異変 Something Unusual

その時だ。


 敵兵の壁の向こう側から、その周囲の護衛の数から副官クラスと思われる茶色のローブに身を包む男の怪しい声が、ティナの耳に届く。



《大気に満ちるマナよ。我が願いに応え、妖しき眠りの雲を呼べ……アスト・サチュバス・サラモニーク、ス・ユープス、メリローズ!》



「(これは……『眠りの雲』の呪文! いけないっ)」


ティナが皆に警告を発しようとした時には、遅かった。


 彼女の前方に展開していた味方の傭兵達が次々と、不可思議で強烈な眠気に襲われて膝から崩れ落ち、眠りに落ちていく。見事に魔法を成功させたその魔術師は、横に控えていた総指揮官に目配りする。おそらくこの場での最高責任者であろうその敵将は、高々と剣を掲げ、すかさず一斉攻撃の号令を仕掛けた。最前線が総崩れになる。ライルとティナの働きで優勢だったはずの戦況が一気に逆転しかけている。そして彼らの狙いは、その手練れの剣士と炎の精霊使いの女だ。副官・総指揮官までも自ら突撃して士気を上げ兵達を鼓舞し、この一手に勝利を賭けてきた!


「ライルっ! 呪文! なんとかしのいで!」


それだけのティナの叫び。


 たった三言の言葉で、この男は十二分に理解した。答えるより先に体が勝手に動いていた。魔術師とは何度か戦った事もある。呪文の詠唱前に倒すか、呪文を喰らっても、かかりきる前に倒す。攻撃の呪文も一発避けるか耐えるかしのぎきれば、剣の間合いにもっていける。たとえ動けなくなっても、後はティナがフォローしてくれるだろう。なんとかなる。



勝算はあった……はずだった。



 彼の誤算は、『眠りの雲』の呪文に耐え切れなかったせいではない。幾多の修羅場を切り抜けてきた彼の屈強な精神力は、充分に呪文に抵抗していた。彼の頑強な肉体とその剣技が、敵将に及ばなかったからでもない。彼は強烈な睡魔に襲われながらも、敵将と互角以上に渡り合い、ティナを守っていた。



敵は、彼の内側にいた。

彼の心の奥深く。

子供の頃から絶えず彼を蝕む、その心の闇が。



誤算は、対峙した馬上の敵将の口から発せられた言葉にあった。


 それはただ単純に、相手側の非を罵り自らの正統性を主張して、正義がこちらにある事を強調する為の、周囲の兵達が士気を上げ死力を尽くして戦う為の、勝敗を決するこの戦いにわずかでも有利になる為の、ただの常套手段にしか過ぎなかった。




『神をも恐れぬ反逆者達め! お前達は、いわば自分の父を殺したのだ! この恥知らずな父親殺しが!』



 この戦いは、宗教絡みで元々の宗主である旧宗主と、分派した側の新宗主との争いだ。

敵官は、旧宗主側の陣営だ。先日、暗殺された旧宗主を『父』とし、それを暗殺した新宗主側のライル達の軍勢を『子』と例えて表現しているに過ぎないのだろう。



『慈愛に満ちた優しき父を殺した者共よ。己の深き罪を認め、今こそ正義の怒りをその身に受けよ! お前達など、この世に生まれてこなければよかったのだ!!』



 強烈な眠気と戦いの喧騒、血の海……肉体も精神も限界近くに達する中での耳に届いたこの言葉、傭兵である彼にとってどうでも良いはずの、全く関係の無いはずの言葉に、彼の心は激しく動揺していた。



「ち、違う。違う! 俺じゃない。俺が殺したんじゃないっ!!」



彼の額に不自然なほどに大量の汗が噴き出している。

眠気だけでなく、凄まじい頭痛が彼の心を追い詰めていく。


「違う! 違う! 違う! 違うっ!! ううっ……うぐうっ……」


 突然彼は、嘔吐した。自分で驚き口を拭うも、吐き気は止まらない。胃の中の物が全部出尽くしても、その吐き気は止まらなかった。訳のわからぬ事を呟き、急に動きの鈍った彼の様子に、敵将は何かの罠かと訝しむ。



