第4話
後ろから和尚が追ってきそうな雰囲気は感じなかったが、葵は先を急いだ。50分をほど登ると開けた場所に出た。登山道の左右は一メートルほどの背丈のクマ笹に囲まれていた。
雨は上がり、雲間から黄色みがかった午後の空が見えた。
スマホを取り出し時刻を確認した。
15時54分
なんとか、明るいうちに寺につけるかもと安心した。肩を回した。ひどい筋肉痛だった。太ももとふくらはぎをマッサージする。握りこぶしをつくり、硬直した肩と首筋の筋肉に人差し指の第二関節をぐいぐいと押しこんだ。
ゆっくりしていたら、また歩けなくなりそうだ。先を急ごうと一歩を踏み出した。6、70メートルほど先のクマ笹の草薮がガサガサと揺れた。
風じゃない。前にもう一歩踏み出そうか迷ったとき、突然、腕をつかまれ近くの笹薮に引きずりこまれた。
恐怖で声も出なかった。笹薮に引き込んだのは、あの和尚だった。怒りがこみ上げてきた。
「ありえないぐらい、しつこい。どうやって」
といった葵の口を和尚は、慌てて手でふさいだ。
「し、静かに。俺しか知らないショートカットだ。とりあえず落ち着け、きっとあれは熊神さまだ」
さきほどから音を立ていたクマ笹の
でかい。
葵の腰から力が抜け、腰から下の感覚がなくなった。本当に腰は抜けるんだとか、場違いだなとか、髪がべとついて嫌だなとか、勝手に考えが次から次へと浮かんでは消えた。
体勝手も震えだしたし、面白くもおかしくもないのに顎も勝手にガクガクと笑った。熊は、ランウェイを歩くファッションモデルのように腰をふり、左右のクマ笹の出来でも確認するかのように首も左右にふり近づいてきた。
和尚は、真似ろ、と命令すると路傍に立つ地蔵様のにように草薮を背に熊に向かって小声で読経を始めた。熊は、10メートルほどこちらに近づいたところで歩みを止めた。
息を吸うのも辛い。もう、どうして、みんな勝手なの。葵は、両手を胸の前できつく握った。何かしていないと気が変になりそうだったので葵は、和尚の声をなぞるように少し遅れて声を出した。とても、和尚のように熊の方を向くことはできないので、自分の膝小僧あたりを見るようにうつむいた。目をつむった。
和尚の声に合わせて知らぬお経を声に出しているうちに、なぜか次々と疑問が湧き上がってきた。
なぜ、この男は逃げずに私の隣にいるのだろうか。
腰を抜かした私をおいて逃げてしまえば自分は助かるだろうに。
今日は震えてばかりだ。
寒いから?
それと怖いから?
熊は、どちらを先に襲うのだろうか。
和尚が先で、私が後か。
若いあたしのほうが美味しそうだから、あたしが先か。
いや、やせっぽちの私より、食べでのある和尚のほうが先か。
でも和尚は、お経を正しく唱えているから、やっぱりあたしか。
和尚は、私が食べられている間に、走って逃げるだろうか。
もし先に和尚が襲われたら、
食べられている間に私は走って逃げられるだろうか。
はやくしてほしい。
心臓が口から飛び出るかと思うほどに脈打った。
和尚なの。私なの。
どっちなの。
どっちも?
葵の肩に何かが触れた。
目をつむったまま、キャアー、ヤアー、ワアなどと叫び、めたらやったらに両腕を振り回した。
葵は、背中から羽交い締めされた。和尚が耳元で諌めた。
「暴れるな」
葵は、片目を開き、辺りをうかがった。
「く、熊は」
「熊神さまは、お帰りになった」
低く垂れ込めていた雲はいつの間にか散り散りになり、雲の切れ間から夕日が二人を照らしていた。和尚が羽交い締めを解いた。
勝手に涙と鼻水が葵の口に流れ込んだ。両手で先程よりも小刻みに震える自分の体を抱きしめた。和尚が葵を背中から包み込むように抱きしめた。
「どうして、震えがとまらないの」
「生きたいからだろう」
「大人なら、私を助けて見せてよ」
「ああ、任せておけ」
葵は、和尚の袖で鼻水をふきながらうなずいた。
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