第4話

 祖父の屋敷には電球がありません。日が沈めば真っ暗になります。祖父は早く寝てしまうものですから、必要としていなかったのでしょう。今回は僕のために蝋燭を用意してくれていました。


 蝋燭立てと、箱にしまわれた新品の蝋燭、マッチと水筒、家から持ってきた本を揃えて僕の準備は整いました。


 寝室は東に面しているので、太陽が西に傾くと薄暗さを覚えるのですが、薄紫の目は全くそんなことを感じさせませんでした。


 視界は十分に明るく、茶色くなった古本もすらすらと読み進めることができました。これほど心地良い読書は、生まれて初めてです。じっと座って読み続けていても、全く眼に疲れはありませんでした。


 そして、僕は、午後五時に屋敷の門を閉めました。広い屋敷の塀に沿ってぐるりと歩き、他に入口がないことを確認してから、屋敷の戸締りを始めました。


 見取り図もないものですから、今まで一度も進んだことがない廊下を、右や左に曲がって三重になっている木戸、ガラス戸、障子を次々に閉めて行きました。


 黄昏の光りが、障子にぼんやりと遮断されて薄暗さが広がりましたが、やはり僕の眼はよく見えていました。どこまでも鮮明な色合いで、畳み部屋と廊下の続く光景に美しさを感じました。


 午後五時五十分にはすべての戸締りを終え、僕は祖父のいる寝室へと戻ると、続く畳の間に腰を下ろして蝋燭を灯しました。


 太陽は山の向こうへ傾いてしまい、祖父の屋敷は急速に夜に包まれていきました。それでも、まだ明るい黄昏の光が障子越しに眩しく思えて、僕には蝋燭の灯りがひどくちっぽけに見えました。


 昼間の余韻が残っていたのでしょう。締め切られた寝室にある二人分の呼吸と、蝋燭の熱が蒸し暑さを感じさせました。


 じっとしていれば隙間風を僅かに感じるので、僕はいつものように隅に座りこんだまま本を読みました。顔を上げると横になっている祖父の足が覗き、東の方向には外の明るさをぼんやりともらす障子があります。


 完全なる夜が訪れると、風が冷気をまとって隙間から染み込みます。


 ちっぽけだと感じていた蝋燭の灯りは、部屋の半分を煌々と照らし出してくれるほど明るいものでした。


 台風で家が停電した際、蝋燭や懐中電灯で何も見えやしないと苦労したのに、不思議なものです。眼を交換したおかげなのでしょうか。


 本もすらすらと読めるものですから、眠気も退屈も感じませんでした。眠くなれば寝るだけですし、眠くならなければ本を読むだけです。その間、僕は祖父に言われた言葉を守っ寝室で過ごせばいいのです。


 寝室には、祖父の細い寝息が続いていました。途中、それが止まってしまうのではないかと不安になりました。


 けれど、祖父は翌朝に最後の目覚めを迎えなければなりません。僕は思い出すたび安堵し、そして蝋燭が半分になった頃には時間も忘れるほど読書に耽っていました。


 どのぐらい、そうしていたでしょうか。


 祖父の寝室には時計がありません。室内はすっかり冷え切っていました。蝋燭の明かりが温かく感じます。


 僕はだいぶ読み進めた本を脇に置くと、祖父が寒がっていないかを確認しました。体温は十分にあって、寝顔もとても心地よさそうです。


 僕は持ってきたジャケットを自分の足に掛け、読書を再開しました。真っ暗なはずなのに、障子の向こうからは眩しいくらいの月明かりがもれていました。


 ひどく美しい眺めなのだろう。そう思いながらも、僕は寝室の隅から動くことはありませんでした。祖父に、出てはけないと言われていたからです。


 夜の素晴らしい世界を観賞するのは、今すぐにでなくてもできるのです。何も焦ることはありません。この薄紫の瞳は、もう僕の物なのですから。


 不意に、外で人の気配がしました。


 衣が擦れる涼しげな音が近付き、縁側の障子に、小さな子供の影が映ってピタリと止まりました。


「そこにおられるのは※※※様ですか」


 女児とも男児とも取れる、凛と澄んだ声でした。


 ※※※が祖父の名前だとは分かっていたのですが、僕は本へ視線を戻すと「いいえ」と答えました。


「きっと、そちらにいらっしゃるのでしょうね」

「いいえ」

「お顔を見せてくださいまし」

「いいえ」


 障子に映る影が、小さな肩を力なく落としました。そして、とぼとぼと影が障子の向こうへと去って行きました。


 どうやら足音は、夜風と衣の擦れる音に紛れてしまったようです。


 しばらくすると、次は先程よりも頭一個分大きな子供がやってきました。風に揺れる絹のような短髪と、服越しに覗く細い身体のラインに僕と同じ性を感じたので、きっと男児でしょう。


「もし、もし」


 女児に近い男児の声が、問い掛けてきました。


「そちらにいらっしゃるのでしょうか」

「いいえ」

「用件を頼まれております。是非そちらに入れて欲しいのです」

「いいえ」

「他に誰かがいらっしゃるのでしょうか」

「いいえ」


 二番目の訪問者が立ち去ると、次は長い髪を結った少年が障子の前に立ちました。


 また似たような声色で尋ねてきます。僕は相変わらず「いいえ」と答えました。本を傍らに置き、寝室の隅で膝を抱えながら、真っ直ぐ障子に映る影を眺めていました。


 すると今度もまた来ました。四番目の訪問者は、アルトの美しい声を持った少年でした。それが立ち去ると、次は五番目の訪問者がやって来て、青年期に差しかかるしっかりとした声で尋ねてきます。声質も気配も、話し方もみんなそっくりなので、全員血の繋がった兄弟のように思いました。


 六番目の訪問者からは、僕と同じ年頃が続き、質問の趣向がやや変わってきました。「月がきれいですよ」「夜露が葉先に」と親近感のもてる言葉を呟きます。各々が三つの質問をしたのち、すぐには帰らないで、勝手に数分ほど話して去って行きました。


 どれにも、僕は「いいえ」と答え続けました。


 不思議と疲れはありませんでしたが、耳に心地よい話し彼らの声をもっと聞きたくなり、十一番目、十二番目が帰ってしまうと、次は十三番目、十四番目の訪問者を求めて僕は待ちました。

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