第2話

「死期が迫っている。私はもう、長くない」


 僕が通う専門学校が春休みに入った翌日、祖父は、電話で突然そう告げました。


 本人が自分の死を予告してくるのも、少し奇妙な感じがしました。祖父は滅多に頼み事をしない人でしたが、そばにいて自分の死を見届けて欲しい、と僕に言いました。


 死の見届け。


 その内容には、奇妙な決まり事がありました。


 たった一人しか来てはいけないと、祖父は僕と両親に強く言い聞かせました。その「たった一人」に指名されたのが僕でした。


 祖父は、僕の両親に言い聞かせました。五日の間に死は訪れるので、葬儀の準備を始めておくこと。電話は日が暮れるまでの間しか繋がないので、息子に連絡を取る時は、午前十一時から午後六時までの間にすること。そして、私が死んだから一晩が過ぎるまで待ち、その後に屋敷を訪れなさい――。


 つまり、それまでの間は、僕と祖父の二人きりです。


 僕は、一週間分の荷物を持って祖父の屋敷を訪れました。午前十一時よりも早く着いてしまった僕は、高い門塀の向こうから、祖父が自分で屋敷の中を歩き回っている音を耳にしました。


 サンダルを履いた足音は死期が迫っている様子はなく、水をやる祖父の着流しが擦れる音を聞きながら、僕は厚い木材で出来た門の前でぼんやりと待ちます。


 立派な門がある祖父の屋敷は、とても大きくて広いです。


 門から連なる、屋敷を囲い高い塀に沿って、旧式のアスファルトが細く続いています。屋敷はどこまでも緑に囲まれる場所にあり、頭上を仰ぐと、落ちていきそうなほど空が広く感じました。


 屋敷の門に面した雑草の覆い茂った平坦の地は、すべて祖父の持っている農地でした。四方を囲う山々の向こうには、小さな村がぽつりぽつりとあって、一日に四本通るバスが離れた村同士を行き来しています。


 このあたりも、昔は祖父の屋敷の他にも民家があったそうです。しかし、交通の不便などもあって、次第に他所へ移っていったそうです。


 閉ざされた門の向こうからは、相変わらず祖父の動く気配がしていましたが、僕は声もかけることなく佇んでいました。


 そんなに時間は経っていなかったと思います。


 細い道路に突き出た雑草が、風に揺れて影を躍らせていました。アスファルトに映ったその影がピタリと止んだ時、アスファルトに一つの影が現れましたことに僕は気付きました。


 そこには、一匹の黒猫が歩いていました。知的すら感じる、綺麗な顔立ちをしていました。しかし、肩を項垂れるように歩くその姿は、どこか元気がありませんでした。


 黒猫は僕に気が付くと、おや、というように顔を上げて立ち止まりました。金色の瞳が美しい猫です。


「これはこれは、珍しいお客さんだ」


 猫はそう言い、肢体を滑らかに躍らせると僕の足元で腰を下ろしました。そして丁寧に前足を一つ上げて、「どこから来たのかね」と尋ねてきます。


「※※※の方からです」

「ああ、西の方かい」


 黒猫は陽気に笑いましたが、フッと思い出しように溜息をつきました。


「どうかされましたか?」


 僕が尋ねると、彼は困ったように後ろ足で耳の後ろをかきました。


「いやね、友人がいるんだが――薄紫はそんなに珍しいものってわけじゃないし、あいつの毛色では映えないから心配することでもないと言ったんだけどねぇ。ええ、何度も言ったさ。もううんざりするほどね。でも、とうとう『どうにかしてくれ』て泣きついてきたわけだよ。そりゃ、兄さんほど綺麗な顔でもしてりゃ、そりゃあ薄紫だって宝石のように輝くだろうけれどさ」


 黒猫は一方的に喋りました。独り事に愚痴を言っているような感じです。


「茶色の猫さんなんですね」


 とりあえず僕は、相槌を入れました。すると黒猫は、うんうんとうなずいて続けます。


「顔立ちはあまりよくねえが、目元はまぁまぁハンサムで映える、薄紫の瞳が持った俺の弟分なんだ。あんまりにも怖がってしくしくと泣くもんだから、俺があいつの眼球を預かってさ。二日前から一睡もしないで、山の中を駆け回って、探してやっているんだよ。瞳を交換してくれる奴をさ」

「瞳を交換するんですか?」

「ああ。薄いとはいえ、やっぱりちょっと珍しい色には違いないからねえ。皆、盗られやしないかと怖がって、ちっとも話を聞いてくれないんだ。盗人は金色にはもう飽き飽きしているし、なんならお前の眼と取り替えてやれよ、ってからかわれる始末さ。でも、それじゃあ、だめだね。俺は自分の目が気に入ってる。まあ目立っちまうが、夜目が利くからな」


「金色だと、見え方が違うんですか?」


 僕は荷物を置くと、膝を抱えるようにして黒猫と視線を合わせました。見上げる苦労から解放された彼が「ありがとよ」と礼を言ってから、続けました。


「ああ、全然違うね。青銀色はもっと綺麗に見えるらしいが、まあこの世で一番の柘榴色には敵わないだろうな。うむ、あれほどいい眼はない。金色、銀色の輝きも備えていて、それでいて宝石のように美しい赤なんだ。夜目どころじゃなく、世界のすべてを美しく見通せるだろうよ」


 僕は、柘榴色の瞳に興味を覚えました。黒猫は察したのか、途端に金色の瞳をにぃっと細めて言いました。


「まぁ、興味を持つのはいいけどね。欲しいだなんて思っちゃあいけないよ。あれは、たった一人のお方のもんさ。美しさと恐怖で震え上がっちまうくらい位の高いお姫様のものさ。そもそも彼女かそれ以上の器がなけりゃあ、あの瞳は得られないよ。柘榴色の瞳は、主人を選ぶからねぇ。彼女の初めての男だった『あの御方』がいなくなって、二百年はそのお姫様が――」


 と言い掛けた黒猫が、口をつぐみました。余計な話だったようです。部外者には不要かと呟くと、自分で反省して咳払いしました。


「つまりはさ、薄紫の瞳だって素晴らしいもんだってことだ。夜の美しさを眺める瞳だ。流れる時間と空気が奏でる、世にも美しい俺達の世界を映し出すんだよ」


 兄さん、どうだい。


 黒猫の甘い言葉が、聴覚に絡みつきました。しなやかに覗き込んできた彼を見て、僕はようやく、黒猫の二つの尾に、一組の眼球が包まれていることに気付きました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る