「ナンバー4」の里帰り、兄との再会(2)

 兄さんは、一体何を怒っているんだ? 僕は当然の事を言っただけじゃないか。


 雪弥は小さく溜息をこぼすと、ソファに腰かけている四人の人間をチラリと見やった。彼らがビクリと肩を震わせ、その緊迫した顔色が薄紅色に染まり始めたが、それが自分に対する怒りなのか、蒼慶への畏れなのか分からなかった。


 失礼のないようにと思ったんだけど、何か間違った言い方でもしてしまったのだろうか。雪弥はそう思いつつも、自分の発言が原因で、温度が五度下がっている蒼慶へと向き直る。

 現在起こっている問題に対して、分家である彼らも納得して、全て穏便に片づく方法を知っていた。だから冷静にこう説いた。


「相続といった権限がないのに、蒼緋蔵家の方々が納得してくれていない現状もありますから。もう色々と面倒なので、僕としては手っ取り早く『この名』を、蒼緋蔵家にお返ししたいと思いっています――いかがでしょうか?」

 

 そう提案を返してみた。


 簡単に言えば、与えられている家名を、母方の名字に変える提案だった。そうすれば、形上は完全なよそ者になるため、一族に関わる『役職』に組み入れられる権利を失う。

 この場の空気や、考えて口にした自分の発言にも疲れてしまい、雪弥は緊張し続けるのも面倒になって、肩から力を抜いた。ソファに座っていた男達が、ぎょっとしたように目を見張るのを見て、何を今更、と訝ってしまう。


 自分が『蒼緋蔵』という家名を与えられている事に関しては、分家の人間がずっと撤回を求めてきた事だった。母の葬儀の日にも、彼らはわざわざその話をしにやってきたくらいなのだ。なのになんで、まさか、という顔をするのだろうか?


 そう考えたところで、ふと、突き刺さる殺意を感じてギクリとした。恐る恐る兄へと視線を戻してみると、蒼慶の顔には、睨みつけるような厳しい表情が浮かんでいる。


 目が合っても、彼は珍しく黙ったままでいた。図太い神経も持ち合せている雪弥は、それを良いように解釈すると、説得を続ける事にして「何度も言っていますけど」と改めて切り出した。


「僕は、蒼緋蔵家の権利だったり、そういうのは何一つ求めていません。兄さんの立ち場を脅かすつもりだってないし、蒼緋蔵家の運営について口を挟む気も全くないんです。それでも納得してくれないのであれば、僕から蒼緋蔵の名前を完全に取り去って欲しい。父さんは、僕の養育費のためにとも言っていたけれど、もう必要ないはずだ」


 家族だから家名を、という理由があったのは知っている。けれど、幼かった頃と違って、雪弥は離れていたとしても『家族』という形がある事を理解していたから、名字への未練はもうなかった。


 肌を刺すような室内の空気に耐えきれず、一人の男が息を呑んだ。静まり返った室内で、蒼慶が机の上で手を組んで口許に押し当てる。その顔には、今にも机をひっくり返して暴言を吐きそうな表情が浮かんでいた。


「それが、お前の答えか?」


 しばらく経った後、蒼慶が低く言った。ソファに腰かけている男達が、チラリとその顔色を窺い、再び雪弥へと目を向ける。その探るような眼差しには、どこか焦りも浮かんでいるように見えた。


 分家の男達の反応を見て、雪弥は変だなと思った。


 一体、何がどうなっているのか分からない。てっきり分家の彼らは、こちらの提案を喜んで押してくるだろうとばかり思っていたから、まるで引き留めなければ、と困惑しているような様子には、強い疑問を覚えてしまう。


「そうです。それが、僕の答えだ」


 雪弥は、ハッキリとそう返した。面と向かって口にするとスッキリしてしまい、ふと、兄の書斎机の右手の窓の向こうに鳥がいる事に気付いて、興味がそちらに移ってしまう。


 鳥って、どこまでも自由そうでいいよなぁ……。


 この場と全く関係ない事を考えていると勘付いて、蒼慶の眉間に、こいつは相変わらず、と言うような更に深い皺が刻まれた。鳥がゆっくりと空を飛び去っていった後で、雪弥はそれに気付いて、あ、まずい、と思った。


「――出て行け」


 目が合った直後、蒼慶が冷たく言い放った。


 恐らく正論だったから、受理するつもりなんだろう。そう思った雪弥は、問題解決とばかりに肩を竦めて、「はいはい」と呟きながら踵を返した。


 開いたままの扉の先には、こちらが出てくるのを待っている宵月がいた。言う事は言ったし、そのまま帰ろうかな――そう考えながら、宵月のもとに向かって室内を出た雪弥は、不意に後ろから蒼慶の声が上がるのを聞いた。


「宵月、そいつをこの屋敷から出すな」


 その声を耳にした瞬間、思わず「はぁッ?」と素っ頓狂な声を上げて振り返った。いつの間に椅子から立ち上がったのか、扉の前には蒼慶が立っていて、一睨みされたかと思ったら、勢いよく扉を閉められてしまった。


 激しい閉音と共に、強い風が顔を打った。それからコンマ数秒遅れで、雪弥は慌てて遮られた戸を叩いた。


「ちょッ、待ってよ兄さん! 出て行けって言ったのに、なんで帰っちゃ駄目なのさ?」

「黙れ、決めるのはこの私だ」


 扉の向こうから、蒼慶が素早く言葉を返してきて、雪弥は続く文句を喉の奥に押し込んだ。十言った罵倒は、百になって返ってくるのだ。


「今すぐ退出する事は許さん。今日仕事が入っていない事は、お前の上司とやらに確認済みだ。もし今日中に戻ってくるような事があっとしても、ヘリに押しこんででも、こちらへ連れてこいと言ってある」

「はぁ? 兄さん、どうして僕の上司を知っているわけ?」

「私は、あんな忌々しい狸大将みたいな野郎は知らん」


 狸大将って……的を射ている。


 つまり、めちゃくちゃ知っているじゃないか……というか、どうして兄が、ナンバー1を知っているんだ?


 質問を投げかけようとしたものの、部屋の中から男達が話し出す声を耳にして、蒼慶が彼らとの話し合いを再開してしまったと知った。開きかけた口を閉じて、扉に添えていた手をどけた。


 そのまま、ここを出て行くことは容易だったが、後が怖いので雪弥はその作戦を諦める事にした。肩を落として項垂れる後ろで、眉一つ動かさないままでいた宵月が「さて」と言う。


「一階へ参りましょう。美味しい紅茶を仕入れてありますので」

「まるで、はじめからこうなると分かっていたくらい、用意がいいですね……」


 思わず扉に額を押しつけると、優秀な執事が「ケーキもご用意してあります」と、すかさず間違った方向のフォローをしてきた。こいつ、めちゃくちゃムカツクな、と雪弥は思った。


「苺とたっぷりクリームの物もございますよ。昔、よく『口に放り込んで』おられたでしょう」

「……あのさ。僕、もういい歳した二十四ですよ……」

「それから、チョコケーキもございます」

「…………」


 こいつは、きっと僕の返答なんて聞いていないに違いない。子供じゃないんだから、と、雪弥は諦めた心境で口の中に呟きを落とした。

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