 一方、副官の魔術師と対峙し攻防を続けていたティナは、指揮官と対峙していたライルの体が急に勢いを失い、ぐらりと不自然に揺れるのを見た。眠りの雲に耐え切れなくなったのだと判断し、一時的に炎の精霊達の意志のままに闘わせて魔術師を任せ、彼をサポートすべく駆け寄る。必要であれば護身用の短剣で彼の体を傷つけてでも、その痛みで眠りの呪縛から解放しようとしたのだ。


 背を向けた彼女に、魔術師は次なる得意の呪文を投げかけた。『緊縛』の呪文だ。相手を自分の意のままに金縛りにする中級クラスの呪文。気づいたティナは足を止め、呪文に対して精神集中して抵抗を試みる。


 棒立ちになってしまった彼女に、敵兵からの刃が迫る! 素早い炎の精霊キリーも間に合わない。強烈な眠気と頭痛、吐き気に動けず膝をつくライルの目の前で、ティナが刃物に刺されようとしていた。



「(ライル、助けて……!)」


必死で呪文に抵抗する彼女からの、声にならない悲鳴。

ライルは、動けない。



 危機に陥る彼女の姿が、そして思うように動けない自分の体が、あの時の悪夢と重なる。冷たく光る父の刃。刺される母と妹……普段は心の片隅に追いやり、考えないようにしているはずの遠い記憶と罪悪感。しかし、決して消える事の無い痛みと悲しみ、憤り。



また、助けられないのか? 俺は、俺は……



「ちくしょう、ちくしょう、クソったれがあああ!」


激しい怒りに満ちた野獣の如きライルの叫びが轟いた。

彼の意識は、そこでプツリと途切れた。



 ライルの気質が明らかに変貌した。彼の全身から、恐ろしいまでに残忍で暗い憎悪と憤りに満ちた、禍々しい気の爆発をティナは感じ取る。


と、彼の姿が視界から消えた。



 ティナの目が彼を視界の端に捉えた時、自分に刃を向けていた敵兵の首が足元に転がっていた。彼が助けてくれたのだろうが、その動きが見えなかった。おそらく、彼女が瞬きする刹那の瞬間にライルが動いたとしか思えない。常軌を逸した、人間業とは思えない素早さだ。


 殺戮の炎に燃えるライルは、信じられない程の力とスピードで、鬼神のごとく敵をなぎ倒してゆく。胴体から真っ二つになった人間が、ライルの四方に飛び散る。盾を構える者もいるが、ライルは盾ごと頭をやすやすと叩き斬ってしまう。騎馬で襲いかかる槍を飛びすさってすれ違う瞬間、ライルは騎手の胴体を甲冑ごと真っ二つに弾き飛ばす。



 彼が駆け抜けてゆく周りに、たちまち人間の死骸が積み重なってゆく。普段のライルの戦闘能力を遙かに超えた、凄まじいまでの力である。先程までの見事な技も何もない、ただ圧倒的な力と信じられない素早さで、次々と相手を薙払ってゆく。


『あ、悪魔だっ!! 』


 ライルの人間離れした動きと反応、そして残忍な闘い振りに、敵勢に恐怖が広がってゆく。たちまち足並みが崩れ、陣形が崩れ始める。


『怯むなっ! 相手はたった一人だ。取り囲め!!』


 彼を目の前で取り逃がした敵の指揮官は、必死で声を張り上げる。その声に、悪鬼のような表情を浮かべているライルがピクリと反応した。向きを変え、再びその指揮官の方へと斬り込んでくる。


「将軍を守れっ! 奴を止めろっ!!」


 指揮官の前に、たちまち人の壁が立ち塞がる。しかし、ライルは獣のような雄叫びをあげながら真っ直ぐ突っ込んでくる。人の壁をものともせず、斬り込むライルの左右に首が飛び、胴体を半分斬られ、脳天から胸まで切り倒された肉塊の山が折り重なってゆく。剣を持ったまま断ち切られた腕や首、肉片が飛散する。


 たちまち指揮官のもとへと辿り着いたライルは、敵将に抜く間も与えず、バッと跳躍して馬上の首を遙か後方へ撥ね飛ばした。指揮官を失った敵勢が、総崩れになる。



 あまりにも素早いライルの動きに、呪文を無駄に外し続けていた敵副官の魔術師も、この状況に戦列の立て直しに専念し退却すべきだと判断した瞬間。


 炎の精霊キリーが男の体に巻き付き、紅蓮の炎で彼を焼き払っていた。瞬時に理解した魔術師は『耐火』の呪文を試みるも、焼け付く痛みに精神集中を妨げられ、絶叫と共に絶命した。自力で緊縛の呪文を打ち破り、身体の自由を取り戻した炎の精霊使いの女性の足元で。



