「ナンバー4」の里帰り、蒼緋蔵邸(2)
「えぇと、その、まぁ兄さんの事ですからね。あの性格からすると、買い物とか映画館は、ちょっと難しい気もするというか……」
雪弥は、口の中でもごもごと言った。あの兄が仏頂面のまま、映画館で炭酸飲料を飲み、デパートで女子の買い物に付き合っている光景を、想像する事が出来ないでいる。
「でも、そうか。父さんとも少し話したかったんだけど……それなら仕方ないか。さくっと兄さんのところに行って、帰ろうかな」
「あら、すぐに帰るつもりなの? 急がないでもいいじゃない、雪弥君。私とお茶しましょうよ」
そう提案してきた亜希子を見つめ返して、雪弥は「そういうわけにはいかないんです」と続けた。
「長居はしないもりなので、兄さんに話をつけたら、さくっと帰ります」
「雪弥様。わたくしは許可されない限り車を出しませんし、ここにはレンタル車もありませんからね」
「自分の足で帰れるから、平気ですよ」
言葉を掛けてきた宵月に目を向けず、そう答えた時、「えぇ! お兄様すぐに帰ってしまうのッ?」という可愛らしい声が聞こえてきた。
雪弥は声の方へ目を向けたところで、リビング側の開かれた大扉からやって来る女性に気付いて、やや遅れて「久しぶり」と少し申し訳なさそうに声を掛けた。すると、彼女がこちらに向かいながら「もうっ」と肩を怒らせる。
「お兄様ったら、まずは他に言う言葉があるでしょ?」
そう強く言いながら足を進めてくる華奢な女性は、妹の緋菜(ひな)だった。長い黒髪を背中に流した日本美人で、亜希子に似たハッキリと整った小さな目鼻立ちに、怒っても怖さを覚えない、可愛らしい大きな黒い瞳をしている。
今年で二十三歳になるのだが、童顔であるため十代後半に見える。それでも、彼女が絶世の日本美人である事に変わりはなく、年頃になってからは求婚も絶えないらしい。
以前、亜希子が「うちの娘は、自分で結婚相手を探すから他を当たりなさい!」と一喝したという話を、雪弥は緋菜の成人式の日に聞いた。緋菜自信も、困ったように「会った事もない女の子に、いきなり求婚の手紙を寄越するのも、変よねぇ」と呟いていたものだ。
緋菜は、母である亜希子のような気の強い感じはない。大抵は怒っていても可愛らしいのだが、今回は少し違っているようだ。ずっとこちら睨みつけている。
そのため雪弥は、どんどん距離を詰めてくる緋菜を前に、どこかでヘマをして怒らせてしまったのだろうか、と返す言葉を慎重に考えた。最後に会った成人式や、その後の電話でのやりとりを思い返すものの、これといって身に覚えはない。
「久しぶりだね、緋菜。あ、少し髪も伸びたかな」
ひとまず空気を変えれば、彼女の機嫌も直るのかもしれない。そう安易に考えて、笑顔で一番無難な言葉を口にしてみた。
そうしたら、緋菜が片眉を怪訝そうに引き上げた。目の前に仁王立ちしたかと思うと、精一杯怒った表情を作ってこう言い放ってきた。
「雪弥お兄様、私は怒っているのよ? それにっ、まずは挨拶!」
緋菜は、つま先立ちをして兄の顔を覗きこんだ。雪弥は降参のポーズを取りながらも、やはり出て来ない言葉のかわりに「うん、久しぶり」と返した。
心底困っているような、下手くそな愛想笑いだった。それを目にした彼女は「仕方ないわね」と言って少し息を吐くと、いつもの穏やかな表情に戻した。
「お帰りなさい、お兄様。本当に久しぶり。……二年も顔を見せないなんて、ひどすぎるわ」
「うん、ごめんね。仕事が忙しかったんだ」
緋菜は、その言葉の真意を問うように彼の瞳を見つめた。それから、「知ってる?」と幼い表情で続けて、二年ぶりに会う兄を確かめるように、今度はそろりそろりと身体を近づけた。
「私、もう二十三歳になるのよ? 最後にお兄様に会ったのは成人式の日、その前は高校の卒業式だけだったわ」
