第2話 青い姫君




 大使館の官舎を抜け、ジェシカは街を歩いていた。

 さっき猫を見た場所に行ってみるつもりだった。

 ジェシカの国はヨーロッパの端にある小国で、裕福とは言えない。

 近年では宗教間の対立が強く、テロのようなものも頻発している。

 海外視察といえども、気を抜いてよい状況ではなかった。

 そして先月、王宮に爆弾が仕掛けられ、爆発が起こった。

 死者は出なかったが、ジェシカの飼っていた猫が巻き込まれて死んだ。

 ジェシカは泣いたが、悲しみを分かち合ってくれる者は居なかった。

 猫のために泣いている暇はないと周囲は言う。

 テロは他の場所でも起きていて、時に何十人と人が亡くなる。猫に構っている暇はないという理屈も分かる。

しかし、理屈と感情は別の物だ。ジェシカにとって、飼いネコは家族の一員だった。心は悲しみに沈み、立ち上がれないほどの苦痛が彼女を苛んでいた。親も兄妹も、それを分かってくれない。それがジェシカには耐えがたかった。

 そんな時、飼っていたロシアンブルーと瓜二つの猫を見かけた。

 冷静でないのは分かっている。愚かなことをしていると思う。

 それでも、彼女は飼い猫の影を追わずにはおれなかった。

 家族を失った彼女の心はそれほどに傷ついていた。

 ジェシカは痛む心を抱えて、先ほどの道に向かっていた。

「悲鳴?」

 歩道を進んでいると、遠くで争う声を聴いた。

 細道の先を進むと、工場のような地域に寂れたビルが建っているのが見えた。

「喧嘩かしら……」

 作業着を着た男たちが鉄パイプを持って何かを追いかけている。

 子供より背の低い影はまるで踊るように鉄パイプを避け、男たちを打ち倒してゆく。

 影がすれ違うたびに男たちは足の骨を砕かれ、倒れ伏す。

 ジェシカは起こっていることが理解できず、黙ってその様子を見つめた。

 男たちは静かになり、小さな影はビルに入った。

 しばらくして、小さな影はジェシカの方に歩いてきて、街灯の下に立った。

「猫!」

 ジェシカは声を上げる。

 猫は気が付いてジェシカを見た。

 彼女の顔を確認してから、あきれたように首を振った。

「おい、子供は寝る時間だ」

 マクベスは眉間に皺を寄せた。

「猫が喋った!」

 ジェシカは目を見開いて驚く。

「マクベスだ、お嬢ちゃん。猫が喋っちゃ悪いのかい?」

「悪いわよ。そんなのありえない!」

「あんたが知らないだけだ。子供だからしょうがないんだろうがな」

 堂々としたマクベスの様子に、ジェシカは混乱する。

 太った猫が渋いおじさんの声で喋るのに思考が追いつかない。

「嘘よ! しゃべる猫なんていないわ。誰かが驚かそうとしているんでしょう!」

「そりゃあ、自意識過剰ってもんじゃないのかい? あんたが驚こうが腰をぬかそうが、そんなもんどうでもいいことだ」

 マクベスは腕を組んだ。

「じゃあ、何よ。どうやって喋っているの?」

「何? 説明なんかいらないね。俺はただの猫だ」

「私の飼っていた猫は喋らなかった」

「無口なんだ」

「私はあの子を家族だと思ってた、それなのに黙ってたって言うの?」

「言わない愛もあるさ、言葉ってのは誤解を生む。使わない方が分かり合えることが多い。少なくとも俺以外の猫はそう思ってる」

 マクベスは肩をすくめてみせる。

「じゃあ、あなたはなぜ喋るの?」

「誤解を恐れてないからだ。俺みたいな器量の悪い猫を好きになる人間なんていない。どう思われようが、これ以上嫌われやしないさ」

「あなただけだとしても、猫が喋ったら新聞に載るはずだわ!」 

 ジェシカは声を荒げる。のらりくらりとかわすマクベスに苛立っていた。

「どうかな。現に載ってない。なぜだと思う? 人間が信じたくないからだ。自分はこの世で一番賢い生き物だと信じたい。そうでないと都合が悪い。だから、〈猫の忍者に襲われる〉と叫んでも誰も信じない」

「人間が猫より馬鹿って言いたいの? そんなわけ無いじゃない!」

 茶化すような口調で言われ、ジェシカは顔を赤くして言った。

「本当に人間は賢いか?」

「当り前よ」

「たくさん人を殺す武器を作れば、たくさん人が死ぬ。毒を海に流し続ければいつか自分も毒の水を飲むことになる。そんなの猫でも分かることだ。そんなことをなぜ人間はやっている? 賢いからか?」