 指揮官も副官も失った敵軍は、悪鬼のような男と、この美しい炎の精霊使いを目の前にして、もう刃を向ける事なく、恐怖で顔を歪め必死で散り散りに逃げ去って行った。味方の軍勢も、これを見て一気に追撃を開始した。ライルからもうかなり離れた所にいる敵軍へと向かって、突撃をしている。




 不気味な静寂が訪れたこの戦場で、相方の無事が心配になったティナは、素早く周囲を見渡す。少し離れた丘陵の上に、彼は居た。目の当たりにした普段とは全く違う彼の闘いの様子に何とも言えない不安を抱きつつも、心配がそれ以上に彼女の心を、足を突き動かす。



 無残な死骸があちこちに横たわり、血に染まった戦場に、肩で息をしながら一人立ちつくすライルの姿が取り残されている。頭から足まで全身返り血を浴び、べっとりと血に濡れて光る長剣を右手に構えたままだ。そんなライルに、ティナが駆け寄ってくる。


「ライルっ! 大丈夫なのっ!?」

「ぐ……く、来るなっ!!」


ライルの叫び声が辺りに轟いた。ティナはその声に歩を緩めた。


「ライル?」

「来るなっ、ティナ!! 今来るとおまえを殺しちまうっ!! だから、俺に近づくなっ!!」



 近寄りかけたティナが、ライルのその叫びを聞いてビクリと足を止めた。確かに彼の体から、これほど離れていてもビリビリと恐ろしいまでの殺気が伝わってくる。



「お前だけは殺したくねえ!! 頼むから、戻ってくれっ!!」



 ライルは苦しげな叫びをあげる。なんとかして必死で振り絞ったような叫びであった。そんな異様な彼の姿に、戻るべきか、それとも彼の側に居るべきか、唇を噛みしめ心配で泣き出しそうな顔をしながら迷っていたティナの前で、操り人形の糸が切れたように、ライルは倒れた。限界を遥かに超えた肉体と精神への負荷のせいだろう、手足が不自然に痙攣し、いくら吸っても足りない酸素を補充しようと過呼吸に陥っている。


 彼女は、たまらなく不安で心配になって、ライルの元に駆け寄った。もし、ライルが跳ね起きて自分に襲いかかってきても、それでもいいと思った。




何度も何度も、さっきも私を助けてくれた。

こんなになっても、私だけは殺したくないって言ってくれた。

だったら、構わない。殺されてもいい。

こんな所に彼を放っておけない。




 ライルは、気を失っていた。その目尻から、あとからあとから、とめどなく涙が溢れている。意識を失い譫言を繰り返している。力無く静かに呟くライルの声。



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『違う、違う……俺じゃない。俺が父さんを殺したんじゃない。違う……違う』


ティナは、眉をひそめた。何? 何なの?


『いや、俺だ。俺がこの手で、父さんを殺したんだ……そうだよ、そうなんだ……母さんも、カイアも守れなかった……だから、母さんもカイアも、俺が殺したんだ』


『俺のせいでみんな死んだんだ……俺なんて、生まれてこなければよかったんだ』


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返り血を浴び意識の混濁したその男の頭を、そっと胸に抱き上げて、ティナは顔に頬を寄せて語りかける。届かないかもしれない言葉を、それでも彼に伝えたくて。



「違うわ。あなたが一人で必死に生き抜いてきてくれたから、私はこうしてあなたに会えた。あなたって、傭兵らしくないよね。他の男達とは、全然違う。私は、あなたに会えてよかったと思ってる。あなたに守ってもらえた。正気を失った傷だらけの心でも、それでもあなたは私を守ってくれたでしょ? こんなにボロボロになるまで。あなたは優しい。だから、だからもう、自分をそんなに責めないで」




ライルに頬を寄せるティナの瞳から、涙が零れ落ちた。



「(何があったの? 何があなたの心を、こんなにも激しく苦しめているの? 私、あなたの事もっと知りたい……)」

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