「ナンバー4」の里帰り、兄との再会(1)

「一つ、先に言っておかなければならない事があります」


 階段を上がった宵月が、二階の広い廊下を進みながら、唐突にそう切り出した。


 久しぶりに見る蒼緋蔵邸の本館内部の様子を眺めていた雪弥は、何だろうと彼を見つめ返して、続く言葉を待った。


「今、蒼慶様は訪問されている方とお会いしている最中です」

「えッ」


 驚いて立ち止まると、宵月が少し眉を寄せて、こちらを振り返ってきた。


「何か問題でも?」

「いやいやいや十分に問題でしょう。なんで来客中の兄さんのところに、僕らは向かっているんですか!?」


 強めに上げた声が廊下に反響するのを聞いて、雪弥は一度口を閉じた。続いて、声を落として「これも兄さんの指示ですか?」と確認してみると、宵月が「はい」と頷き返してくる。


 一体、兄さんは何を考えているんだ? 話している相手が、もし蒼緋蔵家の関係者だったら、実に嫌な鉢合わせになるじゃないか。


 雪弥は、そう思って頭を抱えた。他の人間に知られないよう、こっそり話をつけて帰るつもりで前もって知らせまで出したというのに、来客があるとは予想外だ。このまま窓から出て逃走したくなった。


 宵月は、そんな彼から視線をそらすと、背筋をぴんと伸ばしたまま歩き出した。つられて歩き出そうとした雪弥は、彼の次の言葉を聞いて、完全に足を止めた。



「お相手は、蒼緋蔵家の縁者の方々です」



 え、という声も出なかった。

 脳裏に浮かんだのは、幼い頃から母が他界するまで見てきた親族達との記憶だった。それを思い返した彼の口許には、自然と皮肉気な笑みが浮かんだ。


「…………兄さんは、僕が嫌われていると知っていて、わざと彼らと鉢合わせをさせるつもりなんですか?」


 もしそうだったとしたら、来て早々とんでもない嫌がらせだ、と雪弥は低く呟いた。タイミングとしては、まるで計ったかのように最悪である。

 

 少し先まで歩いた宵月が、立ち止まって、そんな雪弥をじっと観察するように見つめた。


「雪弥様は、蒼緋蔵家の人間が、お嫌いですか?」


 しばらくして、囁くように宵月が尋ねてきた。雪弥は、顰め面で視線をそらすと「好きじゃない」と、拗ねるようにして正直に答えていた。


「顔を合わせるのも、お嫌ですか?」

「それもあるけど、……僕がここに足を踏み入れた、なんて事が分家の人達に知られたら、またあの頃みたいに父さん達が、あれやこれやと色々言われるわけじゃないですか。…………父さんや兄さん達を、困らせたくない」


 雪弥は、まるで自分がここにいたくない理由を探しているような気もしてきて、言葉を切った。蒼緋蔵家の人間に会いたくない事を、父達を言い訳に遠ざけているだけではないのかと、そんな事を思ってしまう。


 チラリと見つめ返してみたら、質問をどうぞ、と言わんばかりの宵月と視線がぶつかった。


「……これもまた、兄さんの指示なんですか? 来客中であっても通せと?」

「はい。次期当主、蒼慶様がお決めになった事です。『客人が先にいるが構わず中へ引き入れろ』、との事でした」


 つまり、当初から来客の予定が入っていながら、自分を迎えに行かせたのか?


 雪弥はしばらく悩んだ。よく分からないけれど、そもそも兄の考えている事を理解するのが難しいのだ。だから、このまま書斎室へ向かう事を決めた。ここで断ってしまうと、あとが怖いような気もする。


 再び廊下を進み出しながら、死角さえ見当たらない完璧な君主という兄像である、蒼慶の幼い頃の事をぼんやりと思い返した。


 初めて会った時、彼は顰め面で無口だったが、好奇心多盛でドジな妹を守る、頼もしい兄だったのを覚えている。あの頃、雪弥が人見知りをして母の影に隠れている中、走り回る妹に付いて、あちらこちらを行ったり来たりしていたものだ。


