主の影、番犬……。


 あの時は、あの男が口にしていた言葉を頭の中に浮かべてみる。しかし、やはり一体なんの話をしているのか、今でもよく分からない。


 有り得ない動きをする異形の者を引き連れており、こちらが手足で壁を砕いたり爪で切断しても不思議がらず、喜ぶばかりで驚きはしなかった。他にも常軌を逸する存在は当たり前のように存在しているのだと、言わんばかりだった気もする。


 あの異形は、新しい人体実験の生物兵器なのだろうか。あんな風なモノは見た事がないのだが、特殊筋というキーワードが関わっているのか。


 そもそも、特殊筋というのは一体何なのだろう?


「…………『特殊筋』」


 思案に耽って、ついぽつりと呟いた。後ろで宵月が、僅かに顔を強張らせた事に気付かず、雪弥はあの男が『蒼緋蔵家の番犬』と、口にしていた事を思い返した。


 自分は一族とは距離を置いているし、何かの勘違いの可能性もあるけれど、兄か父に確認してみた方がいいのだろうか。考え続けても分からないキーワードであるし、ひとまず必要そうであれば尋ねる事を決めて、新聞紙を閉じた。


 その時、開いた大扉の向こうから、階段を下りてくる複数の足音が聞こえてきた。そのまま玄関へ向かうのだろうと思って耳を済ませていたら、段々とこちらに近づいてくるのに気付いて、雪弥は顔を顰めてソファに腰かけたままそちらを見やった。

 先程、書斎室にいた四人の男達が、室内をそろりと覗きこんできた。珍しい物を見るかのような視線を受けて、思わず口をへの字に引き結ぶ。その横で、何あれば対応に代わるというようにして、宵月が背筋を伸ばしたまま一歩前に出た。


 スーツを着こんだその男達は、こちらを訝しげに眺めながら、ひそひそと言葉を交わし始めた。


「確かにその証は見られるが…………」

「本当にあれが…………」

「しかし、それだけでは何とも…………」


 本人を前にして、こそこそ話すという新しい嫌がらせなのだろうか?


 雪弥は、そう勘繰って睨みつけてみたが、それでも男達が歩き出す様子はなかった。昔のように、排除してやるぞと直接行動を移してくる気配はないようなので、ひとまずは相手にしない方が手っ取り早いと諦めて、首の位置を元に戻す。


 勝手に喋って、とっとと帰ればいいのにと思った。こうして珍獣のごとく見られるのも居心地が悪い。彼らが動かないというのであれば、ここは自分の方が場所を移動してしまおうか。多分、その方が早い。


 そう考えていた雪弥は、不意に、ある言葉が耳に飛び込んできて思考が止まった。



「蒼慶様の存在を脅(おびや)かすのでは」



 途端に男達の、ひそひそと続く声は耳障りな雑音と化して、脳裏にその言葉だけがリピートされる。

 誰が発言したかも分からないのに、その言葉だけがやけに耳にこびりついて、背中から足元にかけて、すうっと体温が落ちていくのを感じた。


 思考回路が硬直して、頭の中がほんの数秒ほど真っ白になっていた。動く事も出来なくなって、呼吸が浅くなり急速な息苦しさを覚える。


 分かってる。そう想われている事くらい、はじめから知っているんだ。


 自分は兄にとって、危険な存在には絶対なりはしないのに、こちらを良くは思っていない人間からはそう見える。昔から兄として尊敬していて、足を引っ張るなんてしたくないと強く思っているから、それは微塵にも誤解されたくない部分だった。


 そんなふうに思われたくもない。激情のように強い嫌悪感が込み上げた。小さく聞こえ続けているぼそぼそとした話し声に、胸の内側で一気に苛立ちが膨れ上がって、怒りに似たドス黒い感情が渦巻くのを感じた。


 やっぱり、こんなところにいたくない。


 そう思った雪弥は、弾かれたように立ち上がっていた。振り返って目が合った男達が、驚いたようにしてそそくさと歩き出すのが見えて、ふと、文句の一つでも投げてやりたくなった。


 けれど口を開こうとした直後、ハッとして表情を強張らせた。雪弥は、咄嗟に自身を抱き締めると、両腕で力いっぱい抱えこんで背中を折り丸めた。


「どうなさいました、雪弥様ッ」


 焦るような宵月の声が聞こえたが、雪弥は答える余裕などなかった。強い心地悪さが起こり、今すぐにでも何かを壊したい衝動に駆られて、両手が激しく震えそうになるのを堪えるので精いっぱいだった。


 ごうごうと血が全身を巡る音が、耳元で警告のように鳴り響いている。暴れ出したいほど膨れ上がる感覚に、今にも理性が押し潰されそうになる。


 なんだ、これ。


 両腕を抑え込むようにして、ソファに腰を下ろした。理由も分からず混乱し、雪弥は必死に耐えていた。すぐそばに『人間』が立つ気配を鮮明に感じたが、顔を上げる事が出来なかった。


 今『人間(それ)』を目にしてしまえば、きっと自分はその人を殺してしまうだろう。何故かそんな予感が脳裏を掠めて、それを当たり前のように考えている自分に、余計に訳が分からなくなって浅い呼吸を繰り返す。



 殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺してやりたい。



 込み上げた衝動の言葉が、脳裏には流れ続けている。自分に向けて、無事を確認する宵月の台詞が理解出来ない。ただ、頭の片隅に残った思考が、宵月が人を呼ばない事だけを祈っていた。


 瞬きもせず凝視しているその瞳が、まるで勝手に獲物を探し出そうとするかのように疼いた。身体は冷え切っているはずなのに、両目だけがひどく熱い。

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