「それは……」

 ジェシカは言葉に詰まった。

「自分を賢いと思っている奴はだいたい馬鹿だ。猫でも知ってる。まあ、世間知らずの姫様をやりこめてどうなるもんでもないがな」

 つまらなそうに首を振ってマクベスは夜空を見上げた。

「私を知っているの?」

「テレビに出ていたからな。お姫様」

「馬鹿にした言い方はやめて」

 茶化した言葉使いにジェシカはむくれた。

 何か言い返してやりたかった。

「それに、あなたを好きになる人間が居ないって話、間違ってるわ」

「何がだ?」

「あなたを好きになる人間はいるわ。だってあなた私が飼っていた猫にそっくりなんだもの」

 眉間に皺を寄せていたマクベスは、目を丸くした。

 すべての人間に嫌われる顔だと思っていた彼にとって、王女の言葉は驚きだった。

「大人をからかうな」

「私より年が上とは思えないけど」

「お前の十倍は生きてる」

 答えて、マクベスは鼻をひくつかせた。

「ところで、あんたは公道を歩いていて大丈夫な立場か? 複数の人間が見張ってる」

 慌ててジェシカは周囲を見回す。道の先で自分を観察する人影が見えた。

 彼女は息を飲む。

「火薬の臭いはしない。奴らはただの監視員だ。さっさと帰りな」

「そうね、さよなら」

 ジェシカは冷や汗をかいてその場を離れた。

 監視する気配もそれを追いかけて消える。

 彼女の背中が見えなくなるまで、マクベスは見送った。

「猫が家族か……俺には縁のない話だ」

 マクベスは呟いて、月を見上げた。




 ジェシカは大使館に帰り、ベッドにもぐりこんだ。

 海外の視察にまでテロリストが追ってきていることが、怖くて仕方がなかった。

 王宮で爆発があった日の事が頭から離れない。

 耳をつんざくような轟音が響き、宮殿が揺れた。

 爆風と噴煙が建物の中に満ち、人々は訳も分からずに怒鳴り合う。

 ジェシカは家族の無事を確認して、飼っていた猫がいないことに気が付く。

 名前を呼び、警備員や家政婦たちに猫が居なかったかと訊く。

 周囲が止めるのも聞かずに猫の姿を探し、爆発の現場にたどり着く。

 そこにあったのは、変わり果てた飼い猫の姿だった。

 家族を殺された痛みが、傷口を開いて血を流した。

 眠ることも出来ず、朝が来た。

 ジェシカは起き上がって鏡の前に立った。そこには目を充血させた顔があった。

 昨日の事を話し、今日は休ませてもらおうと考えた。

 髪を結っていると、ドアが乱暴にノックされる。

「はい」

 ドアを開けると、マルコム叔父が眉間の皺を深くしてジェシカを睨んでいた。

「昨晩抜け出したそうだな」

「それは――」

「いい加減にしろ、周りの迷惑が分からないのか!」

 マルコムに怒鳴られ、ジェシカは目線を落とした。

「申し訳ありません」

「謝るのは私にじゃない。お前が出て行ったせいで責任を取らされる大使館の職員や警備員にだ!」

「はい」

「大使には私が言っておく、今日の視察は一人で行きなさい」

 苦々しい顔でマルコムは彼女を睨んだ。

 視察と聞いて、ジェシカは慌てる。

「あの、私昨日怪しい男を見たの。黒い服を着た男が私を見張っていたわ」

「それはどこで見たんだ」

 きつい声で言われて、ジェシカは言葉に詰まる。

「抜け出した時になんだな」

「はい」

「警護のSPに行っておく」

 吐き捨てるように言って、マルコムは行ってしまった。

 本当は視察を休みたかったが、とてもそんな雰囲気ではなかった。

 あきらめたようにジェシカは部屋で身支度を続けた。

 

 空は曇天で、朝だというのに町は暗かった。

 車に乗ったジェシカはSPと運転手に声をかけ、視察場所の博物館に向かった。

 彼女は怯えたように窓の外を見た。道を行く人々が皆自分を監視しているように思えた。

 寒さを感じたようにジェシカは上着をかき合わせる。

 信号が青に変わり、車が発信した。

 その前を影が駆ける。

「止めて!」

 運転手がブレーキを踏むと、車の前を黒い犬が横切った。

 犬はまるで車を恐れていないようにゆっくりと道路を歩く。

 その姿に違和感を感じた。

「止めちゃだめだ!」

 SPが怒鳴った。

「え?」

 爆音が響き、車の下のマンホールが爆発した。


                  つづく


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