「う~ん、あの頃はまだ可愛げが――あ、いや、やっぱりないな。うん、使用人を顎で使っていたし……」

「何かおっしゃいましたか?」


 足音ばかりの静かな廊下に、その独り言と宵月の問いが響き渡った。絶対聞こえていただろうと思いながらも、雪弥は「なんでもないです」と言って溜息を吐いた。


 右側の壁に、窓と絵画が交互に並んでいる廊下が、しばらく続いた。左側には時折、デザインが微妙に異なる扉が現れては、進行方向とは逆の方へと遠ざかっていく。

 窓から差し込む日差しで廊下は明るく、二人の革靴音だけがコツコツと響いていた。それからしばらくすると、宵月が金細工の装飾が施された扉の前で立ち止まった。


 雪弥は、扉の向こうに複数の人間の気配を察した。話し声の方ではなく、無意識に『生きている人間』の心音を探り、兄以外の人数と位置を割り出していたら、宵月が扉をノックした。


「蒼慶様、雪弥様をお連れ致しました」

「許可する。入れ」


 ナンバー1とは違い、声は若くてしっかりとしていたが、それでも厳しい印象があって威圧感を覚えるものだった。


 電話で何度も聞いている声とはいえ、今日はまた一段と機嫌が悪そうだ。そう感じた雪弥は「面倒だなぁ」「嫌だなぁ」とぼんやり思いながら、最後は諦めの心境で肩を落とした。浅い呼吸を二回、瞬き一回で心の準備は整った。


 蒼慶に会うだけなら、ここまで気が重くなる事はないだろう。先に来ている客人の反応を想像し、そこで蒼慶の威信を傷つけないよう配慮しなければならない事が、負担になっている。


 宵月が身を引いたのを感じ、雪弥は伏せていた視線を上げた。なるようになれ、と投げやりな気持ちで、兄の書斎室のドアノブに手を伸ばした。


「失礼します」


 そう言って扉を開けると、広々とした室内が現れた。そこには、重々しい書斎机に腰を落ち着けた蒼慶と、ソファに腰を降ろす四人のスーツの男達の姿があった。


 四人は、三十代後半から五十代ほどの面々で、身に付けている腕時計やネクタイピンなどの高級品が目に留まった。嗅覚を意識的に遮断しなければならない香水の匂いが鼻をついて、一歩踏み込んだ位置で立ち止まると、気付いた彼らが一斉にこちらを向いてきた。


 新たな客人へと目を向けた一同が、そこに雪弥の姿を認めて、ハッとしたように目を見張った。長椅子に深く腰かけていた蒼慶が、片手を上げてざわつき始めた場を鎮め、上体を椅子の背から離して雪弥を見やる。


 彫りの深い目元、鼻筋まですっと整った美しい顔。それは男性神と象徴されてもおかしくはない美貌で、持ち前の、見方を変えれば凶悪にも思える仏頂面でも美麗さが薄まる事はなく、雪弥は男性として完璧な容姿をした兄を見つめ返した。


 現当主と同じ赤みかかった少しだけ癖のある髪に、ラインの入った高級スーツから覗くすらりとした長身の肢体。顔立ちだけでなく、ちょっとした仕草の何もかもが西洋の貴族を思わせたが、彼の背負う威圧感は、室内に更なる緊張した空気を溢れさせている。


 久しぶりだ、という言葉を掛ける事もなく、兄弟はしばらく見つめ合っていた。無愛想な蒼慶が、秀麗な眉を顰めるのを合図に、雪弥は会釈をして緊張の感じられない表情で口を開いた。


「お話しの途中、失礼します。本日は、先日に電話で伺った、あなたの提案を『お断り』するべく参りました」


 ほんとはこのタイミングで入りたくなかったんだよ、という気持ちが滲んだほぼ棒読みの言葉が、静まり返った室内に響き渡った。


 その途端、室内の緊張が一気にぴりぴりと張り詰めた。こめかみにピキリと青筋を立てた蒼慶が、「ほぉ?」と問う低い呟きを上げて、僅かに片頬を引き攣らせる。

 四人の男達が、今にも気圧されて死にそうな顔で小さく震えた。雪弥は彼らからやや遅れて、兄がひどく怒っている事に気付いた。

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