「ナンバー4」の里帰り、兄の執事(1)

 兄の専属執事である宵月は、白髪が目立った剛髪をピシリと後ろへ撫でつけ、執事服に蝶ネクタイまで決まっていた。覚えが確かであれば、六十代ではあるはずなのだが、やはり背筋はピンと伸びて若々しい。


 鋭い眼差しに感情は浮かんでおらず、相変わらず愛想のない無表情だった。高い背丈は日本人の平均を超えており、今もなお衰えない様子で胸板も厚く、執事らしく丁寧に揃えられた手の指もしっかりしている。


「本日はお休みなのでは?」


 畑作業に入った男に別れを告げた雪弥を、黒塗りのベンツへと案内しながら、宵月が自身よりも背丈の低い彼をチラリと見やって言う。


「まぁ、休みではありますけど、癖みたいなものですかね。これといって私服を着る機会も、あまりないですから」

「そういえば、昔から制服かスーツ姿でしたね」


 宵月が、思い出すようにして視線を正面に戻す。スーツ姿がしっくりくる事について考えていた雪弥は、説得力のあるたとえに思い至って「宵月さん」と呼んだ。


「アレですよ。兄さんが曜日も関係なしに、スーツとかで仕事しているのと同じです」

「きちんと休日はございます。あれは社交です」


 裏表もない呑気な口調から、週末の様子について言っているのだろうと察して、宵月が横顔を向けたままぴしゃりと言った。ベンツの前に立つと、彼を振り返り言葉を続ける。


「蒼慶様専用のお車ですので、傷つけないようお願い致します」

「…………なんでわざわざ、兄さんしか使っていない専用車を寄越すんですか」


 他に何台も車があっただろう、と言いたくなった。何故なら蒼慶は、基本的に他者にプライベート空間を入られる事や、自分の物をどうこうされるのを嫌っているからだ。客人を乗せる車など、用向き別に揃えていた。


 先にそんな言葉を言われてしまったら、更なる逃走を謀るわけにもいかず、雪弥は素直にベンツへと乗り込んだ。滑るように走り出した車内で、半ば諦め笑みを浮かべ、車窓からゆっくりと流れて行く風景を眺める。


「……宵月さん、乗せる前に言った台詞って、簡単に言っちゃえば脅しみたいなもんですよね」

「効果は十分でございましたでしょう、雪弥様」

「やっぱり脅しかよ。つか、なんで僕が兄さんの車に乗らなくちゃいけないんですか? そもそも、迎えに宵月さんを寄越すとも聞いていないんですけど」

「全ては蒼慶様のご命令です。今朝、迎えに行くようにとの指示を頂きましたので、こうして主人のおそばを離れ、わたくしがお迎えに上がりました」


 主人という言葉を聞いて、雪弥は運転する宵月をバックミラー越しに見やった。その辺はちっとも変わっていないなと思ったら、元々蒼緋蔵家の他の使用人達には、愛人の子として良く思われていないせいもあって、滅多に彼以外の迎えがなかった事も思い出した。


 そのせいかもしれない。そう解釈して、納得する事にした。


「宵月さんって、相変わらずですね」

「貴方様も、二年前とお変わりありませんね。わたくし達が、こうしてお会いするのも、緋菜様の成人式以来であるという事は、お分かりですか?」


 チラリと、バックミラー越しに宵月が視線を返してくる。雪弥は、はじめに挨拶するべきだった言葉があったと遅れて気付き、小さな苦笑を浮かべた。


「うん、言い忘れていてごめん。二年ぶりですね、お元気そうで何よりです」

「相変わらずな棒読み、お見事でございますね。二年という歳月の長さが、どれほどのものであるのか、どうやら貴方様には、よく分かっていないようですね」


 どうしてか、呆れられたような短い溜息を吐かれてしまった。雪弥は質問を投げかけようとしたのだが、突然車が加速したせいで「うわっ」と、声を上げてシートに背中を当てていた。運転席から、「失礼致しました」と上辺だけ丁寧な言葉が上がった。


 緑の自然ばかりが続く道を、速度を上げた高級車がひたすら進み続ける。


 長い沈黙の中、雪弥は流れて行く景色をしばらく眺めていた。再び、バックミラー越しに宵月がこちらを見つめてくる視線に気付いて、目を向けて問うた。


「宵月さん、なんですか?」

「髪、染められましたか」


 宵月が視線を正面に戻しながら、そう言う。


 抑揚のない質問の言葉を聞いて、雪弥はきょとんとした表情を浮かべた。しばらくして、ようやくその質問の意味が理解出来て、視線をゆっくりと自分の前髪へと向ける。


「とくに染めてはいないですよ。昔から、こんな色じゃなかったですかね」


 色素の薄い自分の前髪を指先でいじる。そんな雪弥を、宵月はバックミラーでチラリと見やると「そうですか」淡々として言い、再び視線を前に戻して別の質問を投げかけた。


「十数年ぶりの蒼緋蔵家の土地は、いかがですか?」

「特に変わってないなぁというか、こんなに田舎だったんだなぁ、とか?」

「約二十年、離れていた土地ですからね」


 わたくしが貴方様と、初めてこちらでお会いした時は、今より約二十歳も若かった――


 宵月が、思い出すように口の中で小さく言った。雪弥は「そうだったかなぁ」と言って首を傾げたところで、今回の帰省についての家族の反応を思い出し、つい苦笑を浮かべてしまった。


「電話でも、父さんや亜希子さんが、ようやく来てくれるって言って喜んでくれたけど、正直、僕にはそんな実感はなくて。二年前の緋菜の成人式の会場でも、少し顔を見せる事は出来たし」


 思ったままそう口にしながら、雪弥は窓の外へ目を向けた。


「それに僕は、父さん達みたいに喜べないんですよ。正直、ここへ来る事も出来る限り避けていたのに。こうやってて屋敷に足を運ぶ事で、父さん達の立場がぎくしゃくするんじゃないかって思うと……なんだか嫌だなぁ」


 ぽつりと、本音が口からこぼれ落ちた。言いながら脳裏に思い起こされたのは、蒼緋蔵家に頻繁に訪れている分家の大人達の事だった。


 高級スーツに身を包んだ男達が、幼い自分と母の紗奈恵を見ると、まるで汚物を見るかのように顔を顰める。そのたびに張り詰めたような心地悪い空気が流れて、繋いでくれていた母の手が少し強張ったのを、雪弥は覚えていた。

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