第3話

「きっと気に入ると思うよ。明るい栗色の髪に、大層綺麗な顔をしているのにさ、黒の瞳だなんてもったいないよ。白い肌に色素の薄い髪なら、薄紫も綺麗に映えると思うんだ。ねえ、どうだい? 俺達の見えている世界は、それは美しいよぉ。黒目で過ごした十数年が、馬鹿らしく思えるほどさ」

「どうすればいいんですか?」

「一言、こう言えばいい。『その薄紫の瞳と交換してください』ってな」


 黒猫が、猫撫で声で言って笑いました。


「なあに、俺は約束はきっちり守るよ。丁寧に交換してあげるよ。俺は『じゃあ後は自分で眼球に入れな』って眼球を放り寄こしてバイバイする男じゃあないよ。とっても親切で、可愛い黒猫なんだ」


 僕はうなずいて、黒猫の言う通りにすることにしました。目を閉じると、昼間の世界の明るさが、瞼の裏を通して眼球に染みました。


「その薄紫の瞳と交換してください」


 僕はそう言いました。


 黒猫が「ごろにゃん」と舌なめずりをしたのが分かりました。


 彼が僕の両目を一瞬でえぐり取りました。僕の視界は、またたくまに墨で塗り潰したかのような黒に染まりました。


「交換した瞳を、姫様に盗られない保証はゼロではないよ」


 彼は、喉の奥で嗤いました。屋敷から出ないならまあ大丈夫だろう、と含み笑いをもらします。


 その姫が持っているという、柘榴色の瞳が脳裏を過ぎりました。どれほど素晴らしい美しさを持った瞳なのか、僕はとても興味がありました。


 ――そんな瞳と交換できたら、と微かに考えました。


 ぽっかりと空いた僕の眼光が別の眼球で埋まると、明るい光が視界に大きく広がって目の奥に刺さりました。目を開けてみると、地面にいる黒猫の姿と、上空の風景が左右ばらばらに動いて焦点が定まりませんでした。


 黒猫が右眼を、僕が左眼に指を突っ込んで、眼球の向きを調整し、ようやく視界が定まりました。


 薄紫の瞳は、それはそれは素晴らしいものでした。


 緑の葉の一枚一枚がはっきりと視界に映り、風がまとってふわりと揺れていく様子まで見えました。その風が吹き抜けていくたび、より一層世界が美しく輝くのです。


 青い空を見上げてみると、遥か彼方まで晴天が澄んで広がっていきます。広く近い大空に落ちてしまうという錯覚はなく、広大な空の世界が、僕らの世界の中で膨張し続けているようでした。


「うふふふ。よく似合うよ、お兄さん。じゃあね」


 黒猫が僕の眼球を尻尾でくるんで、上機嫌に去っていきました。


 そして祖父の屋敷の門は、午前十一時ちょうどに開きました。


 着流しの祖父が、先月会った時と変わらぬ様子で僕を出迎えました。小さくて丸い祖父の瞳は灰色かかり、どこかその茶色を浮かび上がらせていて綺麗でした。


 祖父は僕を見ると、僅かに眉根を寄せて小首を傾げました。


「お前、自分の目はどうした」

「交換したんです」

「そうか」


 祖父は納得したようで、僕を招き入れて歩き出しました。


 玄関まで続く石畳はきちんと清掃され、落ち葉は一つも見られませんでした。


             ◇◇◇


「明日には死ぬだろう」


 寝室に荷物を運びこんだあと、祖父はいつものように床の上に腰を下ろすと、唐突にそう切り出しました。


「明日の晩までは、どうも越せそうにない」

「じゃあ、明日おじいさんが死ぬとしたら、明後日に母さん達を呼べばいいのですか?」


 祖父は「そうだ」と肯定したあと、僕にも約束事を改めて確認させました。


 電話回線は、午前十一時から午後六時までの間だけ繋ぐこと。午後六時までには、屋敷内すべての戸締りをしなければならないこと。午後六時から翌朝の太陽が出るまでは、寝室にいなければならないこと――。


「他にもあるが、あとで教えることにしよう」


 祖父はもともと口数の少ない人でしたから、僕は積極的な祖父の様子に少し驚いてしまいました。彼はすべての土地を売買することを決めており、入るお金の分割内容もすべて遺書に記して準備してある、と教えてくれました。


 話を聞くに、祖父の方は準備をすでに終えていることを知りました。死に装束は支払いが済んでいるので、老舗※※店で受け取るように、ということまで決まっていました。


 屋敷にある細々とした荷物や置物についても、どうするかといったことを詳しく分類して遺書には書き記した、と祖父は長い時間をかけて語りました。難しい内容が多かったので、僕は相槌を打ちながらも、話の内容を忘れていきました。


 祖父は、表情もしっかりとしていて口調もはきはきとしていました。それでも、体力はひどく弱り衰えたままでした。話し出して十数分後には横になり、そのあとは息を整える時間を挟みながら語っていました。


 色鮮やかに映る世界の中でも、その光景は古い写真の色をしているような気がしました。けれど、以前の眼球とは比べ物にならないほど、綺麗です。


 過去の時間が艶やかに蘇り、古い時代の空気を呼び戻して輝いているようでした。話す祖父の身体は、昼間の世界の眩しい光りをまとい、やはり僕は寝室の隅に座って飽きもせずに彼を眺めていました。


 屋敷の中では、非常にゆっくりと時間が流れているようでした。陽が傾き出した頃、僕と祖父は寝室で遅い昼食をすませました。


 食後に薬を飲むと、祖父は眠そうに目をこすり始めました。――最近は眠りが長くなっており、明日の朝日が昇るまでは起きないだろうと僕に告げ、祖父は床に横たわると、続けてこう言いました。


「午後六時までには、すべての戸締りを済ませなさい。そして、お前は決して寝室から出てはいけない。夜になると縁側から尋ねる者があるが、『いいえ』とだけで、他には口も耳も貸してはいけないよ」


 眠気に勝てず目を閉じた祖父は、うわ言のように、しばらく同じ約束事をぼそぼそと喋っており、僕は再三聞いたあとで「わかりました」と答えました。すると祖父は、安心したように静かな眠りへと落ちて行きました。

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