「僕も、二十四になったよ。兄さんは、来月で二十八歳だね」
大切な兄妹だ、誕生日や年齢を忘れた事はない。アメリカにいた時も、当日に間に合うようプレゼントを贈っていた。
すると緋菜が「そんな事じゃないったらッ」と言って、亜希子の後ろに隠れるように踵を返した。彼女の腕に細い両腕を回してから、ちらりと雪弥を見やる。
「毎年、誕生日プレゼントも届くけど…………、でも本当は電話でもいいから、もっとお話したかったし、会いたかったのよ? だって、ここがお兄様の家でしょう? お仕事で忙しいのは知っているけれど、時間を見つけて会いに来るぐらい、いいじゃない」
そう口にして、緋菜が頬を膨らませて視線をそらす。
雪弥は何も答えられなくて、困ったように微笑んだ。浮かぶ言葉は、いつも『ごめんね』だ。けれど、またしても彼女を泣かせるかもしれないと思ったら、それを口にする事は出来なかった。
そんな彼の様子を見て、亜希子が助け舟を出すように、母親らしい笑みを浮かべて自分の腕にしがみついている緋菜を呼んだ。
「緋菜、駄目よ。雪弥君は、自分の力で生活しているのだから、仕事だってとても大切なのよ。それは分かるでしょう?」
「でも、お母様……こんなにお休みもなく頑張っているのに、お兄様が今でも普通のサラリーマンなんて、ひどすぎるわ。あっちこっちに仕事で行かされるなんて、まるでパシリじゃないの」
あ、確かに。
雪弥は、つい心の中で呟いて、ぽりぽりと頬をかいた。簡単な仕事であると、帰りがけにナンバー1に買い物を頼まれる事も多い。一番面倒なのは「お前今K県にいるな。よし、じゃあ隣のA県にいって、あの名産品を買ってこい。私は今すぐそれが食べたい」という注文である。
ナンバー1は、遠い場所の買い物を頼む割りに「早急に帰って来い」と言ったりする。他のエージェントに頼めよ、と返せば「お前に頼んだ方が早いから嫌だ」とわがままを言ったりした。全く、とんだ上司を持ったものである。
「まぁ、上司って大半がわがままだから……」
思い出しながら、雪弥はそう相槌を打った。その視線がそれされた横顔を見て、緋菜が愛らしい瞳を潤ませた。
「お兄様、苦労されているのね。お可哀そう……」
亜希子が、とうとう堪え切れない様子で「ふふっ」と小さく笑った時、静かに見守っていた宵月が「雪弥様」と声を掛けた。彼が振り返ると、続いて亜希子と緋菜を見やって淡々と口を動かす。
「雪弥様は、蒼慶様と大事なお話しがありますので、この辺りで失礼したいのですが」
「あら、そうだったわね」
亜希子は思い出しように言うと、雪弥に視線を戻して、少し弱気な笑みを浮かべた。緋菜が「お母様。雪弥お兄様は、蒼慶お兄様となにかお話があるの?」と尋ねる声には答えず、遠慮がちに言葉を続ける。
「昼食ぐらいは、食べて行くでしょう?」
それは押しつけではない、切実な母親としての希望だった。もう十数年、共に食事を取っていない。
最後に皆で食事をしたのは、いつ頃だっただろうか。そこには幼い自分がいて、彼の母の姿があって――それすら、もう随分昔なのだと、雪弥は今更のように気付いた。
「兄さんと話してみて、その……タイミングがあえば」
だから、ぎこちなくそう返した。彼女達を思えばこそ、長居する事は出来ない身だ。迷惑はかけられないと思う。
亜希子は、その言葉と表情で察したのか「仕方ないわね」と吐息をこぼした。
「お兄様、昼食ぐらい、食べて行って?」
緋菜が、小首を傾げつつ尋ねてきた。雪弥はとうとう何も答えられなくなって、困ったような優しげな微笑を妹に返すと、その場を後にするように宵月の後ろを歩き出した。
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