蒼緋蔵邸の訪問者(2)

 結局、昼食も食べられそうにないほどケーキと紅茶を堪能した亜希子が、昼食時間をずらす事を提案した。


 緋菜は、その時間まで兄がいるかどうか心配した。雪弥は「いるよ。実は少し、長居する事になって」と苦笑して答えてから、食後の運動をしないかと誘ってきた亜希子の新しい提案については、やんわりと断った。


 敷地内のテニスコートに出掛けた彼女達を見送ったところで、広すぎるリビングのソファに腰かけた。昔からスキンシップの激しいところがある二人と離れてようやく、ほっと肩から力が抜けた。


 運動は嫌いではない。むしろ身体を動かす事は好きだ。しかし、力加減が出来ず、もし二人に怪我をさせてしまったらと思うと、気は抜けない。


 抱きつき癖のある亜希子と緋菜から、出来る限り自然と距離を置いていた。ここにいる自分はナンバー4ではなく、ただの訪問者であるという事を、常に言い聞かせて気を付けている。


 配慮したり気を遣う事は、元々あまり得意ではなかった。疲労感を覚えた雪弥は、ソファの背に頭を乗せて、ぼんやりと高い天井を眺めた。


 家族と楽しそうに交流を深めている様子を、まだ上の階にいるであろう分家の人間に、あまり見られたくない気持ちもあった。テニスコートは、書斎室や渡り廊下から見える位置にあるので、その声も様子も、蒼慶のいる場所には筒抜けなのだ。


 亜希子と緋菜が出て行ってから、どのくらいの時間が過ぎただろうか。ひどく長いその静寂聞いた後、雪弥はとうとう背後に立つ男が無視出来なくなって、つい声を掛けていた。


「宵月さん、兄さんのそばにいなくていいんですか?」

「見張っていろと言われておりますので」

「直球かよ。やっぱり見張り役か」


 ソファの後ろで、背後霊のように立っている宵月を思って、雪弥はソファに身を預けたまま舌打ちした。

 リビングの開かれた大窓から風が入り込んで、癖のない前髪を揺らして形のいい額を覗かせた。それを肌でも感じながら、彼は蒼とも灰色ともつかない色合をした色素の薄い髪と、雪のように白い肌に不似合いに浮いている、真っ黒な瞳を動かした。


「はぁ。そもそも、ちゃんと正論な提案を返したのに、いきなり怒るとか訳が分からないし、出て行けっていう割りには出すなって言うし……一体、何がどうなっているんだか」


 雪弥は呟いて、溜息をこぼした。


「今のうちに問題を解決しておかないと、次の仕事の最中に、更に現状が悪化しそうで怖いんだよなぁ」

「わたくしは、真顔で口元にだけ笑みを浮かべる今のあなた様が――遠まわしで述べますと、気味が悪いです」

「だから、それ直球だよ、『気持ち悪い』と何もニュアンスが変わってないからな。昔から思っているんだけど、なんか僕に対しては、ちっとも執事らしくないな?」


 雪弥は、そこでようやく頭を起こして、ソファの後ろにいる宵月を振り返った。彼は特に表情を変える事もなくこちらを見下ろしていて、「そんな事はございません」と淡々と言葉を返してくる。


 堅苦しさが和らいだような印象を彼から感じて、雪弥は少し顔を顰めた。宵月は無表情のままであり、表情も声もなんら変わりはないのに、どこか今の状況を楽しんでいるというか、嬉しそうな感じがするというか……?


 まぁ、気のせいだろう。


 雪弥は、宵月の身体がクツクツと小刻みに揺れるのを無視して、ガラスのテーブルに置かれていた新聞紙を手に取った。早朝一番に健康検査をされて読んでいなかった事を思い出しながら、何気なくそれを広げて眺め見る。



――『突然死した榎林会長には、莫大な負債があることが判明し、後任についた夜螺羅(よるくら)会長が、会社存続のため全額を返済するなど――』



 何気なく文字を目で追い、大手企業の頭が入れかわったのだなと、雪弥はぼんやり思った。榎林という名を、どこかで聞いた事があるような気がしたが、そのページに載っていた写真を目にした途端、思考がそちらへと切り替わっていた。


 新聞には、財閥の一人である榎林の死を悲しむ、数多くの著名人の名が並んでおり、その記事の隅に『夜蜘羅』と記載された一枚の写真があった。その姿が、前回の仕事の最中、奇妙な化け物と闘わせてきたサングラス男と重なった。


 ひどく大柄なのが、大きな顔と太い首で分かった。黒くはっきりとした凛々しい眉、彫りが浅く頬張った顔は、生粋の日本人というよりは東南系で、鋭い眼差しは自信と好奇心が溢れているように感じる。


 剛毛な長い黒髪を後ろで一つに束ね、面長だがひきしまっている凛々しい顔。笑った顔も、記載されている実年齢の五十三歳より、はるかに若く見えた。


 多分、こいつだろう。


 雪弥は、まじまじと写真に目を留めてから、『夜蜘螺』という変わった名の男の事が載っている文面を、急くように読み進めた。


 夜蜘羅は、中国にある巨大財閥の血縁で、二十年前に日本で立ち上げた会社が、未だ成長中だという。仕事に熱く、独身のまま突き進む彼は、今財界でも注目されているらしい。強い探究心と新しい発想力があって、人望も厚く、企業全体を盛り上げてくれる事を期待する、と、その記事には書かれていた。


「雪弥様は、彼に興味がおありですか?」


 不意に耳元で声が上がり、記事に集中していた雪弥は、うっかり「わぁッ」と声を上げて飛び上がった。

 ハッとして振り返った際、ここへ来てから自分に「僕は平凡なサラリーマンだ」と言い聞かせていた事に安堵した。後ろにいた宵月に少しの敵意もなかったのは幸いで、こちらの手が反射的にでも出なかった事にほっと息を吐く。


 もし、宵月に少しでも悪意や殺意があったとしたら、すっかり思い耽っていた雪弥は、きっと誰かも分からず彼を『反射的に殺して』しまっていただろう。


 そう自分を分析して、ふと、奇妙な違和感を覚えて首を捻った。自分の思考のどこかがおかしい気がしたのだが、その根拠や原因が途端に分からなくなった。


 そんな事を思っていると、宵月が上から「どれどれ」と言って、こちらが持っている新聞を覗きこんできた。


「ああ、この方ですか。大富豪の名家で、とても有名な方ですよ。中国企業ですが、二番目の母親が日本人であった事から、日本語もお上手らしく――榎林という方も、名家のうちの一つですね。彼は、本家を継ぐ事はありませんでしたが」


 確か伯父が当主をやっていらっしゃいましたね、と続けた宵月を、雪弥は目を丸くして見上げた。

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